二百六十四話 金曜日

文字数 2,257文字

「桜子」

「はい」

「都がお呼びだ」


そう言った直治様は、取り繕ってはいても明らかに不機嫌だった。


「今日の仕事はもういい」

「は、はい」

「それと、」


目を細める。


「伝言だ。『シャワーを浴びてくるように』」


わたくしの心臓は破裂してしまいそうになった。直治様はわたくしの返答どころか反応すら待たずに去ってしまった。ごく、と喉が鳴る。宿泊客用のカトラリーの拭き掃除は、まだ終わっていない。銀色のスプーンが酷くいやらしく見えた。そっと、スプーンとクロスを置き、わたくしはキッチンを飛び出した。自室でシャワーを浴びて、歯を丁寧に磨き、都様に頂いた可愛い下着をつけるかどうか少しだけ迷って、結局つけた。誰にも気付かれてはいけないような気がして、足音を殺して階段を登る。都様の部屋のドアの前。静かに深呼吸をしてから、ノックした。

こんこん。


『どうぞ』

「失礼します」


部屋に入る。


「おいで」

「はい」


いつものソファーではなく、仕事のための資料や都様が特に気に入った本を保管している奥の部屋へ案内される。


「えっ・・・」


部屋の中央に、ベッドがあった。都様はベッドに腰掛け、わたくしに隣に座るよう、ぽんぽん、と手で叩いて促す。


「貴方のベッドよ」


わたくしは一生、ソファーなのでは。お相手をしてくださるのは、満月の夜だけなのでは。そんな捻くれたことを言って、都様の機嫌を損ねたくなかった。大人しく、都様の隣に座る。


「処女喪失がソファーだなんて、嫌でしょ?」


その一言で、シャワーを浴びて清めた身体に、ぶわっと汗が滲む。


「フフ、今日じゃないよ。こころの準備ができてないでしょ?」

「い、いいえ。いいえっ。今日、今日抱いてくださいっ」


都様が薄く笑う。


「緊張するでしょ? お酒飲む?」

「す、少しだけ・・・」

「取ってくるから、その間に服を脱ぎなさい」

「はいっ」


都様が部屋を出ていく。わたくしは言われた通りに服を脱ぎ、下着姿でベッドに腰掛け直した。戻ってきた都様は、ワイングラスと紙袋を持っていた。グラスを受け取り、くいと飲み干す。都様がブラウスとスカートを脱ぎ、ふぁさ、と捨てる。


「寝転んで」

「はい・・・」


仰向けになったわたくしに都様が覆い被さる。お互いの胸が触れ合って、気持ち良い。小鳥の啄みのようなキスに、じっくりと焦らされる。


「初めてキスした時は、かさついた唇をしていたのに、柔らかくなったね」

「都様の、おかげです・・・」

「フフッ、肌も綺麗・・・」


人差し指の背でわたくしの頬を撫でる都様の眼差しは、優しい。今だけは、わたくしの、わたくしだけの都様。


「みやこさまぁ・・・」


その日、わたくしは起きたまま夢を見た。


「・・・さん? ・・・桜子さん?」

「あっ! は、はいっ!」


千代さんの声に慌てて返答する。食事当番である美代様、直治様、千代さんとわたくしで、一ヵ月間の食事のメニューを決める会議の真っ最中だというのに、昨日のことを思い出して、浸ってしまった。


「桜子」

「は、はい」


直治様は、無表情だった。怒っているのか、呆れているのか、それ以外の感情なのか、わからない。美代様と千代さんは黙って成り行きを見守っている。わたくしが耐え切れなくなって『申し訳ありません』と口を開こうとした時、直治様は『フフッ』と、妙に色っぽく笑った。


「どうだった、昨日は」

「あ、あの、」

「現が蕩ける心地だっただろう?」


直治様は読書家だからなのか、時折、詩的な台詞を恥ずかしげもなく言ってのける。美代様も千代さんも察したのか、ぴた、と固まった。美代様が口角を吊り上げてひくひくと引き攣らせ、額の血管が浮き出て波打つ。


「・・・ほう?」

「デリカシーの無い発言を失礼。さて、続きだが・・・、」


美代様の視線をさらりと躱した直治様が、何事も無かったかのように会議を再開する。美代様はゆっくりと、手元の用紙に視線を落とした。わたくしを全く見ないのが逆に怖い。千代さんは美代様を刺激しないためか、直治様と同じく何事も無かったかのようにメニューについて発言する。その後、会議は滞りなく終了したが、大変まずいことになった。


「桜子君、ちょっと」

「は、はい」


会議はいつも、キッチンで行われる。直治様はどこかすっきりした表情でキッチンを出ていき、千代さんはそーっと出ていった。


「昨日、なにかあったの?」

「あの、」

「そういえば昨日、夕食の席に参加しなかったね?」

「美代さ、」

「都も居なかったなあ・・・」


沈黙。


「・・・まあ、都が言うなら、月も丸くなるか」


口元に手を添え、視線を横に逸らしてそう言うと、美代様もキッチンを出ていった。


「現が、蕩けて、月が、丸くなる・・・」


処女喪失は、想像以上の痛みと異物感があった。それでも行為を続けたのは、都様の優しさで胸がいっぱいに満たされたから。紛い物の肉塊でも、都様と繋がって一つになれたのが嬉しかったから。

だから、


「月に、一度じゃ、足りません・・・」

「では金曜日に」


吃驚してキッチンの入り口を見る。都様が立っていた。


「身体、つらくない?」

「は、はい・・・」

「金曜日に、遊びにおいで。お喋りでも、映画鑑賞でも、フフッ、パジャマパーティーでもいいよ」

「・・・今日は、金曜日です」

「そうだね」

「明日は、わたくしは休日です・・・」

「そうだね」

「都様と、映画を・・・」

「どんな映画が好き?」

「わかりません。映画を観たことが無いのです。ですから、教えてください」

「じゃあ今夜は、眠くなるまで映画を観て、そのあとは二人で一緒に寝ましょう」

「はい・・・!」


その日から、『金曜日』が特別な日にかわった。
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