五話 百子
文字数 2,544文字
五月だ。新人の恵美ちゃんが来てから一ヵ月が経った。恵美ちゃんはリスを思わせる可愛らしい子で、仕事もテキパキとこなす。全く物怖じしないので淳蔵様には鬱陶しがられている様子だが、そんな様子も微笑ましい。ところで、問題がある。百子さんが私を邪険に扱わなくなったのだ。百子さんと私と恵美ちゃん、三人仲良く働こう、という姿勢らしい。どういう心境の変化なのだろうか。心境の変化は私にもある。憧れの都様を見ると、ぽーっとするようになってしまった。相も変わらず夢を見る。一番多いのは淳蔵様。その次に美代様。直治様は滅多に見ない。私は三人の息子達に感情移入して、都様に責められるのを夢見るようになった。
「ね、ねえ、絵葉さん、ちょっとこっち!」
「え? うわっ」
館の裏の掃除をしていた私は突然現れた百子さんに引っ張られて、人気のない森の裏の、さらに奥の方に連れていかれた。
「お願い、内緒の話があるの、聞いてちょうだい」
百子さんは両手を合わせて懇願した。
「は、はあ・・・。どうされました?」
「貴方、夢を見たことはない?」
思わず、といった瞬間を見逃さなかったのか、百子さんは私の両手首を強く握った。
「結論から言うわね。私も見るのよ。あの三人の夢を。あの三人が都様の情夫だってことは一目見ればわかるけれど、私には確証がなかった。私はずっとずっと、夢を、繰り返し繰り返し見ていたわ。でも、段々見なくなった。貴方が来てからなの。私が見ていた夢を、貴方が見ているのよ。私はチャンスだと思った。起きていられるチャンスだとね。それで、貴方が居眠りしている間に、都様の部屋を覗いてみたの。そうしたら、都様と淳蔵様が・・・」
殆ど一息でそこまで言って、百子さんは息を吸い込んだ。
「私ね、淳蔵様が嫌いなの。だから脅迫してやろうと思った。ICレコーダーで二人の音声を録音して、ここに呼びだした淳蔵様に聞かせてやったの・・・」
一瞬の轟音と共に視界が真っ白になり、私の目の前に淳蔵様と百子さんが映し出された。
「こんな恥ずかしい音声が流出したら、貴方の人生、終わりね!」
百子さんは勝ち誇ったように言う。対する淳蔵様は髪を掻きあげて長い腕を組んだ。百子さんが続ける。
「都様が何者か知らないけれど、こんな変態だと知られたら客も逃げるでしょうね! さあ、私を馬鹿にしたことを謝りなさい! 地面に両手をついて謝るのよ! このケツ穴クソ野郎!」
淳蔵様は腕を組んだまま失笑した。
「うるせえ『ひねどり』だな」
「ひ、ひねどり?」
「産卵して役目を終えた鳥をそう呼ぶんだよ」
そう言われた瞬間、百子さんは明らかに狼狽した。
「ど、どういう意味よ!」
「あんたさぁ、名前、なんだったか忘れたけど、仕事は優秀なんだから大人しくしとけよな。これ、俺からの忠告。じゃ」
淳蔵様は去っていった。私の視界が正常に戻る。
「・・・今の、見た?」
百子さんがごくりと喉を鳴らした。
「この館は『普通』じゃないわ! なにが起きるかわからない! 私、今すぐにでも逃げて警察に・・・」
私は思わず、
思わず百子さんの首を絞めた。
「駄目・・・! やめてやめてやめて・・・!」
首を絞めているのは私の方なのに、私は絞り出すようにそう言う。百子さんが私の手の甲を爪で引っ掻き、少しずつ白目を剥き始めた、その時だった。
ぽんぽん。
私は誰かに肩を叩かれ、覆い被さっていた百子さんから飛び退いた。
「なにしてるの?」
「み、美代様・・・」
美代様とジャスミンだった。ジャスミンは百子さんの隣でオスワリをする。百子さんが咳き込みながら上半身を起こした。
「喧嘩?」
呑気にそう言う美代様の足に百子さんが縋りつく。
「きゅ、救急車呼んでください! それと警察! 私、絵葉さんに殺されかけたんです!」
「そうなの? 俺、今、携帯持ってないから百子君の貸してくれる?」
美代様は右手を百子さんに差し出した。百子さんは一瞬手を伸ばしかけて、
「だ、駄目ですっ!!」
と手を引っ込めた。美代様が首を傾げる。
「え? でも・・・」
百子さんは顔を真っ赤にして立ち上がり、叫んだ。
「私、今日限りでここで働くのを辞めさせていただきます!! 今月分のお給料は結構です!! ありがとうございました!!」
「えー? あ、ちょっと・・・」
美代様が呼び止めるのも無視して、百子さんはズカズカと歩いて去っていった。残されたのは困惑を極める美代様と、百子さんの怒号に怯えるジャスミン。未だ膝から崩れて立ち上がれない私。
「絵葉君、なにがあったの?」
「わ、私、えっと・・・」
「手を怪我してるね。首を絞めたのは本当なの?」
「・・・はい。ちょっと、口論になっちゃって。あんまりにも私を馬鹿にするので、ついカッとなって」
私は咄嗟に嘘を吐いた。
「うーん、片方の言うことだけ信じるのもどうなのかなあって感じだけどなあ。絵葉君、逃げないよね?」
「に、逃げません!」
「じゃあ、俺は都に相談してくるから、恵美君か直治を捕まえて傷の手当てを受けて、自室で待機しててくれる?」
「はい・・・」
恵美ちゃんは客室の掃除を言い渡されていたはずなので、客室をいくつか回って恵美ちゃんを捕まえ、傷の手当てをしてもらい、美代様に言われた通り自室に戻った。あまりにも精神的に疲れすぎてベッドに寝転ぶ。
夢は見なかった。
「先輩、せんぱぁい、夜ですよー」
「へあっ!?」
部屋の中に恵美ちゃんが居た。
「ごめんなさい、絶対に呼んで来いって言われたので勝手に入っちゃいました」
「い、いいよいいよ」
「あの、美代様から話は聞きました。百子先輩、絵葉先輩のこと警察には届けないって」
「あ、そ、そうなの・・・? そうなんだ・・・」
「絵葉先輩も解雇はしないそうですよ。ただ、後で都様に謝りに来てほしいって」
「わかった・・・。ごめんね、恵美ちゃんまで巻き込んで。失望したよね・・・?」
「失望? いえ、あの、今時引っ掻き合いの喧嘩をするなんて猫みたいだなとは思いましたけど・・・」
どうやら美代様は詳細は伏せてくれたようである。
「それより、今日は美代様が料理当番の日ですよ! 珍しいお肉をお取り寄せしたって仰ってました!」
場を明るくしようとしたのか、恵美ちゃんがにっこり笑った。
「・・・へえ、なんのお肉だろう?」
「『ひねどり』ですって!」
「え?」
「ね、ねえ、絵葉さん、ちょっとこっち!」
「え? うわっ」
館の裏の掃除をしていた私は突然現れた百子さんに引っ張られて、人気のない森の裏の、さらに奥の方に連れていかれた。
「お願い、内緒の話があるの、聞いてちょうだい」
百子さんは両手を合わせて懇願した。
「は、はあ・・・。どうされました?」
「貴方、夢を見たことはない?」
思わず、といった瞬間を見逃さなかったのか、百子さんは私の両手首を強く握った。
「結論から言うわね。私も見るのよ。あの三人の夢を。あの三人が都様の情夫だってことは一目見ればわかるけれど、私には確証がなかった。私はずっとずっと、夢を、繰り返し繰り返し見ていたわ。でも、段々見なくなった。貴方が来てからなの。私が見ていた夢を、貴方が見ているのよ。私はチャンスだと思った。起きていられるチャンスだとね。それで、貴方が居眠りしている間に、都様の部屋を覗いてみたの。そうしたら、都様と淳蔵様が・・・」
殆ど一息でそこまで言って、百子さんは息を吸い込んだ。
「私ね、淳蔵様が嫌いなの。だから脅迫してやろうと思った。ICレコーダーで二人の音声を録音して、ここに呼びだした淳蔵様に聞かせてやったの・・・」
一瞬の轟音と共に視界が真っ白になり、私の目の前に淳蔵様と百子さんが映し出された。
「こんな恥ずかしい音声が流出したら、貴方の人生、終わりね!」
百子さんは勝ち誇ったように言う。対する淳蔵様は髪を掻きあげて長い腕を組んだ。百子さんが続ける。
「都様が何者か知らないけれど、こんな変態だと知られたら客も逃げるでしょうね! さあ、私を馬鹿にしたことを謝りなさい! 地面に両手をついて謝るのよ! このケツ穴クソ野郎!」
淳蔵様は腕を組んだまま失笑した。
「うるせえ『ひねどり』だな」
「ひ、ひねどり?」
「産卵して役目を終えた鳥をそう呼ぶんだよ」
そう言われた瞬間、百子さんは明らかに狼狽した。
「ど、どういう意味よ!」
「あんたさぁ、名前、なんだったか忘れたけど、仕事は優秀なんだから大人しくしとけよな。これ、俺からの忠告。じゃ」
淳蔵様は去っていった。私の視界が正常に戻る。
「・・・今の、見た?」
百子さんがごくりと喉を鳴らした。
「この館は『普通』じゃないわ! なにが起きるかわからない! 私、今すぐにでも逃げて警察に・・・」
私は思わず、
思わず百子さんの首を絞めた。
「駄目・・・! やめてやめてやめて・・・!」
首を絞めているのは私の方なのに、私は絞り出すようにそう言う。百子さんが私の手の甲を爪で引っ掻き、少しずつ白目を剥き始めた、その時だった。
ぽんぽん。
私は誰かに肩を叩かれ、覆い被さっていた百子さんから飛び退いた。
「なにしてるの?」
「み、美代様・・・」
美代様とジャスミンだった。ジャスミンは百子さんの隣でオスワリをする。百子さんが咳き込みながら上半身を起こした。
「喧嘩?」
呑気にそう言う美代様の足に百子さんが縋りつく。
「きゅ、救急車呼んでください! それと警察! 私、絵葉さんに殺されかけたんです!」
「そうなの? 俺、今、携帯持ってないから百子君の貸してくれる?」
美代様は右手を百子さんに差し出した。百子さんは一瞬手を伸ばしかけて、
「だ、駄目ですっ!!」
と手を引っ込めた。美代様が首を傾げる。
「え? でも・・・」
百子さんは顔を真っ赤にして立ち上がり、叫んだ。
「私、今日限りでここで働くのを辞めさせていただきます!! 今月分のお給料は結構です!! ありがとうございました!!」
「えー? あ、ちょっと・・・」
美代様が呼び止めるのも無視して、百子さんはズカズカと歩いて去っていった。残されたのは困惑を極める美代様と、百子さんの怒号に怯えるジャスミン。未だ膝から崩れて立ち上がれない私。
「絵葉君、なにがあったの?」
「わ、私、えっと・・・」
「手を怪我してるね。首を絞めたのは本当なの?」
「・・・はい。ちょっと、口論になっちゃって。あんまりにも私を馬鹿にするので、ついカッとなって」
私は咄嗟に嘘を吐いた。
「うーん、片方の言うことだけ信じるのもどうなのかなあって感じだけどなあ。絵葉君、逃げないよね?」
「に、逃げません!」
「じゃあ、俺は都に相談してくるから、恵美君か直治を捕まえて傷の手当てを受けて、自室で待機しててくれる?」
「はい・・・」
恵美ちゃんは客室の掃除を言い渡されていたはずなので、客室をいくつか回って恵美ちゃんを捕まえ、傷の手当てをしてもらい、美代様に言われた通り自室に戻った。あまりにも精神的に疲れすぎてベッドに寝転ぶ。
夢は見なかった。
「先輩、せんぱぁい、夜ですよー」
「へあっ!?」
部屋の中に恵美ちゃんが居た。
「ごめんなさい、絶対に呼んで来いって言われたので勝手に入っちゃいました」
「い、いいよいいよ」
「あの、美代様から話は聞きました。百子先輩、絵葉先輩のこと警察には届けないって」
「あ、そ、そうなの・・・? そうなんだ・・・」
「絵葉先輩も解雇はしないそうですよ。ただ、後で都様に謝りに来てほしいって」
「わかった・・・。ごめんね、恵美ちゃんまで巻き込んで。失望したよね・・・?」
「失望? いえ、あの、今時引っ掻き合いの喧嘩をするなんて猫みたいだなとは思いましたけど・・・」
どうやら美代様は詳細は伏せてくれたようである。
「それより、今日は美代様が料理当番の日ですよ! 珍しいお肉をお取り寄せしたって仰ってました!」
場を明るくしようとしたのか、恵美ちゃんがにっこり笑った。
「・・・へえ、なんのお肉だろう?」
「『ひねどり』ですって!」
「え?」