四十六話 不意打ち

文字数 1,641文字

トイレに行って戻ってきたら、事務室の前でジャスミンが腹を出して寝ていた。


「おい退け殺すぞ」


ふすん、と鼻を鳴らして、まるで馬鹿にしたように口をくちゃくちゃさせる。


「・・・探したら、なにか良いことあるのか?」


粋な計らいのつもりなのか、こいつは時々そういうことをする。


「ッチ、はいはいわかったよ」


今日は宿泊客が居るので、静かに館の中をうろつくことにした。まずは談話室。誰も居ない。キッチン。都と雅が居た。


「おっと」


慌てて身を隠す。聞き耳を立てると、じんわりと音が大きくなって聞こえてきた。


「95点台ねえ、確かにちょっと厳しすぎるかな。美代に言っておくよ」

「都さん、ありがとぉ」


都が砕けた物言いをしている。気を抜いているのかリラックスしているのか。


「ねえ、都さんってなんのお仕事してるの? 美代は仕事内容教えてくれなくてつまんない」

「そりゃあ教えてくれませんよ。お金持ちになるための秘密ですから」

「ええー・・・。私には手伝えないかな?」

「美代くらい頭が良くなればできるよ」

「じゃあ無理だあ」

「あらら」


いつの間にこんなに打ち解けたんだ?


「都さんってなんで外に出ないの?」

「お金持ちすぎて命を狙われてるから」

「嘘だぁ」

「ほんとほんと。本当はデートに行きたいんだけどね」

「誰と?」

「淳蔵と、美代と、直治と」

「どこ行きたいの?」

「淳蔵はやっぱり、ドライブかなぁ。運転上手いんでしょ?」

「うん!」

「景色の良い場所に連れて行ってほしいかな。一晩中走ってても眠くならないと思うの」

「わかるぅ」

「美代は、きっと素敵なデートプランを立ててくれるから、優しくエスコートされたいな」

「え、意外。一緒にショッピングとかじゃないの?」

「フフッ、なんにもわかってないね」

「むぅー・・・」

「直治はね、」


心臓が痛くなる。


「話してくれる時の声がとっても優しいから、静かな喫茶店でゆっくり聞き入りたいかな」


声。

そんなところ意識したこともなかった。

いつも都に、どんなふうに話しかけていたのかわからなくなってしまう。


「都さんって悪い魔女なの? みーんな、魔法をかけられたみたいに都さんを好きになっちゃう」

「おこちゃまにはわからないでしょうねえ」

「私、立派になって、皆に認められてやるんだもん」

「難しいね。自分の生活を自分で立ち行かせるのは」

「え?」

「もっとお勉強しなさい」


ぱたぱた、と足音が近付いてきて、都がキッチンから出てきた。


「あら、直治」


客用の余所行きの声で言う。俺はイラッと来て、都の胸倉を掴んで乱暴に壁に押し付けた。


「わっ!?」

「都さん?」


雅が近付いて来る気配がする。俺は都を睨みつけながら強引に唇を合わせた。


「ちょ、ちょっと、ん」

「都さん、どうし・・・」


くちゅくちゅと舌を絡ませる。都は俺の身体を押し返そうとした。


「え、え、な、直治」


うるせえ。


「んんっ、ん」

「・・・ふ」


胸倉を掴んだまま、唇を離す。


「なんだよ」

「え、あ・・・あ・・・」

「イチャついてんの見てわかんねえのか。失せろ」


雅は顔を真っ赤にして駆け出して行った。都は息を荒くして表情を弛緩させている。


「吃驚した・・・」

「あんなモノに情をかけて、俺を苛つかせるな」

「も、もうっ、乱暴なんだから」


押されて、大人しく身体を離す。この変態おじさん、不意打ちに弱いらしい。


「馬鹿! 今夜虐めてやる!」


ぷいとそっぽを向いて、すたすたと去っていく。


「・・・フフッ」


淳蔵と美代を出し抜いた。俺のことで頭がいっぱいに違いない。

俺は駄目だ。

淳蔵のようにおおらかになって世話してやることも、美代のように割り切って世話してやることもできない。

事務室に戻ると、ジャスミンが座ってオテとオカワリを延々と続けていた。


「はいはい」


手遊びに付き合ってやるように手の平を差し出すと、肉球がぽふぽふと触れる。


「デートに行かせろよ。頼むから。なあ?」


音もなく牙を剥くと、ふしゅんとくしゃみをして去っていく。


「・・・ッチ、馬鹿犬が」


ドアノブに手をかけ、


「・・・負け犬の遠吠え」


と自己分析し、溜息を吐いた。
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