二百五十八話 生きづらい
文字数 2,944文字
「お、お前・・・」
「はい?」
「お前、生きづらくないか?」
直治は突然、酷く優しい声を出した。美影はきょとんとしている。俺も美代も、成り行きを見守る。
「お前、妄想と現実の区別がついてないんだろ?」
「え?」
「嘘も言い訳も本当のことも、自分の気持ちさえも見失って、自分がなにを言っているのかもわからない。そうだろ?」
「あのー、」
「良かれと思ってやったことで、相手を怒らせたり、悲しませたり、呆れられたりして、人がどんどん離れていって、蔑まれて、疎まれて、見捨てられて、孤独になった経験、あるだろ?」
「あのー、」
「黙って聞けッ!!」
直治が叫ぶ。
「どうして相手が怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのか、わからないんだろ? わからないよな?」
黙って聞け、と言ったのに、直治は問う。美影はどうすればいいのかわからないのか、困惑している。
「わかるわけないよな。そういう脳の『造り』をしているんだから、わかるわけがないんだ。だから、お前にはなにを言っても無駄だ。それこそ殴ったって伝わらないだろう。だけど、言う。いいか、美影」
直治は、すう、と息を吸った。
「世界の中心は、お前じゃない。お前がどんな大罪を犯そうが、お前が死のうが、世界はなにもかわらず静かなままだ。お前がなにかしたところで、世界に大きな影響を与えることはできないんだ。それが認められないから、お前はずっと、生きづらいままなんだ」
そう言葉を紡ぐ直治の優しい声色を聞いて、俺は少し動揺していた。直治が美影に同情していたからだ。その同情は、わからないことを教えてやるような優しさからくるものではなく、『どうしてこんなこともわからないんだ』と責めるような、苛立ちからくるものだった。無知で無力で無能な美影に、直治は苛立っていた。直治の声は優しくありながらも、確かに苛立ちを孕んでいたのだ。
「いいか、美影」
優しく名を呼ぶことで、美影を刺激せず、関心を直治の話に向けるようにしているのだろうが、美影の表情は困惑から、拗ねているようなものにかわっている。直治と美影の会話は成立していない。それでも、直治は続ける。
「人間関係には、一言では表すことのできない、複雑な絡み合いがあるんだ。わかるか?」
「あの、さっきからなにを言っているのか、」
「はっきり言わないと、わからないよな?」
「あの、」
「人間関係は、勝ち負けじゃないぞ」
「はあ。勝ち負け?」
「そうだ。そして、人間関係は、善し悪しでもない」
「あの、どういう意味ですか?」
「はっきり言わないと、わからないんだよな」
「あの、直治様、」
「もう遅い」
「遅い?」
カレーが煮え過ぎている。
「俺はお前が嫌いだ」
ぐつぐつと煮える音と、静寂が交じり合う。
「・・・あの、なんで、そんな酷いことを言うんですか?」
直治の感情は繊細に変化しているのに、美影はずっと、自分本位なままだ。『相手を想うこと』ができないから、何故、直治に嫌われているのかわからない。美影はまるで被害者のような顔をして、直治に言葉で噛み付く。
「あのー、私、説明しましたよね? 私、一生懸命頑張ってるんですけど。なんで認めてくれないんですか? ていうか、なんか、『いじめ』ですよね、これ。上司が部下に『嫌い』って言うの、私情挟みまくりじゃないですか? 直治様が私のこと嫌いだから、兄弟と部下に『美影のこといじめようぜ』って言って、皆で私のこといじめてるんですよね? そうですよね?」
美影は顔を赤くし、くしゃくしゃにしながら、涙を零す。
「なんなの? え? ほんとムカつく。皆、私で遊んでたんだ。大人なのに寄って集って弱い者いじめって、本当に最低。私、皆のためを思って頑張ったのに。失敗することもあったけど、悪気はなかったのに。それを、なんか、悪い方に悪い方に捉えて、陰で有ること無いこと付け加えて、悪口言い合って笑ってたんでしょ? これって『必要悪』ってヤツですか? いじめる対象が居ないと、皆で団結できないみたいな、薄っぺらい人間関係しか築けないってヤツですよね。一条家ってそういう人間の集まりなんですね。教えてくださってありがとうございます」
そろそろ、鍋のカレーが焦げ始めそうだ。
「え? ていうかなんか、キモいんですけど。あの、直治様? 私、直治様のこと好きでもなんでもないので。ただの仕事関係の人なので。直治様に偉そうにお説教される筋合いはないし、『嫌い』って言われても知らんがなって感じなんですけど。直治様、なんか勘違いしてませんか? 私が直治様のことを好き、みたいな、勘違いしてませんよね? だったらマジでキモいです。いやキモいじゃなくて気持ち悪いです。私にも選ぶ権利はあるんでー、勘違いしないでもらえますか? 私、直治様のことなんてなんとも思っていないどころか、どうでもいい存在なんで。わかります?」
直治は返答しない。
「あー、もう、なんか、どうでもよくなっちゃった。私、試用期間が終わったら、ここで働くの辞めますね。働いた分のお給料はきっちり貰いたいので、試用期間が終わるまでは働きますけど、終わったらマジで辞めるんで。なんか、カレーとアップルパイ作っちゃってすみませんでした。悪意はないし、善意しかなかったんですけど、なんか、それが駄目みたいなんで。私のやり方が駄目みたいなんで。すみませんでした。ほんと、ごめんなさい。カレーもアップルパイも、食べなくていいんで。捨てちゃっていいんで。私の気持ちとか全然気にしないでくださいね。あー、ほんとムカつく。このことも皆で悪口言ってくれていいんで。直治様、私、部屋に戻っていいですか? すぐに出ていけるように準備をしたいし、部屋で反省したいんです。次の出勤も、直治様達から『働いてほしい』って言われるまで、部屋で待機してますんで。だから、部屋に戻ってもいいですよね?」
「わかった。部屋に戻れ」
「はーい。お疲れ様でしたー」
美影がキッチンを出ていった。直治が寸胴鍋を煮続ける火を消し、カレーをおたまでぐるりと混ぜる。
「駄目だな。焦げてる」
深く長い溜息を吐いて、直治は項垂れた。美代が冷蔵庫を開ける。
「あー、鍋を見た時に嫌な予感はしたけど、かなりの食材を使ったみたいだね」
ぱたん、と冷蔵庫のドアを閉めた美代が、俺に向き直った。
「淳蔵、都とメイド達をキッチンに呼んでくれ。事情を説明したあと、食材の在庫の確認をして、足りないものを買いに行かなくちゃいけないし、寸胴鍋のカレーをどう処理するかについても話し合わなくちゃいけない。窓の外からの『見張り』も頼みたい」
「わかった」
「直治、ちょっと座れ。疲れただろ?」
直治は黙って椅子に座り、再び項垂れる。俺と美代は目配せをして、頷き合い、俺はキッチンを出た。一番最初に都の部屋に行って、軽く事情を説明したあと、都の部屋の窓から鴉を飛ばして、美影の部屋を窓の外から監視する。美影はベッドに凭れ掛かって泣いていた。
『生きづらい、なァ・・・』
確かに、『アレ』では生きづらいだろう。
直治がメイドにあんな態度をとったのは初めてだ。
何故なのか。
それは恐らく、
直治が過去の自分と重ねてしまったからなのかもしれない。
『生きづらい』
若い頃の直治が零していた言葉。
今は、どうなんだろう。
「はい?」
「お前、生きづらくないか?」
直治は突然、酷く優しい声を出した。美影はきょとんとしている。俺も美代も、成り行きを見守る。
「お前、妄想と現実の区別がついてないんだろ?」
「え?」
「嘘も言い訳も本当のことも、自分の気持ちさえも見失って、自分がなにを言っているのかもわからない。そうだろ?」
「あのー、」
「良かれと思ってやったことで、相手を怒らせたり、悲しませたり、呆れられたりして、人がどんどん離れていって、蔑まれて、疎まれて、見捨てられて、孤独になった経験、あるだろ?」
「あのー、」
「黙って聞けッ!!」
直治が叫ぶ。
「どうして相手が怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのか、わからないんだろ? わからないよな?」
黙って聞け、と言ったのに、直治は問う。美影はどうすればいいのかわからないのか、困惑している。
「わかるわけないよな。そういう脳の『造り』をしているんだから、わかるわけがないんだ。だから、お前にはなにを言っても無駄だ。それこそ殴ったって伝わらないだろう。だけど、言う。いいか、美影」
直治は、すう、と息を吸った。
「世界の中心は、お前じゃない。お前がどんな大罪を犯そうが、お前が死のうが、世界はなにもかわらず静かなままだ。お前がなにかしたところで、世界に大きな影響を与えることはできないんだ。それが認められないから、お前はずっと、生きづらいままなんだ」
そう言葉を紡ぐ直治の優しい声色を聞いて、俺は少し動揺していた。直治が美影に同情していたからだ。その同情は、わからないことを教えてやるような優しさからくるものではなく、『どうしてこんなこともわからないんだ』と責めるような、苛立ちからくるものだった。無知で無力で無能な美影に、直治は苛立っていた。直治の声は優しくありながらも、確かに苛立ちを孕んでいたのだ。
「いいか、美影」
優しく名を呼ぶことで、美影を刺激せず、関心を直治の話に向けるようにしているのだろうが、美影の表情は困惑から、拗ねているようなものにかわっている。直治と美影の会話は成立していない。それでも、直治は続ける。
「人間関係には、一言では表すことのできない、複雑な絡み合いがあるんだ。わかるか?」
「あの、さっきからなにを言っているのか、」
「はっきり言わないと、わからないよな?」
「あの、」
「人間関係は、勝ち負けじゃないぞ」
「はあ。勝ち負け?」
「そうだ。そして、人間関係は、善し悪しでもない」
「あの、どういう意味ですか?」
「はっきり言わないと、わからないんだよな」
「あの、直治様、」
「もう遅い」
「遅い?」
カレーが煮え過ぎている。
「俺はお前が嫌いだ」
ぐつぐつと煮える音と、静寂が交じり合う。
「・・・あの、なんで、そんな酷いことを言うんですか?」
直治の感情は繊細に変化しているのに、美影はずっと、自分本位なままだ。『相手を想うこと』ができないから、何故、直治に嫌われているのかわからない。美影はまるで被害者のような顔をして、直治に言葉で噛み付く。
「あのー、私、説明しましたよね? 私、一生懸命頑張ってるんですけど。なんで認めてくれないんですか? ていうか、なんか、『いじめ』ですよね、これ。上司が部下に『嫌い』って言うの、私情挟みまくりじゃないですか? 直治様が私のこと嫌いだから、兄弟と部下に『美影のこといじめようぜ』って言って、皆で私のこといじめてるんですよね? そうですよね?」
美影は顔を赤くし、くしゃくしゃにしながら、涙を零す。
「なんなの? え? ほんとムカつく。皆、私で遊んでたんだ。大人なのに寄って集って弱い者いじめって、本当に最低。私、皆のためを思って頑張ったのに。失敗することもあったけど、悪気はなかったのに。それを、なんか、悪い方に悪い方に捉えて、陰で有ること無いこと付け加えて、悪口言い合って笑ってたんでしょ? これって『必要悪』ってヤツですか? いじめる対象が居ないと、皆で団結できないみたいな、薄っぺらい人間関係しか築けないってヤツですよね。一条家ってそういう人間の集まりなんですね。教えてくださってありがとうございます」
そろそろ、鍋のカレーが焦げ始めそうだ。
「え? ていうかなんか、キモいんですけど。あの、直治様? 私、直治様のこと好きでもなんでもないので。ただの仕事関係の人なので。直治様に偉そうにお説教される筋合いはないし、『嫌い』って言われても知らんがなって感じなんですけど。直治様、なんか勘違いしてませんか? 私が直治様のことを好き、みたいな、勘違いしてませんよね? だったらマジでキモいです。いやキモいじゃなくて気持ち悪いです。私にも選ぶ権利はあるんでー、勘違いしないでもらえますか? 私、直治様のことなんてなんとも思っていないどころか、どうでもいい存在なんで。わかります?」
直治は返答しない。
「あー、もう、なんか、どうでもよくなっちゃった。私、試用期間が終わったら、ここで働くの辞めますね。働いた分のお給料はきっちり貰いたいので、試用期間が終わるまでは働きますけど、終わったらマジで辞めるんで。なんか、カレーとアップルパイ作っちゃってすみませんでした。悪意はないし、善意しかなかったんですけど、なんか、それが駄目みたいなんで。私のやり方が駄目みたいなんで。すみませんでした。ほんと、ごめんなさい。カレーもアップルパイも、食べなくていいんで。捨てちゃっていいんで。私の気持ちとか全然気にしないでくださいね。あー、ほんとムカつく。このことも皆で悪口言ってくれていいんで。直治様、私、部屋に戻っていいですか? すぐに出ていけるように準備をしたいし、部屋で反省したいんです。次の出勤も、直治様達から『働いてほしい』って言われるまで、部屋で待機してますんで。だから、部屋に戻ってもいいですよね?」
「わかった。部屋に戻れ」
「はーい。お疲れ様でしたー」
美影がキッチンを出ていった。直治が寸胴鍋を煮続ける火を消し、カレーをおたまでぐるりと混ぜる。
「駄目だな。焦げてる」
深く長い溜息を吐いて、直治は項垂れた。美代が冷蔵庫を開ける。
「あー、鍋を見た時に嫌な予感はしたけど、かなりの食材を使ったみたいだね」
ぱたん、と冷蔵庫のドアを閉めた美代が、俺に向き直った。
「淳蔵、都とメイド達をキッチンに呼んでくれ。事情を説明したあと、食材の在庫の確認をして、足りないものを買いに行かなくちゃいけないし、寸胴鍋のカレーをどう処理するかについても話し合わなくちゃいけない。窓の外からの『見張り』も頼みたい」
「わかった」
「直治、ちょっと座れ。疲れただろ?」
直治は黙って椅子に座り、再び項垂れる。俺と美代は目配せをして、頷き合い、俺はキッチンを出た。一番最初に都の部屋に行って、軽く事情を説明したあと、都の部屋の窓から鴉を飛ばして、美影の部屋を窓の外から監視する。美影はベッドに凭れ掛かって泣いていた。
『生きづらい、なァ・・・』
確かに、『アレ』では生きづらいだろう。
直治がメイドにあんな態度をとったのは初めてだ。
何故なのか。
それは恐らく、
直治が過去の自分と重ねてしまったからなのかもしれない。
『生きづらい』
若い頃の直治が零していた言葉。
今は、どうなんだろう。