百四十八話 冷雨

文字数 2,275文字

冬の早朝。冷雨が降っている。今日はランニングできない。俺が眠りの余韻を楽しもうと、布団を被り直した時だった。

がちゃ。

ジャスミンが鍵を開けて、勝手に部屋に入ってきた。

きゅんきゅん。


「なんだよ・・・」


きゅんきゅん。


「はいはい、行けばいいんだろ、行けば・・・」


欠伸を噛み殺し、寝巻の上にジャージを羽織る。ジャスミンは俺を外に連れ出したいらしかった。傘を持って外に出る。館の裏で、都がずぶ濡れになって立っていた。


「なッ、み、都!」


慌てて駆け寄る。都は完全に脱力していた。


「・・・なに、してるんだ?」

「雅さん死んじゃった」


俺は黙ってジャージを脱ぎ、都に羽織らせ、傘を持ったまま抱きしめた。冷たい。震えている。それでも、温かい館の中に連れ戻してはいけない気がした。都は誰にも悟られたくなくて、一人でこんな場所で泣いているのだから。


「私が、身代わりになんてしなければ、きっと、」

「都」

「でも、でもね、」

「都が雅の母親の面倒を見てやらなかったら、雅は産まれていたかどうかもわからなかったんだぞ。子供は父親に認知されず、実の両親には絶縁され、不倫の慰謝料を払い終わったばっかりで貯金も無い。雅の母親は、都が面倒を見てやらなかったら、子供を、雅を育てられなかった。わかるだろ?」

「そんな、そんな、」

「都は悲しくて泣く程、雅のことを大切にしていたんだろ? 雅は空腹で泣いたことも、暑さや寒さで困ったことも無い。周りと衝突していた時期はあったが、学校にもちゃんと行って、休みの日には友達と遊んでいたじゃないか。高校を卒業したら会社に勤めて、そこで好きな男もできて、結婚の話までしてたじゃないか。雅は幸せじゃなかったって思うのか?」


都は、雨でも掻き消えない程の嗚咽を漏らし始める。

ざく、ざく、ざく。

三人分の足音。首を捻ってそちらを見ると、淳蔵と美代と千代がジャスミンに連れられて傘を差していた。


「何事ですか・・・?」

「雅が死んだ」

「あっ・・・」


俺の言葉で事実を再確認させてしまった。都は俺の腕の中からするりと抜け落ちて、膝を泥だらけにしながら、両手で顔を覆って大声で泣き始める。淳蔵が傘を放り投げて都に駆け寄って抱きしめた。美代はバツが悪そうな顔をすると、淳蔵と都の上に傘を差し出した。


「美代、部屋の鍵を千代に」

「ん・・・」

「千代、美代の部屋に行って風呂を沸かしてこい」

「はい」


千代が去っていく。ジャスミンが都の身体に寄り添い、悲しみを取り除こうとしている。


「・・・ジャスミンの馬鹿」


落ち着いたのか、都が小さな声で言った。


「都、俺とお風呂に入ろう。風邪引いちゃうよ」

「・・・ごめんなさい」

「立てるか?」

「うん・・・」


淳蔵に支えられ、都は立ち上がる。俺達は館の中に入った。美代は都を支えながら階段を登っていく。残された俺達は玄関ホールに突っ立ち、顔を見合わせる。


「雅、幾つだ?」

「悪い、わからん」

「えーっとォ、二十三歳、ですね」

「十五歳の誕生日に死んで、大体七年持ったのか」

「・・・十分過ぎるくらい長生きしただろうに」

「都さんは、お優しい方ですからね。私も悲しいです」


千代がハンカチを取り出し、涙を拭う。


「ここで突っ立ってたってどうしようもねえよ。部屋に戻ろう」

「・・・だな」

「はい」


俺達は部屋に戻る。仕事を始めるまで、少し時間がある。俺は都を抱きしめた時に濡れた身体をどうすることもせず、ベッドに腰掛けて頭を抱えた。

ぷるるるるる。

プライベート用の携帯が鳴る。知らない番号。無視していると、留守番電話にメッセージが入った。


『早朝にすみません、雅さんの婚約者の中田敏明です』


中田は鼻を啜っていた。


『雅さんが、昨晩、亡くなりました。『お腹が痛い』と言うので病院に運んで、点滴で痛み止めを打ってもらいました。痛み止めが効いたのか、寝る前にコンビニのプリンを食べて、そのまま、眠るように亡くなりました。葬儀のことなど、後日連絡します。失礼します』


俺は溜息を吐いた。

朝になる。

朝食の席には都も参加していた。いつも浮かべている上品な微笑みは無い。


「今朝はごめんなさい」


皆、返答に困ったのか、黙している。


「雅さんが初めて中田さんを連れてきた時にも言ったけれど、雅さんは一条家の人間ではないからね。中田さんが雅さんを介して、いつまでもずるずると一条家に関わられても困るし、もう連絡してこないようにお願いしたの」


都は、すう、と息を吸った。


「『葬儀にも参加しないんですか』って言って怒っていたけれど、参加しない、で、いいわよね?」


俺達は『はい』と返事をする。


「勝手に決めて、ごめんなさい。じゃ、朝食をいただきましょう」


味のしない食事。都は食事を終えると、なにも言わずに食堂を出ていく。


「淳蔵」

「ん?」

「お前が慰めに行け」

「え、俺が?」

「俺は駄目だ。口下手だし雅を嫌ってる気持ちが出ちまう。美代も・・・」


美代は唇を噛み締める。


「美代、都を風呂に入れてやった時はどうだった?」

「呆然自失。お前ら、留守番電話にメッセージ入ってなかったか?」

「入ってた」

「俺も入ってた」

「私も入ってました」

「雅、死ぬ直前に都に電話をかけてたんだよ。夜中に電話したことを詫びたあと、少し雑談して、多分、そのあと、すぐ・・・」


千代が静かに泣き始める。


「淳蔵、行ってこい」


淳蔵は黙って、都の部屋に行った。


「千代、今日は仕事はいい。食事は俺が作る」

「ず、ずみまぜんっ・・・。ずみまぜん・・・」

「・・・直治、部屋行っていいか?」

「おう」


千代はハンカチで涙を拭きながら、自室に戻っていく。俺と美代は食器を洗い、二人で俺の部屋に戻った。
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