三百二十三話 僕とデートを
文字数 2,366文字
僕は、桜子と一条の甘美な夢を見て、どうしても桜子と話がしたくなった。しかし、何故か今日は姿を見ない。彼女は休日なのだろうか。
「あの・・・」
「はい」
妻に対する僅かな恐怖を持ちながらも、メイドに話しかけてみる。
「桜子さんは、今日は?」
「出勤していますよ。呼んできましょうか?」
「ああ、いえ、結構です」
断ってしまった。なんと話をすればよいのかわからないことに今更気付いたからだ。
「失礼します」
メイドが去っていく。僕はどうしたものか考えた。一目でいいから、桜子を、見たい。客が自由に出入りできるのは、食堂と書斎と談話室。書斎に本を借りに行き、談話室で読もう。桜子が書斎に居るかもしれないし、働いているなら談話室の前の廊下を通り過ぎるかもしれない。僕は早速書斎に本を借りに行った。桜子は居ない。長く時間を潰すため、煉瓦のような分厚さの本を借りた。
談話室に行くと、男が一人、ソファーに座って雑誌を読んでいた。長い髪、長い手足。男は僕と目が合うと雑誌を閉じ、座ったまま会釈した。そして再び雑誌を開き、読み始める。彼も一条家の息子だろう。僕は男の左手にある一番奥のソファーに座る。
「あの」
「はい」
僕が呼びかけると、男は雑誌をまた閉じた。
「少し、お話を」
「なんでしょう」
男は鋭い目付きに似合わず、にっこりと笑う。
「あ、失礼。高藤賢一と申します」
「一条淳蔵です」
「あの・・・、」
言葉が詰まる。
「あの、桜子さん、は、今日はお勤めですか?」
「ええ、出勤しています。彼女がなにか?」
「あっ、と、なにかというわけではないんです。綺麗な女性だなと、吃驚してしまって・・・」
「ああ・・・、本人には、あまり言わない方が、」
「えっ、何故です?」
「彼女、男性が苦手なんです」
僕は面食らった。何故だか『あの夢』が急に現実味を帯びた気がした。
「な、何故、男性が?」
「詳しく聞いたことはありませんが、父親と不仲だったそうで、それが原因だとか」
「そう、ですか・・・。彼女は何年前からここに?」
「二年ですね」
「二年・・・。今時珍しいですね、『メイド』だなんて」
「ハハ、確かにそうですね」
「・・・彼女に、」
唇が、震えた。
「彼女に一目惚れをした、かもしれません」
彼、淳蔵は、ぱちぱちと瞬いたあと、少し首を傾げながら目を閉じた。
「高藤さん、」
「わかっています。不倫はよくないことだと。ですが、僕はもう、妻に、栄子に疲れてしまって・・・」
大人しく気弱な女性だったはずの栄子は、結婚して、かわった。僕の行動を制限するようになり、やがて束縛するようになり、今は、支配されている。
「高藤さん、失礼を承知で申し上げますが、前提が間違っています」
「は? 前提?」
「不倫もそうですが、『恋愛』というのは双方合意の上で成り立つものです。ですから、桜子に気持ちがなければ不倫すら成り立ちませんよ」
にこ、と淳蔵は微笑んだ。
「僕は、彼女の一番でなくてもよいのです」
僕の台詞に、淳蔵は目だけを開いて、唇の端は釣り上げたままになる。
「何番目でもいい。一番下でもいい。彼女に僕のことを好きになってほしい」
「彼女は恋人がいますから、」
「で、ですから! 僕は何番目でも、一番下でもいいんです! 僕は、彼女のことをなにも知りません。淳蔵さん、教えてくださいませんか?」
「申し訳ありません。個人情報ですので、」
「淳蔵さん!」
「高藤さん、落ち着いてください」
僕は淳蔵をじっと見つめたが、じっと見つめ返され、目を逸らしてしまった。
「失礼します」
はっ、とした。桜子の声。
「淳蔵様、都様がお呼びです」
「わかった。高藤さん、失礼します」
「あ、ええ・・・」
淳蔵は雑誌をラックに戻し、談話室を出ていく。
「桜子さんっ!」
僕は思わず声をかけてしまった。
「はい」
「あ、あの、少し、お話を・・・」
「なんでしょう?」
「す、座って話をしませんか?」
「わかりました」
桜子は一言断ってから対面のソファーに座った。
「あの、桜子さん。一条さんから僕の事情は聞いていますか?」
「事情? いいえ、なにも」
「僕は・・・。僕は、妻の栄子との生活に疲れ果ててしまったのです。栄子は結婚して、かわりました。僕の行動を制限し、やがて束縛するようになり、今は、支配されている状態です。それで、束の間の休息を求めてここに来ました」
僕は桜子の目を真っ直ぐに見た。
「桜子さん、貴方を見て、決めました。栄子と離婚しようと思います」
「えっ」
「僕と、僕とデートしてくれませんか? きっと僕を好きにさせてみせます。お願いします」
「申し訳ありません。わたくし、」
「桜子さんっ!」
僕は立ち上がり、桜子の正面に行って跪く。
「お願いします・・・!」
「申し訳ありませんがデートは致しかねます」
桜子は少し早口でそう言った。
「わたくしには恋人が居ますので、高藤様のお気持ちに応えることはできません」
男性が苦手な桜子の、恋人。
まさか、まさか女の一条か?
「その恋人より素敵な存在になってみせます! 結婚したら、貴方に何不自由ない生活をお約束します! 貴方の嫌がることは一切しないと誓います!」
「高藤様、わたくし、」
「お願いしますっ!!」
僕は桜子の両手を、僕の両手で握った。
「あのっ、やめてくださいっ」
「貴方が『はい』というまで諦めませんっ!!」
「あら? お取込み中でしたか?」
一条の声がした。僕は慌てて談話室の入り口を見た。一条は微笑んでいる。僕の考え過ぎでないのだとしたら、まるで余裕を見せつけるように。
「嫌がる女性に迫るなんて、まるでストーカーみたい」
くす、と笑う。
「高藤さんからは危険な香りがしますね」
「ど、どういうことです」
「『馬鹿に付ける薬はない』というでしょう? 高藤さんが馬鹿でないことを祈ります」
一条の後ろから現れた、女性と間違えるような美しい男。その男の手にはスタンガンが握られていた。
「あの・・・」
「はい」
妻に対する僅かな恐怖を持ちながらも、メイドに話しかけてみる。
「桜子さんは、今日は?」
「出勤していますよ。呼んできましょうか?」
「ああ、いえ、結構です」
断ってしまった。なんと話をすればよいのかわからないことに今更気付いたからだ。
「失礼します」
メイドが去っていく。僕はどうしたものか考えた。一目でいいから、桜子を、見たい。客が自由に出入りできるのは、食堂と書斎と談話室。書斎に本を借りに行き、談話室で読もう。桜子が書斎に居るかもしれないし、働いているなら談話室の前の廊下を通り過ぎるかもしれない。僕は早速書斎に本を借りに行った。桜子は居ない。長く時間を潰すため、煉瓦のような分厚さの本を借りた。
談話室に行くと、男が一人、ソファーに座って雑誌を読んでいた。長い髪、長い手足。男は僕と目が合うと雑誌を閉じ、座ったまま会釈した。そして再び雑誌を開き、読み始める。彼も一条家の息子だろう。僕は男の左手にある一番奥のソファーに座る。
「あの」
「はい」
僕が呼びかけると、男は雑誌をまた閉じた。
「少し、お話を」
「なんでしょう」
男は鋭い目付きに似合わず、にっこりと笑う。
「あ、失礼。高藤賢一と申します」
「一条淳蔵です」
「あの・・・、」
言葉が詰まる。
「あの、桜子さん、は、今日はお勤めですか?」
「ええ、出勤しています。彼女がなにか?」
「あっ、と、なにかというわけではないんです。綺麗な女性だなと、吃驚してしまって・・・」
「ああ・・・、本人には、あまり言わない方が、」
「えっ、何故です?」
「彼女、男性が苦手なんです」
僕は面食らった。何故だか『あの夢』が急に現実味を帯びた気がした。
「な、何故、男性が?」
「詳しく聞いたことはありませんが、父親と不仲だったそうで、それが原因だとか」
「そう、ですか・・・。彼女は何年前からここに?」
「二年ですね」
「二年・・・。今時珍しいですね、『メイド』だなんて」
「ハハ、確かにそうですね」
「・・・彼女に、」
唇が、震えた。
「彼女に一目惚れをした、かもしれません」
彼、淳蔵は、ぱちぱちと瞬いたあと、少し首を傾げながら目を閉じた。
「高藤さん、」
「わかっています。不倫はよくないことだと。ですが、僕はもう、妻に、栄子に疲れてしまって・・・」
大人しく気弱な女性だったはずの栄子は、結婚して、かわった。僕の行動を制限するようになり、やがて束縛するようになり、今は、支配されている。
「高藤さん、失礼を承知で申し上げますが、前提が間違っています」
「は? 前提?」
「不倫もそうですが、『恋愛』というのは双方合意の上で成り立つものです。ですから、桜子に気持ちがなければ不倫すら成り立ちませんよ」
にこ、と淳蔵は微笑んだ。
「僕は、彼女の一番でなくてもよいのです」
僕の台詞に、淳蔵は目だけを開いて、唇の端は釣り上げたままになる。
「何番目でもいい。一番下でもいい。彼女に僕のことを好きになってほしい」
「彼女は恋人がいますから、」
「で、ですから! 僕は何番目でも、一番下でもいいんです! 僕は、彼女のことをなにも知りません。淳蔵さん、教えてくださいませんか?」
「申し訳ありません。個人情報ですので、」
「淳蔵さん!」
「高藤さん、落ち着いてください」
僕は淳蔵をじっと見つめたが、じっと見つめ返され、目を逸らしてしまった。
「失礼します」
はっ、とした。桜子の声。
「淳蔵様、都様がお呼びです」
「わかった。高藤さん、失礼します」
「あ、ええ・・・」
淳蔵は雑誌をラックに戻し、談話室を出ていく。
「桜子さんっ!」
僕は思わず声をかけてしまった。
「はい」
「あ、あの、少し、お話を・・・」
「なんでしょう?」
「す、座って話をしませんか?」
「わかりました」
桜子は一言断ってから対面のソファーに座った。
「あの、桜子さん。一条さんから僕の事情は聞いていますか?」
「事情? いいえ、なにも」
「僕は・・・。僕は、妻の栄子との生活に疲れ果ててしまったのです。栄子は結婚して、かわりました。僕の行動を制限し、やがて束縛するようになり、今は、支配されている状態です。それで、束の間の休息を求めてここに来ました」
僕は桜子の目を真っ直ぐに見た。
「桜子さん、貴方を見て、決めました。栄子と離婚しようと思います」
「えっ」
「僕と、僕とデートしてくれませんか? きっと僕を好きにさせてみせます。お願いします」
「申し訳ありません。わたくし、」
「桜子さんっ!」
僕は立ち上がり、桜子の正面に行って跪く。
「お願いします・・・!」
「申し訳ありませんがデートは致しかねます」
桜子は少し早口でそう言った。
「わたくしには恋人が居ますので、高藤様のお気持ちに応えることはできません」
男性が苦手な桜子の、恋人。
まさか、まさか女の一条か?
「その恋人より素敵な存在になってみせます! 結婚したら、貴方に何不自由ない生活をお約束します! 貴方の嫌がることは一切しないと誓います!」
「高藤様、わたくし、」
「お願いしますっ!!」
僕は桜子の両手を、僕の両手で握った。
「あのっ、やめてくださいっ」
「貴方が『はい』というまで諦めませんっ!!」
「あら? お取込み中でしたか?」
一条の声がした。僕は慌てて談話室の入り口を見た。一条は微笑んでいる。僕の考え過ぎでないのだとしたら、まるで余裕を見せつけるように。
「嫌がる女性に迫るなんて、まるでストーカーみたい」
くす、と笑う。
「高藤さんからは危険な香りがしますね」
「ど、どういうことです」
「『馬鹿に付ける薬はない』というでしょう? 高藤さんが馬鹿でないことを祈ります」
一条の後ろから現れた、女性と間違えるような美しい男。その男の手にはスタンガンが握られていた。