百二十三話 犬の一日
文字数 2,605文字
客としてやってきた白木の表情は、穏やかではなかった。
「おはようございます。素敵な夢は見られましたか?」
白木は都を黙って見ている。都は余裕のある笑みを浮かべていた。
「・・・貴方は何者なんです」
「『極東の魔女』、でしょう?」
「実はね、都さん。田崎浩に巻き付けられていた布と、おたくのジャスミンの毛の成分が、一致したんですよ」
「あら」
「なんの成分かはわかりませんが、形がまるっきり一緒だと・・・」
「それで? それがなんの容疑の、なんの証拠になるのかしら?」
「悔しいことに、なんの証拠にもなりませんでした。田崎浩について調べるのも、もうやめろと言われてしまいましてね。諦め・・・、ますよ」
都は挑発するように牙を見せて笑い、頷いた。
「夢の話でしたね。ジャスミンの一日を見ましたよ」
「あら、可愛い夢ですね」
「話しても?」
「どうぞ」
白木は呼吸を整え、表情を穏やかにした。
「ふかふかの上等なベッドで寝ていましてね。あの男に頬をちょんちょんとつつかれて目が覚めました」
「白い布の男ですね?」
「そうです。男は自分の瞼の下をちょんちょんと指でついて示しました。男の目に映っていた私の姿は、大きな白い犬でした。もぞもぞと衣擦れの音がして、隣を見ると、都さん、貴方が寝ていました。私は自分がジャスミンになっているんだと確信しました」
「あら、寝顔を見られただなんて恥ずかしい」
「ハハハ。朝五時になると目覚まし時計が鳴って、私は貴方の顔を舐めて起こします。起きた貴方に連れられてキッチンに行くと、貴方は冷蔵庫からなにかの液体を取り出して、それを鍋で温めます。野菜のにおい、でしょうかね。とても良いにおいで、それを嗅ぐと腹が減って堪らなくなるんですよ。貴方はドッグフードを野菜のにおいがする液体でふやかすと、専用の台のようなものに乗せて私に食べさせました。食後はガムを貰って食べるのですが、これが歯茎の間に入って気持ち良いんです。ジャスミンにもこんなことを?」
「ええ。液体は野菜の煮汁ですね。野菜の煮汁は健康に良いのです。台は、大型犬は内臓が大きいので、丁度良い高さで食べさせないと空気を取り込んでしまって身体に良くないのです。ガムは毎食後、歯磨きに」
「成程成程。食事を終えた私は、自由気ままに過ごします。淳蔵さんにブラッシングしてもらったり、仕事をしている美代さんの足元でごろごろ転がってちょっかいを出したり、身体を鍛えている直治さんを見ていたり。昼食を作っている千代さんの横顔をじーっと見つめて、胡瓜のヘタを貰ったりね。そういえば、昨日の昼食のサラダには胡瓜が入っていましたな」
「ということは、昨日の出来事を見ていたのかもしれませんね」
「そうですね。私は昼過ぎ、キッチンにある、裏庭に出られるドアの前で待ちます。食器を洗いに来た千代さんが私に気付いて外に出してくれました。私は庭の正面に回り込んで、噴水の中に飛び込みます。浮かんでいるおもちゃで暫く遊んだあと、ベンチの上に寝転んで身体を乾かしながら昼寝をします。夕方になると、淳蔵さんと千代さんが出てきて、私にハーネスとリードを着けると、重厚な門扉を開けて外に出て、軽く散歩をしました。敷地内を散歩させるのではないのですね」
「ええ」
「散歩から帰ってくると、はは、敷地内のお気に入りの場所で花を摘みます。夕方五時になると、私はキッチンに行きます。貴方がまた鍋で野菜の煮汁を温めていて、腹が空いて空いて仕方がない。私が食事と歯磨きを終えると、貴方は私の目や耳、爪の伸び具合を確認してから自由にします。私はもう疲れてしまって、貴方の部屋に行き、ベッドの上で寝転ぶと、あっという間に意識がなくなり、気付いたら人間の私がジャスミンを見下ろしていました。横にはあの男が立っていました」
「あら」
「男はジャスミンの首輪を取り外すと、自分の首に着け直し、嬉しそうににっこりと笑いました。その顔が見惚れるほど綺麗でね。私は問いました。『君はジャスミンなのか?』と。そして手帳とペンを男に渡しました。男はたった三文字、こう書いて私に渡しました」
白木は手帳の一ページを千切り取り、ペンで文字を書く。
「『YES』」
「その通り。『極東の魔女』、夢を操っているのは貴方ではなく・・・」
かちゃかちゃ。
ジャスミンの足音。
「・・・この犬、ですかな?」
ジャスミンは腹を出して寝転がり、尻尾をブンブン振って白木に友好の意を示す。
「勘ですか?」
「勘です。しかしこの犬を徹底的に調べれば、確証になるかもしれない」
「勘なんてものを頼りに愛犬を差し出せと?」
白木は沈黙し、膝の上で握っていた手を太腿に添えた。
「どうぞ、やってごらんなさい」
「・・・なにを、です」
「隠し持っている拳銃で私を撃つ」
俺達の間に緊張が走る。白木が悔しそうな表情をした。
「どうぞ、やってごらんなさい」
都はうっとりするような笑みを浮かべている。
その時、
雨も降っていないのに雷が鳴った。
談話室が真っ白になる。
その中に浮かび上がったのは、
ジャスミンと同じ色の瞳と首輪をした、
白く美しい男だった。
全身が冷えるような表情で白木を見つめていた。
「どうぞ、やってごらんなさい」
そこに居たのはジャスミンだった。尻尾をブンブン振りながら首をきゅるんと傾げている。白木はじっとりと汗を掻いていた。ゆっくり、ゆっくりと膝に手を乗せ直し、ぎゅっと拳を握る。都はゆっくりと首を横に振った。
「貴方みたいな木っ端役人が立ち入っていい領域ではないわよ」
「フ、ハハ、ハハハッ、ハハハハハッ!」
白木は爆笑した。
「無事に定年を迎えて穏やかな老後を過ごしたいのなら、今後は大人しくしていることね」
「・・・帰ります。また、来ますよ」
「またのお越しをお待ちしております」
チェックアウトし、白木は帰って行った。
「おジャスジャス! 良い子ですねェ」
千代が怖気付くことなくジャスミンを撫でる。俺達、とんでもない相手を『馬鹿』呼ばわりしているのではないか?
「直治、今後も白木から予約がきたら優先的に通してちょうだい」
「は、はい」
「では皆様、ご機嫌よう」
都が去っていく。ジャスミンは談話室の入り口でくるんと一回転すると、にぱっと笑って談話室を出て行った。
「・・・俺、あいつ怖くなってきたわ」
「俺も・・・」
「・・・なんで犬なんてやってるんだろうな。犬ってそんなに面白いのか?」
「かもしれませんねェ」
千代がくすくす笑った。
「おはようございます。素敵な夢は見られましたか?」
白木は都を黙って見ている。都は余裕のある笑みを浮かべていた。
「・・・貴方は何者なんです」
「『極東の魔女』、でしょう?」
「実はね、都さん。田崎浩に巻き付けられていた布と、おたくのジャスミンの毛の成分が、一致したんですよ」
「あら」
「なんの成分かはわかりませんが、形がまるっきり一緒だと・・・」
「それで? それがなんの容疑の、なんの証拠になるのかしら?」
「悔しいことに、なんの証拠にもなりませんでした。田崎浩について調べるのも、もうやめろと言われてしまいましてね。諦め・・・、ますよ」
都は挑発するように牙を見せて笑い、頷いた。
「夢の話でしたね。ジャスミンの一日を見ましたよ」
「あら、可愛い夢ですね」
「話しても?」
「どうぞ」
白木は呼吸を整え、表情を穏やかにした。
「ふかふかの上等なベッドで寝ていましてね。あの男に頬をちょんちょんとつつかれて目が覚めました」
「白い布の男ですね?」
「そうです。男は自分の瞼の下をちょんちょんと指でついて示しました。男の目に映っていた私の姿は、大きな白い犬でした。もぞもぞと衣擦れの音がして、隣を見ると、都さん、貴方が寝ていました。私は自分がジャスミンになっているんだと確信しました」
「あら、寝顔を見られただなんて恥ずかしい」
「ハハハ。朝五時になると目覚まし時計が鳴って、私は貴方の顔を舐めて起こします。起きた貴方に連れられてキッチンに行くと、貴方は冷蔵庫からなにかの液体を取り出して、それを鍋で温めます。野菜のにおい、でしょうかね。とても良いにおいで、それを嗅ぐと腹が減って堪らなくなるんですよ。貴方はドッグフードを野菜のにおいがする液体でふやかすと、専用の台のようなものに乗せて私に食べさせました。食後はガムを貰って食べるのですが、これが歯茎の間に入って気持ち良いんです。ジャスミンにもこんなことを?」
「ええ。液体は野菜の煮汁ですね。野菜の煮汁は健康に良いのです。台は、大型犬は内臓が大きいので、丁度良い高さで食べさせないと空気を取り込んでしまって身体に良くないのです。ガムは毎食後、歯磨きに」
「成程成程。食事を終えた私は、自由気ままに過ごします。淳蔵さんにブラッシングしてもらったり、仕事をしている美代さんの足元でごろごろ転がってちょっかいを出したり、身体を鍛えている直治さんを見ていたり。昼食を作っている千代さんの横顔をじーっと見つめて、胡瓜のヘタを貰ったりね。そういえば、昨日の昼食のサラダには胡瓜が入っていましたな」
「ということは、昨日の出来事を見ていたのかもしれませんね」
「そうですね。私は昼過ぎ、キッチンにある、裏庭に出られるドアの前で待ちます。食器を洗いに来た千代さんが私に気付いて外に出してくれました。私は庭の正面に回り込んで、噴水の中に飛び込みます。浮かんでいるおもちゃで暫く遊んだあと、ベンチの上に寝転んで身体を乾かしながら昼寝をします。夕方になると、淳蔵さんと千代さんが出てきて、私にハーネスとリードを着けると、重厚な門扉を開けて外に出て、軽く散歩をしました。敷地内を散歩させるのではないのですね」
「ええ」
「散歩から帰ってくると、はは、敷地内のお気に入りの場所で花を摘みます。夕方五時になると、私はキッチンに行きます。貴方がまた鍋で野菜の煮汁を温めていて、腹が空いて空いて仕方がない。私が食事と歯磨きを終えると、貴方は私の目や耳、爪の伸び具合を確認してから自由にします。私はもう疲れてしまって、貴方の部屋に行き、ベッドの上で寝転ぶと、あっという間に意識がなくなり、気付いたら人間の私がジャスミンを見下ろしていました。横にはあの男が立っていました」
「あら」
「男はジャスミンの首輪を取り外すと、自分の首に着け直し、嬉しそうににっこりと笑いました。その顔が見惚れるほど綺麗でね。私は問いました。『君はジャスミンなのか?』と。そして手帳とペンを男に渡しました。男はたった三文字、こう書いて私に渡しました」
白木は手帳の一ページを千切り取り、ペンで文字を書く。
「『YES』」
「その通り。『極東の魔女』、夢を操っているのは貴方ではなく・・・」
かちゃかちゃ。
ジャスミンの足音。
「・・・この犬、ですかな?」
ジャスミンは腹を出して寝転がり、尻尾をブンブン振って白木に友好の意を示す。
「勘ですか?」
「勘です。しかしこの犬を徹底的に調べれば、確証になるかもしれない」
「勘なんてものを頼りに愛犬を差し出せと?」
白木は沈黙し、膝の上で握っていた手を太腿に添えた。
「どうぞ、やってごらんなさい」
「・・・なにを、です」
「隠し持っている拳銃で私を撃つ」
俺達の間に緊張が走る。白木が悔しそうな表情をした。
「どうぞ、やってごらんなさい」
都はうっとりするような笑みを浮かべている。
その時、
雨も降っていないのに雷が鳴った。
談話室が真っ白になる。
その中に浮かび上がったのは、
ジャスミンと同じ色の瞳と首輪をした、
白く美しい男だった。
全身が冷えるような表情で白木を見つめていた。
「どうぞ、やってごらんなさい」
そこに居たのはジャスミンだった。尻尾をブンブン振りながら首をきゅるんと傾げている。白木はじっとりと汗を掻いていた。ゆっくり、ゆっくりと膝に手を乗せ直し、ぎゅっと拳を握る。都はゆっくりと首を横に振った。
「貴方みたいな木っ端役人が立ち入っていい領域ではないわよ」
「フ、ハハ、ハハハッ、ハハハハハッ!」
白木は爆笑した。
「無事に定年を迎えて穏やかな老後を過ごしたいのなら、今後は大人しくしていることね」
「・・・帰ります。また、来ますよ」
「またのお越しをお待ちしております」
チェックアウトし、白木は帰って行った。
「おジャスジャス! 良い子ですねェ」
千代が怖気付くことなくジャスミンを撫でる。俺達、とんでもない相手を『馬鹿』呼ばわりしているのではないか?
「直治、今後も白木から予約がきたら優先的に通してちょうだい」
「は、はい」
「では皆様、ご機嫌よう」
都が去っていく。ジャスミンは談話室の入り口でくるんと一回転すると、にぱっと笑って談話室を出て行った。
「・・・俺、あいつ怖くなってきたわ」
「俺も・・・」
「・・・なんで犬なんてやってるんだろうな。犬ってそんなに面白いのか?」
「かもしれませんねェ」
千代がくすくす笑った。