百四十九話 両価感情

文字数 1,954文字

こんこん。

返答はない。そっとドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。少し迷ってから、諦めて戻ろうとした時、かちゃり、と鍵の開く音がした。部屋の中に入ると、尻尾をぶんぶん振っているジャスミンが座っていた。俺は軽く頭を撫でてやってからドアの鍵をかけ直し、寝室に行く。都はベッドに腰掛けて酒を飲んでいた。


「ジャスミンの馬鹿」

「あいつなりに、都のこと考えてるんだよ」


俺は都の隣に座る。


「今日はなにもしたくないし、誰にも会いたくなかったのに」

「ごめん、放っておけないよ」

「・・・飲む?」


都はグラスに酒を注ぐ。俺は受け取って一気に飲んで、都にグラスを返した。


「つッよい酒飲んでんな・・・」

「これすぐ酔えるから」

「ならもう一杯だけだぞ」


都は深呼吸を繰り返しながら、グラスに酒を注ぐ。


「身代わりになんてしなければ、もっと違う人生を送っていたのかな・・・」

「・・・どうだろ。母親がシングルマザーで育てるって道もあっただろうけど」

「けど?」

「ここで産まれ育って得た幸せと、同じくらい幸せになれたかどうかはわからないだろ」

「・・・結果論だね」

「そうだな、『たられば』の話だよ」


都はぐいっと酒を飲み、もう一杯注ぎ始める。


「こらこら」

「うるせー」

「俺との約束破るのか?」


都は黙ってじっと考えると、俺にグラスを渡した。


「良い子だな」

「どこが?」

「良い子だよ」


俺は都にグラスを持たせる。都は少し迷ってから、ぐいっと酒を飲み干した。


「美代も直治も、雅さんは幸せだったって言うの」

「雅は幸せだっただろ」


都は首を横に振った。


「私、本当に最低。自分の復讐のためにあの子を利用して、自分の罪悪感を殺すためにあの子を育てて、死んだら悲しい悲しいって言って泣いて、周りに迷惑をかけてるんだから・・・」

「確かに、最初は身代わりとして育ててたよ、雅は。でも、そこで終わらなかった。十五歳の誕生日に死んだあと、都は雅を哀れんで、少しでも長く楽しく暮らせるように、こころを砕いてやったじゃないか。ただ甘やかすだけじゃなくて、きちんと厳しく躾けて、『外』の世界でも生きていけるようにしてやったじゃないかよ」


都は俺を見上げる。


「学校に行って勉強して、休みの日は友達と遊んで。会社に勤め始めたら自分で金を稼いで好きなものを買って暮らしてた。好きな男もできて、そいつと付き合って、結婚だって考えてた。その先のことも考えていたかもしれない。わかるだろ、都。雅は幸せだっただろ?」


都は首を縦にも横にも振らなかった。


「幸せの詰まった場所だから、雅は休みになるたびに館に帰ってきてたんだよ。都や千代に電話をかけてあれこれ話すのだって、そうしている時間が幸せだからなんだよ。この館で生まれ育って、雅は幸せだった。そこは、間違いないんだ」


俺は都の頭を撫でた。


「雅が死んで悲しいのなら、好きなだけ泣いて、俺達に甘えればいい。でもな、都。『幸せにしてあげられなかった』って泣くのはお門違いだ。わかったか?」


都はゆっくり、頷いた。


「眠い」

「寝ろ。ちょっとはすっきりするから」

「寝ていいのかな・・・」

「一緒に寝てやるから。な?」


都はベッドサイドのテーブルに酒とグラスを置く。俺は都に腕枕をしてやり、抱きしめる。


「あのね・・・」

「うん?」

「雅さんのこと、疎ましかったの」


俺は都に視線を合わせず、額に頬を寄せる。


「私が何十年もかけて居心地良くした館を、産まれた時から我が家だと思って楽しそうに暮らして、私の家族にべたべたと馴れ馴れしく・・・」


都が悔しそうに言う。


「淳蔵の運転する車に乗って、美代に勉強を教えてもらって、親友の千代さんと遊びたいがために仕事中の直治にちょっかいを出す。私、それが凄く腹立たしくて・・・」


独白は続く。


「疎ましかったの・・・」


声が潤んでいる。


「でも愛してたんだろ?」

「・・・うん」

「『両価感情』ってヤツだよ。都、今は、ショックな出来事を受けて精神的にキちまってるんだ。暫くの間、つらいだろうけど、時間が経てば、ゆっくり回復していくから、取り敢えず寝るんだ。いいな?」


俺は都の額にキスをして、ゆっくりとしたテンポで、身体を、ぽん、ぽん、と叩く。鼓動に近いリズム。幼い頃に母親の腕に抱かれて、胸に頭を寄せた時に聞こえる、母親の生きている音。こうやって寝かしつけるのも、都が教えてくれたことだ。

哀れな女。

女同士の嫉妬、血の繋がらない親子の確執、一つの個性としての相性。簡単には言い表せない関係だ。だから都が雅を疎みながらも愛しているのは、なにもおかしいことではないのに、都はそれで苦しんでいる。

ジャスミンがベッドに飛び乗ってきて、都の背中に自分の背中をくっつけて寝始める。都は酒が効いたのか、ジャスミンが悲しみを取り除いたのかはわからないが、ゆっくりと寝息を立て始めた。
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