二百十五話 矛盾
文字数 2,783文字
桜子の再教育が始まって一ヵ月。美代曰く『悔しいが順調』だそうだ。
「今日は『ワームムーン』だってな」
雪が解けて春が始まる三月。暖かくなった地上に出てくる芋虫達にちなんで、三月の満月を『ワームムーン』と呼ぶらしい。
「母親が詩人だと、そういう表現ばかり覚えるようになるな」
直治が言う。
「馬ッ鹿かテメェら。満月の夜は桜子が都を独占する日だぞ」
都と桜子の間でそういう約束が交わされて、俺達は邪魔しないように言いつけられている。
「月に一回のことですよ美代君。俺達はその気になれば毎晩だって相手してもらえるんだから、寛容におなりなさいな」
「クソ馬鹿ポジティブ野郎が・・・」
ぴんぽおん、とインターフォンが鳴り、千代がぱたぱたと談話室の前を駆けていく。そして数秒。
『侵入者ですぅーッ!!』
千代の声が響いた。俺達は慌てて談話室を飛び出した。
「こっ、こここ、こぬつは・・・」
気持ちの悪い挨拶をしたのは、厚手のコートを着た小太りの男だ。頭髪は悲惨な程荒れていて、全身薄っすらと脂ぎっており、何故か素足である。
『なんの騒ぎー?』
都と桜子が階段を降りてくる。途端に男が興奮しだして、コートをバッと脱いだ。千代が吃驚して飛び跳ねて後退する。そして遠目から見てもわかる程に全身の毛を逆立てさせた。
男は黒いボンテージを着ている。
直治がずんずんと歩いて千代に近付き、首根っこを掴んで俺目掛けて投げた。俺は慌てて千代を受け止める。直治はにじり寄ってきた男の前に立ち塞がる。
「都ッ!! 来るなッ!!」
俺の声に都は一瞬立ち止まったが、そのまま降りてきてしまった。気を取られてちらりと視線を後ろに向けた直治の隙をついて突破しようとした男を、直治がなんとか捕まえる。
「こっ、こいつ『力』が効かねえッ!!」
直治の水を操る力が効かない。つまり、『人外の者』だ。身長160cmもないだろう小さな男が、178cmで筋骨隆々の直治を肉体的にも押し負かしている。
「はヒィ! ははは、話し合いをしま、しませう!」
「馬ッ鹿かテメェ!」
わん!
「あ・・・」
ジャスミンの声を聞いた途端、男は大人しくなり、直治から離れた。汗だくになった直治が息を荒げる。ジャスミンはキッチンの方から尻尾を振りながら走ってくると、男と直治の間に割って入り、ごろんと寝転がって腹を見せた。
「無作法ですね」
都が言う。
「おお! 本物だ!」
男の返答は返答になっていなかった。都の顔に笑みは無い。
「翼の生えた豚・・・?」
都が首を傾げると、男は両手を身体の横にぴったりとくっつけて、顔だけはこちらに向けながら、上体を折り曲げた。
「紹介が遅れました。『矛盾の神』です」
沈黙が横たわる。
「ここに『純潔のアスモデウス』が居ると聞いてやってきました」
「なんですそれは」
「貴方ですよお嬢さん! 素晴らしい素晴らしい・・・」
「私はそのような存在ではありません」
「謙遜なさらず! いやぁ実物は凄い! 予想以上、期待以上だ!」
「なんのご用ですか?」
「これほど強大な力を持ちながら、何故こんな山奥に?」
わんっ!
「・・・失礼しました」
男は再び上体を折り曲げた。
「自分、『資本主義の豚』と名乗らせていただいております」
「はぁ・・・?」
「一条都さんですね?」
「はい」
「フフフ、知る人ぞ知る、危険な闇の女王」
「犬に吠えさせますよ」
「・・・失礼しました。こちらに『七つの大罪』と『七つの元徳』の『混紡』があると聞きまして、大変素晴らしい矛盾だと思い、矛盾の神として拝見させていただこうと思った次第です、はい」
「誰がそんな噂をしているんだか」
「それだけではないのです! 素晴らしい『女王様』がいらっしゃると聞いて、『マゾ豚』としてはもう辛抱堪らんと思いまして、一目でいいから見てみたい! お会いしたい! なんなら罵倒して踏んづけてもらいたいって勢いで来てしまいました!」
男、いや、『豚親父』は、ジャスミンに吠えられても興奮冷めやらぬといった具合で両の拳を握り締め、顔の前で震わせた。そして、人差し指をぴんと立てると、俺を指差した。
「勤勉のベルフェゴール」
次に美代を指差し、
「慈愛のレヴィアタン」
と言い、直治を指差す。
「寛容のマモン」
次に千代。
「謙虚のルシファー」
桜子。
「忍耐のサタン」
最後に、ジャスミン。
「節制のベルゼブブ」
そして都に人差し指を向けた。
「純潔のアスモデウス」
都はにこりと笑う。
「成程、確かに『矛盾』です・・・」
そう言ってから、都は説明を始めた。
七つの大罪は、人間を破滅に導く感情。
七つの元徳は、人間の美徳である感情。
色欲と純潔、
怠惰と勤勉、
嫉妬と慈愛、
強欲と寛容、
傲慢と謙虚、
憤怒と忍耐、
暴食と節制。
相反するもの。
豚親父の言った名前は大罪を司る悪魔の名前だ。
純潔のアスモデウス。
確かに矛盾している。
「おお、おお、美しい声で歌うように説明されると、力が漲る漲る」
「満足いただけたのなら帰ってくださいな」
「はい! 女王様に罵倒していただいて、踏んでいただきましたら、帰ります!」
豚親父は何故か、美代の前で土下座を始めた。
「よろしくお願いします!」
元気な声が響く。
「え? ・・・いや、あの、俺、男なんだけど」
まずい。美代は『可愛い』と言われるのはとても喜ぶが、『女扱い』されると烈火の如く怒る。
「美代」
都が腕を組み、目を伏せて首をゆっくり横に振ると、美代は盛大な溜息を吐いてから、右足を持ち上げた。
「はよ帰れ豚」
ぎゅむ、と頭を踏む。美代が豚親父から足をどけると、豚親父はスクッと立ち上がり、独特の『お辞儀』をした。
「ありがとうございました」
そう言ってコートを拾い、着て、何事もなかったかのように帰っていった。
「・・・この靴捨てるわ」
美代が眉間を抓むように揉む。
「都様、今のは一体?」
桜子は困惑している。
「たまーに来るのよ、ああいうの。人間だったりそうじゃなかったり、友好的だったり敵対的だったり・・・」
ジャスミンが都の前に座り、オテとオカワリを繰り返す。
「コレはこの子が機嫌が良い時にやる仕草。で、私が望んでいない客を招いた時はこうするの」
都は、むんず、とジャスミンの『マズル』を掴んだ。
「三日間、おやつ抜きよ」
マズルから手を離し、都は階段を登っていく。残された俺達はお互いに見つめ合い、首を傾げた。
「人間ではない存在も、館に訪れるのですね」
「そうだなァ、宝石商の男とか、医者の婆さんとか。俺達が知らない、わからないだけで、商売客や宿泊客の中にも居るのかもしれねえなァ」
「成程・・・。あら、美代様、直治様、どうなさいました?」
美代と直治は頭を抱えている。
「汚いモン踏んじまって最悪の気分だよ・・・」
「あんなチビデブハゲに負けちまった・・・」
桜子は口元を手で覆いながら、なんと言葉をかけてよいのか、といった様子で助け舟を求めるように千代を見た。千代は肩を竦めて両手を広げ、首を横に振った。
「今日は『ワームムーン』だってな」
雪が解けて春が始まる三月。暖かくなった地上に出てくる芋虫達にちなんで、三月の満月を『ワームムーン』と呼ぶらしい。
「母親が詩人だと、そういう表現ばかり覚えるようになるな」
直治が言う。
「馬ッ鹿かテメェら。満月の夜は桜子が都を独占する日だぞ」
都と桜子の間でそういう約束が交わされて、俺達は邪魔しないように言いつけられている。
「月に一回のことですよ美代君。俺達はその気になれば毎晩だって相手してもらえるんだから、寛容におなりなさいな」
「クソ馬鹿ポジティブ野郎が・・・」
ぴんぽおん、とインターフォンが鳴り、千代がぱたぱたと談話室の前を駆けていく。そして数秒。
『侵入者ですぅーッ!!』
千代の声が響いた。俺達は慌てて談話室を飛び出した。
「こっ、こここ、こぬつは・・・」
気持ちの悪い挨拶をしたのは、厚手のコートを着た小太りの男だ。頭髪は悲惨な程荒れていて、全身薄っすらと脂ぎっており、何故か素足である。
『なんの騒ぎー?』
都と桜子が階段を降りてくる。途端に男が興奮しだして、コートをバッと脱いだ。千代が吃驚して飛び跳ねて後退する。そして遠目から見てもわかる程に全身の毛を逆立てさせた。
男は黒いボンテージを着ている。
直治がずんずんと歩いて千代に近付き、首根っこを掴んで俺目掛けて投げた。俺は慌てて千代を受け止める。直治はにじり寄ってきた男の前に立ち塞がる。
「都ッ!! 来るなッ!!」
俺の声に都は一瞬立ち止まったが、そのまま降りてきてしまった。気を取られてちらりと視線を後ろに向けた直治の隙をついて突破しようとした男を、直治がなんとか捕まえる。
「こっ、こいつ『力』が効かねえッ!!」
直治の水を操る力が効かない。つまり、『人外の者』だ。身長160cmもないだろう小さな男が、178cmで筋骨隆々の直治を肉体的にも押し負かしている。
「はヒィ! ははは、話し合いをしま、しませう!」
「馬ッ鹿かテメェ!」
わん!
「あ・・・」
ジャスミンの声を聞いた途端、男は大人しくなり、直治から離れた。汗だくになった直治が息を荒げる。ジャスミンはキッチンの方から尻尾を振りながら走ってくると、男と直治の間に割って入り、ごろんと寝転がって腹を見せた。
「無作法ですね」
都が言う。
「おお! 本物だ!」
男の返答は返答になっていなかった。都の顔に笑みは無い。
「翼の生えた豚・・・?」
都が首を傾げると、男は両手を身体の横にぴったりとくっつけて、顔だけはこちらに向けながら、上体を折り曲げた。
「紹介が遅れました。『矛盾の神』です」
沈黙が横たわる。
「ここに『純潔のアスモデウス』が居ると聞いてやってきました」
「なんですそれは」
「貴方ですよお嬢さん! 素晴らしい素晴らしい・・・」
「私はそのような存在ではありません」
「謙遜なさらず! いやぁ実物は凄い! 予想以上、期待以上だ!」
「なんのご用ですか?」
「これほど強大な力を持ちながら、何故こんな山奥に?」
わんっ!
「・・・失礼しました」
男は再び上体を折り曲げた。
「自分、『資本主義の豚』と名乗らせていただいております」
「はぁ・・・?」
「一条都さんですね?」
「はい」
「フフフ、知る人ぞ知る、危険な闇の女王」
「犬に吠えさせますよ」
「・・・失礼しました。こちらに『七つの大罪』と『七つの元徳』の『混紡』があると聞きまして、大変素晴らしい矛盾だと思い、矛盾の神として拝見させていただこうと思った次第です、はい」
「誰がそんな噂をしているんだか」
「それだけではないのです! 素晴らしい『女王様』がいらっしゃると聞いて、『マゾ豚』としてはもう辛抱堪らんと思いまして、一目でいいから見てみたい! お会いしたい! なんなら罵倒して踏んづけてもらいたいって勢いで来てしまいました!」
男、いや、『豚親父』は、ジャスミンに吠えられても興奮冷めやらぬといった具合で両の拳を握り締め、顔の前で震わせた。そして、人差し指をぴんと立てると、俺を指差した。
「勤勉のベルフェゴール」
次に美代を指差し、
「慈愛のレヴィアタン」
と言い、直治を指差す。
「寛容のマモン」
次に千代。
「謙虚のルシファー」
桜子。
「忍耐のサタン」
最後に、ジャスミン。
「節制のベルゼブブ」
そして都に人差し指を向けた。
「純潔のアスモデウス」
都はにこりと笑う。
「成程、確かに『矛盾』です・・・」
そう言ってから、都は説明を始めた。
七つの大罪は、人間を破滅に導く感情。
七つの元徳は、人間の美徳である感情。
色欲と純潔、
怠惰と勤勉、
嫉妬と慈愛、
強欲と寛容、
傲慢と謙虚、
憤怒と忍耐、
暴食と節制。
相反するもの。
豚親父の言った名前は大罪を司る悪魔の名前だ。
純潔のアスモデウス。
確かに矛盾している。
「おお、おお、美しい声で歌うように説明されると、力が漲る漲る」
「満足いただけたのなら帰ってくださいな」
「はい! 女王様に罵倒していただいて、踏んでいただきましたら、帰ります!」
豚親父は何故か、美代の前で土下座を始めた。
「よろしくお願いします!」
元気な声が響く。
「え? ・・・いや、あの、俺、男なんだけど」
まずい。美代は『可愛い』と言われるのはとても喜ぶが、『女扱い』されると烈火の如く怒る。
「美代」
都が腕を組み、目を伏せて首をゆっくり横に振ると、美代は盛大な溜息を吐いてから、右足を持ち上げた。
「はよ帰れ豚」
ぎゅむ、と頭を踏む。美代が豚親父から足をどけると、豚親父はスクッと立ち上がり、独特の『お辞儀』をした。
「ありがとうございました」
そう言ってコートを拾い、着て、何事もなかったかのように帰っていった。
「・・・この靴捨てるわ」
美代が眉間を抓むように揉む。
「都様、今のは一体?」
桜子は困惑している。
「たまーに来るのよ、ああいうの。人間だったりそうじゃなかったり、友好的だったり敵対的だったり・・・」
ジャスミンが都の前に座り、オテとオカワリを繰り返す。
「コレはこの子が機嫌が良い時にやる仕草。で、私が望んでいない客を招いた時はこうするの」
都は、むんず、とジャスミンの『マズル』を掴んだ。
「三日間、おやつ抜きよ」
マズルから手を離し、都は階段を登っていく。残された俺達はお互いに見つめ合い、首を傾げた。
「人間ではない存在も、館に訪れるのですね」
「そうだなァ、宝石商の男とか、医者の婆さんとか。俺達が知らない、わからないだけで、商売客や宿泊客の中にも居るのかもしれねえなァ」
「成程・・・。あら、美代様、直治様、どうなさいました?」
美代と直治は頭を抱えている。
「汚いモン踏んじまって最悪の気分だよ・・・」
「あんなチビデブハゲに負けちまった・・・」
桜子は口元を手で覆いながら、なんと言葉をかけてよいのか、といった様子で助け舟を求めるように千代を見た。千代は肩を竦めて両手を広げ、首を横に振った。