二百六十一話 脱皮

文字数 2,971文字

『美影を絞める』と直治に伝えるのは、美影の試用期間が終わる一週間前にしよう、と決まっていた。美影が『人間』として過ごす最期の一週間で、直治は、美影と、美影を通して見ている昔の自分と、直治の両親のことで頭がいっぱいになって混乱してしまうだろうから、その苦しみをできるだけ和らげてやりたい、というのが都の考えだった。美影が『カレー事件』を起こしたのは使用期間が終わる一週間と一日前。『肉』を喰うための『仕込み』の期間に『肉』としての美影と接触させることすら悪い結果しか齎さないと都に判断され、美影の希望通り、試用期間が終わったら解雇して、美影を一条家から追い出すことに決まった。

人間らしい感情を忘れさせないためにこころを掻き乱すのと、トラウマを抉るのは全く違うことだ。

直治は、真面目だが不真面目で、残酷だが優しい男だ。そもそも、直治が『仕込み係』をしているのは、直治が進んで『やりたい』と言ったからだ。俺と美代が気乗り薄でやっていた肉の世話を、直治は嬉々としてやっている。圧倒的な立場から他者を支配する悦びを味わうためだ。都に仇成す者への拷問も喜んで執行する。人間を痛苦で狂い悶えさせるのは楽しい。それが愚か者なら猶更楽しい。俺と美代は愚か者が先にくるのに、直治は狂わせるのが先にくる。根っからの『拷問狂』なのである。

だというのに、『獲物』と定めるまでは、優しく取り扱う。良い点は褒めて伸ばし、悪い点は叱るのではなく諭す。本人は『口下手』を自称しているが、別段下手ではない。寧ろ、眠りを誘うような優しい声で話をされたら、嬉しく感じる人間も居るだろう。

軽口を叩いたりわざと挑発したりするのは『家族』と認めている者だけ。都と、俺と美代と、千代と桜子だけだ。

そんな直治が『俺はお前が嫌いだ』と断言した人間。それが美影だ。美影は生きて一条家を出ていく。それが美影にとって幸運なのか不運なのかはわからないが、俺はなかなか悪運が強いヤツだと思った。

美影の部屋、窓の外からの監視を任されて、今日で六日目。

六日前、カレー事件を起こしたのは昼のこと。その日はベッドに凭れ掛かって泣いたあと、ベッドの上に寝転んでテレビをつけっぱなしにしながら携帯を弄り、『夕食の時間ですよォ』とドアをノックして声をかけた千代を無視して、何事も無かったかのように寝ていた。

翌日の朝、『おはようございまーす』と言って食堂に現れ、美影の分の食事が用意されているのを見ると、『えー? 私の分、あるんだぁ、変なのー』と笑っていたが、食事はぺろりと平らげていた。俺達は美影に話しかけず、美影も俺達に話しかけないまま、食事は終わった。

三日目の昼飯の時、こんなやりとりがあった。


「あれ? お昼御飯、カレーなんですか?」


美影が椅子に座る。


「一条さん、このカレー、まさか私が作ったカレーじゃないですよね?」


美影は俺達を苗字で呼ぶことにしたらしい。都は上品な笑みを浮かべて、美影に答えた。


「違うわよ。これは美代が作ったカレー」

「あー、良かったー。あんなに文句言ったのに食べるとかマジ有り得ないんでー、本当に良かったですー」

「そうね。では、いただきましょう」


『いただきます』の声が揃う。


「一条さん、私が作ったカレーってどうしたんですか?」

「捨てたわ」

「え? 捨てたんですか?」

「ええ。捨てたわ」

「えー、食べもの捨てるとか、ヤバ・・・」

「そうね。食べものを粗末にしてはいけないから、私が食べて消費しようと思ったのだけれど、不味過ぎて無理だと判断したから、捨ててしまったの」

「えー? 人が作ってくれた料理に対して『不味い』って言っちゃうんですねー。作ってくれた人に対してすっごい失礼だと思いますね、それ。ていうか味見したんですか?」

「ええ。味見したわ」

「へー。ところで、一条さんの作ったカレー、なんか、イマイチですねー。なんか、レトルトをドバーッと鍋に入れて温めたみたいな味がしますね。なんでなんですかね?」

「味の感じ方は人によって違うから、貴方には合わない味なんでしょうね」

「あー、そうですか。いや、でも、料理教室とか通った方がいいんじゃないんですか?」

「美代は調理師免許持ってるわよ」

「あー、そうですか。スッゴーイ。そういえば、客にカレー出してるとこ見たことあるんですけど、誰が作ったカレーを出してたんですか?」

「お客様にお出しするカレーは美代が作ったものよ」

「へー、このクオリティーで出すんだ。ヤバ。カレーの値段って幾らでしたっけ?」

「単品なら三百六十円。セットなら四百二十円ね」

「ふーん、成程。安さの理由は味なんですねー。あのー、一条さん? 私、三日間働いてないんですけど、その分の給料ってどうなるんですか? 携帯で調べたら、試用期間中の給料が減額されるのは、会社側と労働者側の間で合意がとれた時だけで、会社の独断で、合意なしに給料を引き下げることはできない、って書いてあったんですけどー」

「心配しなくても、雇用時に契約した通りのお給料を支払うわよ。貴方に三日間、働いてほしいと言わなかったのは、貴方に館の中をうろついてほしくないからなの。残りの日数も働かなくていいから、荷物をまとめて部屋を綺麗にしておいてね」

「あー。そうですか。あー、良かったー。まあ、金が貰えれば別にどうでもいいんですけど。あ、そういえば、」

「いつまで私に喋らせる気なの? 食事ができないじゃない」

「あー、すみません。私、またなにかやっちゃったみたいで。ほんと、すみません」


美影は喋るのをやめて、食べることに集中し始める。長い付き合いのある俺達にしかわからない程度にだが、都はうんざりした顔をした。この会話を最後に、静かな日々が過ぎていった。


『さて・・・』


美影が寝た。明日の朝、一条家を出ていく。直治は暫くの間、自分を責めて落ち込んでいるだろう。今回のことで開いた古傷が、トラウマが癒えるまで、直治には時間が必要になる。

昔、直治はトラウマで苦しんでいる美代を見て『脱皮の時期だ』と言った。

乗り越えたら精神的に成長する。ただ、今は、白くて無垢で、柔くて危ない。そっと触れてやるしかない。直治がどうなるかは誰にもわからない。それこそ、ジャスミンにさえ。直治次第だ。そして、直治を取り巻く『環境』である俺達次第だ。

翌日の、朝。

タクシーを呼んで、美影の荷物を積む間、責任者である都と、俺と美代が『見送り』という名の『監視』をしていた。荷物を積み終わった美影が、都と向き合う。


「あのー、一条さん? 一条さんは来ないんですか?」


直治のことを言っているんだろう。しかし、おかしな喋り方だ。これで自覚が無いというのだから、憐れみと、少しの恐怖を感じる。


「直治は忙しいの」

「私が辞める原因になった人なのに? 謝罪とかさせないんですか?」


あれだけ直治に熱を上げていたというのに、この手の平の返しようときたら、ギュルギュルと音を立てて腕がすっぽ抜けていきそうな勢いだ。今後もこんな生き方をしていくんだろう。就職先や住む場所を見つけられず、追い詰められて『やっぱり雇ってください』などと泣きついてこなければいいが。


「白石美影さん、二カ月間、お疲れ様でした」


都がお辞儀をする。俺達も倣った。


「あっそ。あざしたー」


こうして、白石美影は一条家から去っていった。
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