二百六十話 人間の身体
文字数 2,931文字
淳蔵と美代が酒を持って部屋を訪ねてきた。
「どーしたよお前?」
淳蔵の問いに答えるため、俺は肺に空気を溜める。
「あいつ、似てるんだ、昔の俺に」
美代が静かに俺を見つめる。
「そんな感じはしないけどなァ」
「俺にしかわからない感覚だ。都もわからなかった」
「うーん、統合失調症?」
「かもしれない。目を見れば『なにかおかしい』のは、なんとなくわかるだろ?」
「そうだなァ。普段からどこ見てるのかわかんねえし、会話が成立しない時は焦点が合ってなかったな。なんというか、ギョロギョロしてたな」
「だろ? 目がギョロギョロしてる時は、頭の中が妄想でいっぱいになっていて、忙しいんだ。あいつの症状は『誇大妄想』と『認知性機能障害』だな。誇大妄想は自分を過大評価する妄想だ。自分は美人で可愛くて、性格が良くて、仕事ができると信じ込んでいる。自分は映画やドラマの主人公のような人物で、自分の言動は全て良いことで、自分の理想の結果を手繰り寄せられると信じ込んでいるんだ。上手くいかなかったら一転して悲劇のヒロインになる。実際には能力が足りていないから、上手くいかない。そもそも易きに流れやすいから、成功することは殆ど無い。小数点以下だ。そんな現実を受け入れられなくて、ちっぽけな自尊心を守るために、嘘を吐いたり言い訳をしたりする。そして、嘘を吐いたり言い訳をしたりする自分すら受け入れられず、嘘も言い訳も本当のことだと思い込む」
俺は深く息を吐き、酒を煽ってから、続ける。
「それに拍車をかけてるのが認知性機能障害だ。集中力、記憶力、判断力が低下している状態だ。対人関係に絞って言うと、集中して人の話を聞くことができない。聞いた話を記憶することができない。言って良いことと悪いことの判断ができない。だから、人を怒らせて、悲しませて、呆れさせて、蔑まれ、疎まれ、見捨てられる」
俺が、俺の両親に見捨てられたように。
「あいつ、自分がおかしいことに気付いていないんだ。あいつに関わってきた人間も、おかしいとは思っていても、誰もあいつに伝えなかった。いや、伝えても伝わらなかった結果が今なのかもしれないがな」
俺は舌で唇を濡らした。
「メイドを雇う時、持病がある者は、ジャスミンが選んでも俺が弾いていた。『仕込み』の段階で薬を抜くのが大変だからだ」
美代が頷く。
「履歴書に添付されている写真を見た時、目を見て『正常じゃない』と判断していたのに、通院歴が無いからという理由で面接をして、そのまま採用してしまった。俺の職務怠慢が今回の一件を引き起こしたんだ」
「十分反省しているみたいですし、謝罪は結構ですよ。な、美代?」
「だね」
謝ろうとしたのに、先手を打たれてしまった。
がちゃ。
ドアの鍵を勝手に開けて、ジャスミンが部屋に入ってくる。俺の正面に座り、悪戯を叱られた子供のような目で俺を見上げたあと、俺の隣に座り直して、太腿に顎を乗せてきた。謝っているらしい。
「おー? ジャスミン、アニマルセラピーかァ?」
「セラピードッグにしては生意気が過ぎるね」
淳蔵と美代が茶化しても反撃しない程、反省しているようだ。
「・・・お前は悪くねえよ」
頭を撫でたあと、顔を近付ける。ジャスミンは俺の顔をぺろぺろと舐め始めた。準肉食動物の舌なので、ざりざりしていて、舐め続けられるとちょっと痛い。
そういえばこの『犬』、たまに人型になるのは何故なのだろう。
五歳の都が拾った時は、『目玉が一つ、足が六本、尻尾が二本、口が二つ』の謎の生き物だったらしい。どう考えても異形の化け物なのに、『犬さん、あのね、犬さんはおめめが二つ、あんよは四つ、尻尾は一本、お口は一つなんだよ』と言って、強引に『犬』ということにした幼い都の肝の据わりっぷりに、笑っていいのか、感心していいのか、わからない。
人型の時は、淳蔵よりも背が高く、長い髪も眉毛も神秘性を感じる程に真っ白で、身体に程よく筋肉がついていて、白皙の美男という言葉を体現したような顔をしている。そんな男に顔を舐められていると思うとなんともいえない気持ちになってきたので、俺は顔を離した。
「はあ・・・。俺も犬になって、一日中都にべたべた引っ付いていたい・・・」
「ハハハ、俺も同じこと考えて、都と二人で酒を飲んでいる時に『俺が犬になったらどんな犬だと思う?』って聞いたなァ。直治は黒いラブラドールだって言ってたぞ」
「犬になりたいとは言ったけど、なんでジャスミンと同じ犬種なんだよ」
「『なんとなく』だとよ。俺はハスキーで美代はポメラニアンだって」
酒を飲んでいた美代が少し咽る。
「千代が柴犬で桜子はダルメシアンだと。結構、的を射ていると思うなァ」
「ど、こ、が、だ、よ! なんで俺だけ小型犬なんだ!」
「いや俺が言ってんじゃなくて都が言ってたんだって。『なんとなく』ってことは『そんな雰囲気がする』ってことだろ? お前は都に滅茶苦茶可愛いと思われてる証拠じゃねえの?」
「ドーベルマンとか言われたかったですねぇ・・・!」
「土佐犬かピットブルだと思うんだけどなァ」
「喧嘩売ってんだろお前!」
「落ち着きたまえよポメ美代君」
「やかましいわ!」
淳蔵も美代も、軽口を叩き合って笑いながら酒を煽った。二人のおかげで、憂鬱な気分が軽くなってくる。
「自分のことは『雑種』って言ってて、『なんで?』って聞いたら『ミステリアスでしょ』って笑ってたな」
「あはっ、都らしい・・・」
ゆっくりと酒を飲んで、全快とはいかないが、落ち着いた気持ちで眠ったその日の夜。
夢を見た。
目の前に、都が居る。都の瞳に映った俺は、見慣れたジャスミンの姿をしていた。唯一違うのは、被毛が黒いこと。膝をついた都は、両手を広げて、ゆっくりと俺を抱きしめる。
何故だか、物足りない。
最愛の都に抱きしめられて、これ以上ない程幸せなはずなのに。
都が俺の身体を離してしまう。
もっと抱きしめていてほしい。
都が抱きしめてくれないのなら、俺が都を抱きしめたい。
そう思った途端、視線の高さがするすると伸びて、あっという間に都より高くなった。都が俺を見上げている。瞳に映っているのは、いつも洗面台の鏡で見る俺だった。
俺は都を抱きしめる。
艶があってさらさらなのに、どうしても外側に少し跳ねてしまう髪。この髪がどうしようもなく愛おしい。後ろ髪に指を這わせて、頬を寄せ合う。細い背中に腕を回してがっちりと押さえこむ。誰にも渡さないしどこへも行かせない。
気持ちがゆっくりと甘く温まってきて、少しだけ身体を離してキスをしようと思ったら、ブレーカーが落ちたようにブツッと真っ暗になって、そこで目が覚めてしまった。
「・・・ッチ、馬鹿犬」
寝返りを打ちながら、悪態を吐く。俺はなんとなく察した。ジャスミンは都に恋愛感情を、性欲を一切抱いていない。そういう愛し合い方もあるんだろう。俺は都とイチャイチャしたいしえっちなこともしたい。『人間』の都とそういうことをするためには『人間』の身体が必要だ。時々ジャスミンが羨ましくなって『犬になりたい』と思うことがあるが、このままでいい、という気持ちになった。えっちなことをする時に突っ込む方と突っ込まれる方が逆になっているが、あまり深く考えないようにして、再び眠りに就いた。
「どーしたよお前?」
淳蔵の問いに答えるため、俺は肺に空気を溜める。
「あいつ、似てるんだ、昔の俺に」
美代が静かに俺を見つめる。
「そんな感じはしないけどなァ」
「俺にしかわからない感覚だ。都もわからなかった」
「うーん、統合失調症?」
「かもしれない。目を見れば『なにかおかしい』のは、なんとなくわかるだろ?」
「そうだなァ。普段からどこ見てるのかわかんねえし、会話が成立しない時は焦点が合ってなかったな。なんというか、ギョロギョロしてたな」
「だろ? 目がギョロギョロしてる時は、頭の中が妄想でいっぱいになっていて、忙しいんだ。あいつの症状は『誇大妄想』と『認知性機能障害』だな。誇大妄想は自分を過大評価する妄想だ。自分は美人で可愛くて、性格が良くて、仕事ができると信じ込んでいる。自分は映画やドラマの主人公のような人物で、自分の言動は全て良いことで、自分の理想の結果を手繰り寄せられると信じ込んでいるんだ。上手くいかなかったら一転して悲劇のヒロインになる。実際には能力が足りていないから、上手くいかない。そもそも易きに流れやすいから、成功することは殆ど無い。小数点以下だ。そんな現実を受け入れられなくて、ちっぽけな自尊心を守るために、嘘を吐いたり言い訳をしたりする。そして、嘘を吐いたり言い訳をしたりする自分すら受け入れられず、嘘も言い訳も本当のことだと思い込む」
俺は深く息を吐き、酒を煽ってから、続ける。
「それに拍車をかけてるのが認知性機能障害だ。集中力、記憶力、判断力が低下している状態だ。対人関係に絞って言うと、集中して人の話を聞くことができない。聞いた話を記憶することができない。言って良いことと悪いことの判断ができない。だから、人を怒らせて、悲しませて、呆れさせて、蔑まれ、疎まれ、見捨てられる」
俺が、俺の両親に見捨てられたように。
「あいつ、自分がおかしいことに気付いていないんだ。あいつに関わってきた人間も、おかしいとは思っていても、誰もあいつに伝えなかった。いや、伝えても伝わらなかった結果が今なのかもしれないがな」
俺は舌で唇を濡らした。
「メイドを雇う時、持病がある者は、ジャスミンが選んでも俺が弾いていた。『仕込み』の段階で薬を抜くのが大変だからだ」
美代が頷く。
「履歴書に添付されている写真を見た時、目を見て『正常じゃない』と判断していたのに、通院歴が無いからという理由で面接をして、そのまま採用してしまった。俺の職務怠慢が今回の一件を引き起こしたんだ」
「十分反省しているみたいですし、謝罪は結構ですよ。な、美代?」
「だね」
謝ろうとしたのに、先手を打たれてしまった。
がちゃ。
ドアの鍵を勝手に開けて、ジャスミンが部屋に入ってくる。俺の正面に座り、悪戯を叱られた子供のような目で俺を見上げたあと、俺の隣に座り直して、太腿に顎を乗せてきた。謝っているらしい。
「おー? ジャスミン、アニマルセラピーかァ?」
「セラピードッグにしては生意気が過ぎるね」
淳蔵と美代が茶化しても反撃しない程、反省しているようだ。
「・・・お前は悪くねえよ」
頭を撫でたあと、顔を近付ける。ジャスミンは俺の顔をぺろぺろと舐め始めた。準肉食動物の舌なので、ざりざりしていて、舐め続けられるとちょっと痛い。
そういえばこの『犬』、たまに人型になるのは何故なのだろう。
五歳の都が拾った時は、『目玉が一つ、足が六本、尻尾が二本、口が二つ』の謎の生き物だったらしい。どう考えても異形の化け物なのに、『犬さん、あのね、犬さんはおめめが二つ、あんよは四つ、尻尾は一本、お口は一つなんだよ』と言って、強引に『犬』ということにした幼い都の肝の据わりっぷりに、笑っていいのか、感心していいのか、わからない。
人型の時は、淳蔵よりも背が高く、長い髪も眉毛も神秘性を感じる程に真っ白で、身体に程よく筋肉がついていて、白皙の美男という言葉を体現したような顔をしている。そんな男に顔を舐められていると思うとなんともいえない気持ちになってきたので、俺は顔を離した。
「はあ・・・。俺も犬になって、一日中都にべたべた引っ付いていたい・・・」
「ハハハ、俺も同じこと考えて、都と二人で酒を飲んでいる時に『俺が犬になったらどんな犬だと思う?』って聞いたなァ。直治は黒いラブラドールだって言ってたぞ」
「犬になりたいとは言ったけど、なんでジャスミンと同じ犬種なんだよ」
「『なんとなく』だとよ。俺はハスキーで美代はポメラニアンだって」
酒を飲んでいた美代が少し咽る。
「千代が柴犬で桜子はダルメシアンだと。結構、的を射ていると思うなァ」
「ど、こ、が、だ、よ! なんで俺だけ小型犬なんだ!」
「いや俺が言ってんじゃなくて都が言ってたんだって。『なんとなく』ってことは『そんな雰囲気がする』ってことだろ? お前は都に滅茶苦茶可愛いと思われてる証拠じゃねえの?」
「ドーベルマンとか言われたかったですねぇ・・・!」
「土佐犬かピットブルだと思うんだけどなァ」
「喧嘩売ってんだろお前!」
「落ち着きたまえよポメ美代君」
「やかましいわ!」
淳蔵も美代も、軽口を叩き合って笑いながら酒を煽った。二人のおかげで、憂鬱な気分が軽くなってくる。
「自分のことは『雑種』って言ってて、『なんで?』って聞いたら『ミステリアスでしょ』って笑ってたな」
「あはっ、都らしい・・・」
ゆっくりと酒を飲んで、全快とはいかないが、落ち着いた気持ちで眠ったその日の夜。
夢を見た。
目の前に、都が居る。都の瞳に映った俺は、見慣れたジャスミンの姿をしていた。唯一違うのは、被毛が黒いこと。膝をついた都は、両手を広げて、ゆっくりと俺を抱きしめる。
何故だか、物足りない。
最愛の都に抱きしめられて、これ以上ない程幸せなはずなのに。
都が俺の身体を離してしまう。
もっと抱きしめていてほしい。
都が抱きしめてくれないのなら、俺が都を抱きしめたい。
そう思った途端、視線の高さがするすると伸びて、あっという間に都より高くなった。都が俺を見上げている。瞳に映っているのは、いつも洗面台の鏡で見る俺だった。
俺は都を抱きしめる。
艶があってさらさらなのに、どうしても外側に少し跳ねてしまう髪。この髪がどうしようもなく愛おしい。後ろ髪に指を這わせて、頬を寄せ合う。細い背中に腕を回してがっちりと押さえこむ。誰にも渡さないしどこへも行かせない。
気持ちがゆっくりと甘く温まってきて、少しだけ身体を離してキスをしようと思ったら、ブレーカーが落ちたようにブツッと真っ暗になって、そこで目が覚めてしまった。
「・・・ッチ、馬鹿犬」
寝返りを打ちながら、悪態を吐く。俺はなんとなく察した。ジャスミンは都に恋愛感情を、性欲を一切抱いていない。そういう愛し合い方もあるんだろう。俺は都とイチャイチャしたいしえっちなこともしたい。『人間』の都とそういうことをするためには『人間』の身体が必要だ。時々ジャスミンが羨ましくなって『犬になりたい』と思うことがあるが、このままでいい、という気持ちになった。えっちなことをする時に突っ込む方と突っ込まれる方が逆になっているが、あまり深く考えないようにして、再び眠りに就いた。