百六十六話 ハンカチでさよならを
文字数 2,415文字
白木が館に来た。
「・・・これが、愛美の、履歴書、ですか」
ぽろぽろと涙を零す。
「ハハッ、こりゃ、酷い・・・。汚い字だ、読めたモンじゃない・・・」
「抗精神病薬の治療を受けている統合失調症患者の六割が、運動障害や錐体外路作用というものを起こして、筆跡が変わってしまうそうですから」
「知っていますよ・・・。『筆跡学』は犯罪捜査には欠かせませんからね・・・」
ぽつり、ぽつり、涙が履歴書に吸い込まれていく。
「いくら、なんでも、あんまりだ・・・。修正液で、間違いを正すなんて、滅茶苦茶だ・・・」
「今の貴方みたいね」
都が言う。
「そして私みたい。感覚が麻痺して、『常識』というものがわからなくなっているのよ」
都はそっと、ハンカチを白木に差し出した。
「修正液って、まるで『嘘』みたいね。真実に近付けようと思って線を引くと、歪になる。一度貼り付けてしまったら綺麗には剥がせない。焦って何度も線を引く人も居る。丁寧に線を引いても、嘘だと一目でわかってしまう。そうでしょ?」
白木はハンカチを受け取って、涙を拭いた。
「・・・嘘を吐くくらいなら、真実を暗闇に放り込んだままにしておいた方が良い時もありますな」
「あら、失礼ね」
「なんです?」
「暗闇を『悪』だと決めつけることよ」
都は両腕を広げ、両手の指を開いた。
「光無しでは闇は存在できず、そこに魑魅魍魎が潜み、暗い目をした生き物が悪事を企んで舌なめずりをしている、と・・・」
小指から親指を、順にゆっくり握り込む。
「果たしてそうかしら?」
そう言って、手を握ったまま腕を降ろした。
「太陽光が物質に遮られることが、そんなに怖いことかしら。暗くなくては生き物は眠れない。見たくないものや聞きたくないことを遮るためには、目を閉じる瞼と耳を塞ぐ手だけじゃなくて、壁と天井が必要だわ。必要だから、作っているのに、それを何故、わざわざ忌み嫌うのかしら」
「貴方は、闇が怖くないと?」
「昼行性と夜行性の生き物の違いよ」
「闇・・・、闇、か・・・。私は、闇が怖い。昼の生き物だったのですな。悪夢のような残酷な展開だ。物語は終わらない。私の中から永遠に愛美は失われたまま・・・」
「これからが勝負所では? 貴方は毎日、毎時間、毎分、毎秒、強く優しくなれなかった怒りと悲しみを味わうのです。気が狂う程時間が長く感じるのに、一日はあっという間に終わって、どんどん月日が経っていく。それでも強く優しくなれない自分に、絶望しながら歳を重ねるのですよ。なにもしないままでは、ね」
「私にどうしろと?」
「そんなこと自分で考えなさいな」
「・・・ハンカチ、洗って返します。また来ますよ、客としてね」
「またのお越しをお待ちしております」
談話室を出て、千代が玄関のドアを開けるために先に歩く。それに白木が続き、その後ろに都が、更にその後ろに俺達が続いた。白木は一歩ずつ、足を踏み出す。
「あ、そうそう」
都が言う。白木がもう一歩踏み出し、体重が移動した。
「愛美さん美味しかったわよ」
ぴたり、と立ち止まる。そして、拳を握りしめ、怒り心頭といった表情でゆっくりと振り返った。
「・・・『美味しかった』?」
「殺して食べたの」
「・・・殺した、だと?」
「そう。白木さん、今までは仲間に協力してもらって調査の名目で来ていたから拳銃を所持していたけれど、今日は休日なんですってね。だから拳銃は持っていない。フフッ、嬉しいわ、私を信用してくれて」
「お、お前ッ・・・!」
「来月、新しいメイドを雇うわよ」
つまり、新たな犠牲者が増えるというわけだ。白木もその意味は理解しているのだろう。正義感か、復讐心か、殺意か。人間のする目ではなかった。
「・・・ハハッ、冗談、ですね?」
「あら、見抜かれちゃった?」
「ええ、休日じゃあ、ありませんから。ほら、その証拠に、」
白木は上着に腕を突っ込み、引き抜く。
「銃を持っています」
「ま、本物! 初めて見たわ」
「ハハハッ」
沈黙。
「後ろに一人、正面に四人、か・・・」
白木はそう言って、服の中に装着しているのであろうホルスターに拳銃を戻した。
「撃たないんですか?」
「弾は五発しかないのでね。一人でも逃したら、私は捻り殺されてしまうでしょう」
白木の目が、愁いを帯びる。
「貴方は人間だ、一条都。『魔女』などではない。そんなものは存在しない。神も、仏も、悪魔も、鬼も、存在しないのです。だから、天国も、地獄も、存在しない」
「『勘』を頼りにしてきた刑事とは思えない台詞ですね」
「そんなものも存在しませんよ。全て、私の実力です」
「どういう心境の変化かしら・・・」
「もし、地獄が存在するのなら、愛美は罪人ですから、地獄に堕ちるでしょう。そして、罪を償うために罰を受ける。そんな可哀想なことがあってはならない。ならないのです」
白木はそう言って、首を横に振った。
「変なことを言うのですね。刑務所に服役して罪は償ったでしょう。十分に罰は受けたはずですよ」
「・・・そうですかね」
「そうですよ」
白木は少し笑う。
「『また会おうね』と言われたのでしょう? 天国で再会したら、今度は親子か兄妹か、恋人同士にでも産まれなおしたらいいんですよ」
「またイトコに産まれますよ。あの距離が心地良かった・・・」
白木は深く頭を下げた。
「数々の無礼をお許しください。ハンカチは洗って、郵送します。もう二度と、会うことはないでしょう。さようなら」
「さようなら」
千代がドアを開ける。白木は去っていった。
「はぁ。どんだけ喋るねん」
都がガクッと項垂れた。
「おお、お疲れ様です都さん! よしよしぃ」
「ああん、ありがとう千代さん・・・」
千代が都の頭を撫でる。都は千代に抱き着いた。
「疲れたから寝るわぁ」
「おやすみなさいませェ!」
都は手をひらひらさせながら、自室に帰っていった。
後日、白木からハンカチと手紙が届いた。
無事に定年退職したという。
もう、口の堅い人間を喋らせる警察手帳も、都を撃ち殺せる拳銃も白木は持っていない。
「・・・これが、愛美の、履歴書、ですか」
ぽろぽろと涙を零す。
「ハハッ、こりゃ、酷い・・・。汚い字だ、読めたモンじゃない・・・」
「抗精神病薬の治療を受けている統合失調症患者の六割が、運動障害や錐体外路作用というものを起こして、筆跡が変わってしまうそうですから」
「知っていますよ・・・。『筆跡学』は犯罪捜査には欠かせませんからね・・・」
ぽつり、ぽつり、涙が履歴書に吸い込まれていく。
「いくら、なんでも、あんまりだ・・・。修正液で、間違いを正すなんて、滅茶苦茶だ・・・」
「今の貴方みたいね」
都が言う。
「そして私みたい。感覚が麻痺して、『常識』というものがわからなくなっているのよ」
都はそっと、ハンカチを白木に差し出した。
「修正液って、まるで『嘘』みたいね。真実に近付けようと思って線を引くと、歪になる。一度貼り付けてしまったら綺麗には剥がせない。焦って何度も線を引く人も居る。丁寧に線を引いても、嘘だと一目でわかってしまう。そうでしょ?」
白木はハンカチを受け取って、涙を拭いた。
「・・・嘘を吐くくらいなら、真実を暗闇に放り込んだままにしておいた方が良い時もありますな」
「あら、失礼ね」
「なんです?」
「暗闇を『悪』だと決めつけることよ」
都は両腕を広げ、両手の指を開いた。
「光無しでは闇は存在できず、そこに魑魅魍魎が潜み、暗い目をした生き物が悪事を企んで舌なめずりをしている、と・・・」
小指から親指を、順にゆっくり握り込む。
「果たしてそうかしら?」
そう言って、手を握ったまま腕を降ろした。
「太陽光が物質に遮られることが、そんなに怖いことかしら。暗くなくては生き物は眠れない。見たくないものや聞きたくないことを遮るためには、目を閉じる瞼と耳を塞ぐ手だけじゃなくて、壁と天井が必要だわ。必要だから、作っているのに、それを何故、わざわざ忌み嫌うのかしら」
「貴方は、闇が怖くないと?」
「昼行性と夜行性の生き物の違いよ」
「闇・・・、闇、か・・・。私は、闇が怖い。昼の生き物だったのですな。悪夢のような残酷な展開だ。物語は終わらない。私の中から永遠に愛美は失われたまま・・・」
「これからが勝負所では? 貴方は毎日、毎時間、毎分、毎秒、強く優しくなれなかった怒りと悲しみを味わうのです。気が狂う程時間が長く感じるのに、一日はあっという間に終わって、どんどん月日が経っていく。それでも強く優しくなれない自分に、絶望しながら歳を重ねるのですよ。なにもしないままでは、ね」
「私にどうしろと?」
「そんなこと自分で考えなさいな」
「・・・ハンカチ、洗って返します。また来ますよ、客としてね」
「またのお越しをお待ちしております」
談話室を出て、千代が玄関のドアを開けるために先に歩く。それに白木が続き、その後ろに都が、更にその後ろに俺達が続いた。白木は一歩ずつ、足を踏み出す。
「あ、そうそう」
都が言う。白木がもう一歩踏み出し、体重が移動した。
「愛美さん美味しかったわよ」
ぴたり、と立ち止まる。そして、拳を握りしめ、怒り心頭といった表情でゆっくりと振り返った。
「・・・『美味しかった』?」
「殺して食べたの」
「・・・殺した、だと?」
「そう。白木さん、今までは仲間に協力してもらって調査の名目で来ていたから拳銃を所持していたけれど、今日は休日なんですってね。だから拳銃は持っていない。フフッ、嬉しいわ、私を信用してくれて」
「お、お前ッ・・・!」
「来月、新しいメイドを雇うわよ」
つまり、新たな犠牲者が増えるというわけだ。白木もその意味は理解しているのだろう。正義感か、復讐心か、殺意か。人間のする目ではなかった。
「・・・ハハッ、冗談、ですね?」
「あら、見抜かれちゃった?」
「ええ、休日じゃあ、ありませんから。ほら、その証拠に、」
白木は上着に腕を突っ込み、引き抜く。
「銃を持っています」
「ま、本物! 初めて見たわ」
「ハハハッ」
沈黙。
「後ろに一人、正面に四人、か・・・」
白木はそう言って、服の中に装着しているのであろうホルスターに拳銃を戻した。
「撃たないんですか?」
「弾は五発しかないのでね。一人でも逃したら、私は捻り殺されてしまうでしょう」
白木の目が、愁いを帯びる。
「貴方は人間だ、一条都。『魔女』などではない。そんなものは存在しない。神も、仏も、悪魔も、鬼も、存在しないのです。だから、天国も、地獄も、存在しない」
「『勘』を頼りにしてきた刑事とは思えない台詞ですね」
「そんなものも存在しませんよ。全て、私の実力です」
「どういう心境の変化かしら・・・」
「もし、地獄が存在するのなら、愛美は罪人ですから、地獄に堕ちるでしょう。そして、罪を償うために罰を受ける。そんな可哀想なことがあってはならない。ならないのです」
白木はそう言って、首を横に振った。
「変なことを言うのですね。刑務所に服役して罪は償ったでしょう。十分に罰は受けたはずですよ」
「・・・そうですかね」
「そうですよ」
白木は少し笑う。
「『また会おうね』と言われたのでしょう? 天国で再会したら、今度は親子か兄妹か、恋人同士にでも産まれなおしたらいいんですよ」
「またイトコに産まれますよ。あの距離が心地良かった・・・」
白木は深く頭を下げた。
「数々の無礼をお許しください。ハンカチは洗って、郵送します。もう二度と、会うことはないでしょう。さようなら」
「さようなら」
千代がドアを開ける。白木は去っていった。
「はぁ。どんだけ喋るねん」
都がガクッと項垂れた。
「おお、お疲れ様です都さん! よしよしぃ」
「ああん、ありがとう千代さん・・・」
千代が都の頭を撫でる。都は千代に抱き着いた。
「疲れたから寝るわぁ」
「おやすみなさいませェ!」
都は手をひらひらさせながら、自室に帰っていった。
後日、白木からハンカチと手紙が届いた。
無事に定年退職したという。
もう、口の堅い人間を喋らせる警察手帳も、都を撃ち殺せる拳銃も白木は持っていない。