二百四十一話 陸で溺れる

文字数 2,898文字

こんこん。


「どうぞ」

『し、失礼します』


様子のおかしい都を心配して俺が椅子から立ち上がると同時に、都が事務室に入ってきた。紙袋を抱えている。


「あの、時間、いいかな?」

「どうしたの?」

「あ、あの・・・」


都は上目遣いで見つめてくる。可愛い。いやそんなこと考えてる場合じゃない。


「都? 具合が悪いなら椅子に座る?」

「だあっ、大丈夫! 具合は大丈夫! あの、前に、私が書いた小説、読んだよね?」

「・・・ああ、うん。タイトルは『灰色の禽獣』。ペンネームは『月草はじめ』。だよね?」

「そう。あの、面白かった?」


都は顔を赤くしている。


「淳蔵は美代と直治にオススメしてたらしいし、直治からは感想を聞いたんだけど、美代には、その、」

「面白かったよ」

「ほ、本当?」

「一晩中感想を語れるくらい。なんなら今夜どう?」

「うー、お世辞がうまいですね・・・」

「俺が都に嘘吐いたことある?」


都は少しだけ目を見開き、ふるふると顔を横に振った。そして、持っていた紙袋を俺に差し出す。


「開けていいの?」

「どうぞ・・・」


中に入っていたのは、一冊の本。


『陸で溺れる』 作者 月草はじめ


「えっ!?」

「お、お暇な時に、どうぞっ」

「あ、ちょっと、」


都は事務室から逃げていってしまった。


「マジかぁ・・・」


俺は椅子に座り、すうーっと息を吸ってから、本を開く。


『庭の金木犀が沈黙すると、冬の始まりである』


「うーん、堪らん・・・」


そこまで読んで、鍵付きの引き出しに入れて、きっちりと鍵をかけた。本を読みたいがためにいつもの三倍は仕事を頑張った。今日は宿泊客が居ない日なので、なにか問題が無ければ談話室に集まる日だ。直治が来るであろう時間まで仕事を続けて、時間になると引き出しから本を取り出し、談話室に向かう。


「おー、弟よ。一番最後とは珍しい」


淳蔵が雑誌から目も上げずに言う。直治は俺が持っている本を見て少し首を傾げた。


「これ、なあんだ?」


俺はいつも座っているソファーには座らず、談話室の入り口に立って本を見せびらかす。淳蔵が雑誌から目を上げた。


「本?」

「俺が一番好きな作家の新作だよ」

「あっ! お前それ都の、」

「ん!?」


直治が立ち上がり、淳蔵も遅れて立ち上がった。


「次は誰が読むのか考えておけ、兄弟」


俺は事務室に戻った。仕事を頑張ったご褒美として、小説を読むことにする。言葉選びが美しく、文章が流麗だ。時々難解な漢字が出てくるが、それが主人公の、知的で、少し癖のある性格を嫌味なく表現している。

主人公は前作『灰色の禽獣』と同じ若い女。名は『月草はじめ』。金持ちの両親に溺愛されて育ち、親の金で日本中を旅しながら小説を書いている贅沢な女だ。性格は負けず嫌いで見栄っ張りで好奇心旺盛。学生時代は常に一番であるために勉学やスポーツに励み、そうして蓄えた知識と経験から、旅先で起こった事件に好奇心で首を突っ込んで、解決に導いてゆく。

ストーリーは重く、じっとりと湿っている。『陸で溺れる』のタイトル通り、事件の被害者達は何故か、陸上に居るにもかかわらず、海水で溺死している。舞台は海に接していない県なのに、だ。複雑な人間関係、善意が悪い方向に、悪意が良い方向に絡み合う。そして、秘かに囁かれる『人魚の噂話』。登場人物曰く『伝説』ではなく『噂話』なのが『ミソ』らしい。


「ん・・・」


あっという間に夕食の時間。俺は本を読み続けた。陰鬱な空気の中に月草はじめが現れると、洒落た言い回しで空気を入れ替えてゆく。探偵役でありながら、狂言回しの役でもあるのだ。





『女将さん、今、なんと仰いました?』


私は女将に問う。


『思い出したんです。『八尾比丘尼』ですよ、やーおーびーくーに。ほら、人魚の肉を食べて不老不死になったという。この辺りは今じゃ山しかありませんけれど、大昔はちょこっとだけ海とも繋がっていて、それが大地震で埋まっちゃったとかなんとか』

『海があったぁ!?』

『そう。海があった。そんで、漁の網にかかったとか、人間の男に騙されたとか、言い伝えは色々あるんですけれど、海からやってきた人魚がこの町の人間に捕まってしまったそうです。町の人間は不老不死になろうと、皆で人魚を貪った。それも、生きたまま。死んだら泡になってしまうそうですからね。人魚は町の人間を恨みました。何度も何度も『私を食べても不老不死にはなれない』と訴えたのに、『命乞いだ』と切り捨てて自分を貪る愚か者共を呪ったのです。人魚の言っていたことは本当で、人魚の肉を食べても不老不死にはなれなかった。不老不死になったのは人魚の呪いで、なんです。で、不老不死になったのは・・・』

『なったのは?』

『まだ妊娠したことを知らない若い女と、腹の中にいた二ヵ月の胎児です』


私の首はおもちゃのバネのように前に飛び出した。顔も思いっ切り顰めてしまった。


『それが、この地に伝わる八尾比丘尼なのですか?』

『そう。八尾比丘尼はこの町の山で『入定』しました。ほら、あたしと月草さんが初めて会ったあの山ですよ。山菜採りをしたあの山です』

『ほほう。もう一度行ってみるかな』

『目星も付けずに?』

『おや? あるのですか?』

『ええ。他所の町から来たお前が行っていい場所じゃないって姑に何度も折檻されましてね。嫁いできたばかりの頃は、山なんてどッこも同じに見えましたからね』

『おお、怖い話だ。では、明日、案内を頼みます』

『わかりました』

『あ、そうそう、女将さん』

『なんです?』

『人魚って人の部分は人の味がするのかな? 魚の部分は魚の味がするのかな? 人と魚の境目の部分はどんな味がするのかな?』

『気色の悪い話しないでくださいな! もう!』





「面白い着眼点だな・・・」


可愛い顔して、とんでもなくグロテスクなことを書いている。少しだけ都の経験と絡めて書いているのも、言ってはいけないのだが面白い。そのまま夢中で読み進めた。





『世界一小さな海、でしょうな』


この地で生まれた八尾比丘尼が入定をした洞窟の底、地震によって封印された海水に陽の光が差し込む。刑事がゆっくりと中を覗き込むと、彼の大きな身体が影を作った。


『人間は愚かだ。溺れた釣り人を助けてくれた人魚を捕らえて、貪り食うとは・・・』

『折角助かった釣り人を放置して人魚を追いかけ回した結果、釣り人は死んでしまったというおまけまで付いている』

『・・・私も、愚かかもしれません。不老不死に憧れを抱いてしまう。貴方は、どうですかな?』


私は少し笑った。


『老いは琥珀です』

『フフッ、そんなことを言えるのは今のうちだけですよ。若き女流作家殿』


そう言って、刑事は肩を竦めた。


『もしかしたら、人魚は弱っていたのかも』

『なんです?』

『貝で手首に傷を付け、私の泡を吸って海面まで上がりなさい、と・・・』

『美談にしたがるのは芸術家の悪い癖です』

『違いない』





物語は幕を閉じた。


「おっと」


いつも仕事を終えている時間だ。都に会いにいって軽く報告して、抱きしめてもらうのが日課になっている。俺が事務室を出ると、淳蔵がドアの前に立っていた。


「弟よ、勝利のチョキだ。はよ寄こせ」


直治とジャンケンをして勝ったらしい。俺は苦笑してから、本を渡した。
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