二百九十七話 暗証番号
文字数 2,255文字
桜子も限界かもしれない。
こんこん。
「どうぞ」
『失礼します』
やはり、虫の顔をしている。
「そこ座れ」
対面を指差す。
「はい」
桜子が椅子に座る。
「これ飲め。間違っても、噛むなよ。噛まずに飲み込むんだ」
赤いカプセル。言われた通りに飲み込んだ桜子は、ほんの二、三秒で、寒い夜に湯船に浸かったような顔になった。
「淳蔵様、これは・・・?」
「・・・お前には話しても大丈夫かな。桜子、他の誰にも言うなよ」
「はい」
「都の血だ」
桜子は目を見開いた。
「つらいようなら、また同じ薬をやるから心配すんな」
「あの・・・」
「ん?」
「申し訳ありません・・・」
「少し話がしたい」
「はい」
「『いつも通り』に過ごさなくちゃいけない。俺も、お前も」
「・・・はい」
「週に一度は、運転の腕が鈍らないように、山を出る。その間、お前の蜂を飛ばしてくれないか」
「はい。わかりました」
「それと、個人的な頼みだ。直治と千代になにかかわったことがあったら教えてほしい。直治は溜め込んじまう性質だし、千代は上手く隠しちまう。特に千代は、つらいとか疲れたとか、嫌だとか言わねえからな。俺の前では、の話だけど」
桜子はゆっくりと微笑んだ。
「わかりました」
「ありがとよ。話はこれだけ」
「失礼します」
「おう」
桜子は部屋を出ていった。
「・・・はあ」
肺から空気ばかり逃がしてしまう。山の生きもの達は、誰も、女王が不在であることに気付いていない。もしかしたら女王が居ることすら知らないのかもしれない。動植物は物を食み、渇きを潤し、空気と土を循環させて、眠って起きる。呆れて笑った。羨ましい。
俺は椅子から立ち上がり、部屋に鍵がかかっているのをしっかりと確認してから、クローゼットの扉を開けた。紙袋が置いてある。両手でそっと取り出して、ベッドの枕元に置いた。
中に入っているのは、都の服だ。
今朝、ジャスミンが、『白い男』が持ってきた。俺は『要らない』と言ったが、ジャスミンは勝手に部屋に上がり込んでベッドの上に紙袋を置くと、にっこり笑って部屋を出た。慌てて追いかけようとした俺が目にしたのは、尻尾を振りながら去っていく白い犬の後ろ姿だった。
紙袋から服を取り出す。
洒落た柄の、淡い水色のワンピース。
昨日、直治の部屋の窓の外から見たように、ベッドの上に広げて覆い被さる。このワンピースは確か、一点物だったはず。一体幾らするんだろう。都の身体の輪郭が、俺の身体の下にある。ふわ、と香る。喉が勝手に鳴った。
まずい。
警鐘が聞こえる。脳みその皺に不潔な泡が染み渡るような感覚。性を伴わない興奮。汗が滲んでいるのがわかる。ワンピースの袖を手の平で掬い、頬にあてる。恐ろしい。服だけでこんなに魅力的だなんて。
都は旅立つ前、一条家の人間に、それぞれ一日ずつ、時間を与えてくれた。邪魔をすることはジャスミンですら許されなかった。都はいつも通りの穏やかで上品な笑みを浮かべて、俺の隣に座り、俺の目を真っ直ぐに見つめて話をしてくれた。
「0831」
俺が繰り返す。
「そう。0831。そこにある金庫の番号」
都は、棚の上にまるで飾るように置いてある金庫を指差す。昔、あれはオルゴール時計だと言っていた。『壊れて音は鳴らないけれど、細工が凝っていて好きなの』とも。
「八時三十一分、ね。いつもは十二時二十五分にしてあるから、針をちゃんと戻すのよ」
金庫の中にあるのは、都の血を特殊な製法で封じ込めたカプセル。製造方法は都しか知らない。
「・・・なんで、俺だけに?」
「美代は考え過ぎて暴走しちゃうし、直治は爆発したら手が付けられないから」
「消去法ってことかな」
「いじけてるの?」
「まあね」
「フフッ、わかってるくせに。淳蔵は冷静で、責任感が人一倍強い。大胆な判断もできるし、咄嗟の時に頭も回る。貴方以外に任せられないわよ」
「・・・それ、やめろよ」
都は首を傾げる。
「余所行きの面すんな」
そして少しだけ驚いたような顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「触れたい」
「いいよ」
キスをして、押し倒し、胸を揉む。
「なに食ったらこんなにデカくなんだか」
「好きで大きいんじゃないよ・・・」
「俺はもっと大きくてもいいけど」
「馬鹿じゃないの? 男ってなんでもかんでも大きさに拘って・・・」
「違いない」
ブラウスのボタンを外す。
「『大きい』って言われてもあんま嬉しくないよな。こっちはそれで苦労してるんだっつの。それに、妬んでくるヤツも多いし。生まれ持ったモンだからどうしようもないっつうのに・・・」
下着を無理やりずらすと、大きな胸が揺れる。
「俺は好きな人から言われると嬉しくなるけどな。都もそうだろ?」
「・・・独活の大木」
「ハハ、胸で挟んでよ」
「もう・・・」
俺がソファーに座り直すと、都は悔しそうに俺を睨み付けながらも、俺の男根を胸で挟んだ。
「淳蔵、金庫の暗証番号、忘れないように『お呪い』をかけてあげるよ」
「ん・・・、なに?」
「0831、私の誕生日だよ」
「な・・・」
「ね? 忘れないでしょ? 秘密だからね」
都がにやりと笑う。可哀想な女。なんの因果で誕生日に戦地に旅立つんだか。俺は都の乳首を抓み上げた。
「ああぁっ! な、なにするのっ!」
「ムカつく顔してたからお仕置き」
「あとで覚えてろよ・・・」
「ハハッ、意識無くなるまで虐めてよ・・・」
そしてそのまま、目覚めたくない。
俺の部屋にはオルゴール時計がある。
クスリを手に入れるために人の道を踏み外した俺が、薬の節制を考えて寂しさに耐えているだなんて、酷い皮肉だ。早く帰ってきてほしい。俺が責任の重さに潰れてしまう前に。
こんこん。
「どうぞ」
『失礼します』
やはり、虫の顔をしている。
「そこ座れ」
対面を指差す。
「はい」
桜子が椅子に座る。
「これ飲め。間違っても、噛むなよ。噛まずに飲み込むんだ」
赤いカプセル。言われた通りに飲み込んだ桜子は、ほんの二、三秒で、寒い夜に湯船に浸かったような顔になった。
「淳蔵様、これは・・・?」
「・・・お前には話しても大丈夫かな。桜子、他の誰にも言うなよ」
「はい」
「都の血だ」
桜子は目を見開いた。
「つらいようなら、また同じ薬をやるから心配すんな」
「あの・・・」
「ん?」
「申し訳ありません・・・」
「少し話がしたい」
「はい」
「『いつも通り』に過ごさなくちゃいけない。俺も、お前も」
「・・・はい」
「週に一度は、運転の腕が鈍らないように、山を出る。その間、お前の蜂を飛ばしてくれないか」
「はい。わかりました」
「それと、個人的な頼みだ。直治と千代になにかかわったことがあったら教えてほしい。直治は溜め込んじまう性質だし、千代は上手く隠しちまう。特に千代は、つらいとか疲れたとか、嫌だとか言わねえからな。俺の前では、の話だけど」
桜子はゆっくりと微笑んだ。
「わかりました」
「ありがとよ。話はこれだけ」
「失礼します」
「おう」
桜子は部屋を出ていった。
「・・・はあ」
肺から空気ばかり逃がしてしまう。山の生きもの達は、誰も、女王が不在であることに気付いていない。もしかしたら女王が居ることすら知らないのかもしれない。動植物は物を食み、渇きを潤し、空気と土を循環させて、眠って起きる。呆れて笑った。羨ましい。
俺は椅子から立ち上がり、部屋に鍵がかかっているのをしっかりと確認してから、クローゼットの扉を開けた。紙袋が置いてある。両手でそっと取り出して、ベッドの枕元に置いた。
中に入っているのは、都の服だ。
今朝、ジャスミンが、『白い男』が持ってきた。俺は『要らない』と言ったが、ジャスミンは勝手に部屋に上がり込んでベッドの上に紙袋を置くと、にっこり笑って部屋を出た。慌てて追いかけようとした俺が目にしたのは、尻尾を振りながら去っていく白い犬の後ろ姿だった。
紙袋から服を取り出す。
洒落た柄の、淡い水色のワンピース。
昨日、直治の部屋の窓の外から見たように、ベッドの上に広げて覆い被さる。このワンピースは確か、一点物だったはず。一体幾らするんだろう。都の身体の輪郭が、俺の身体の下にある。ふわ、と香る。喉が勝手に鳴った。
まずい。
警鐘が聞こえる。脳みその皺に不潔な泡が染み渡るような感覚。性を伴わない興奮。汗が滲んでいるのがわかる。ワンピースの袖を手の平で掬い、頬にあてる。恐ろしい。服だけでこんなに魅力的だなんて。
都は旅立つ前、一条家の人間に、それぞれ一日ずつ、時間を与えてくれた。邪魔をすることはジャスミンですら許されなかった。都はいつも通りの穏やかで上品な笑みを浮かべて、俺の隣に座り、俺の目を真っ直ぐに見つめて話をしてくれた。
「0831」
俺が繰り返す。
「そう。0831。そこにある金庫の番号」
都は、棚の上にまるで飾るように置いてある金庫を指差す。昔、あれはオルゴール時計だと言っていた。『壊れて音は鳴らないけれど、細工が凝っていて好きなの』とも。
「八時三十一分、ね。いつもは十二時二十五分にしてあるから、針をちゃんと戻すのよ」
金庫の中にあるのは、都の血を特殊な製法で封じ込めたカプセル。製造方法は都しか知らない。
「・・・なんで、俺だけに?」
「美代は考え過ぎて暴走しちゃうし、直治は爆発したら手が付けられないから」
「消去法ってことかな」
「いじけてるの?」
「まあね」
「フフッ、わかってるくせに。淳蔵は冷静で、責任感が人一倍強い。大胆な判断もできるし、咄嗟の時に頭も回る。貴方以外に任せられないわよ」
「・・・それ、やめろよ」
都は首を傾げる。
「余所行きの面すんな」
そして少しだけ驚いたような顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「触れたい」
「いいよ」
キスをして、押し倒し、胸を揉む。
「なに食ったらこんなにデカくなんだか」
「好きで大きいんじゃないよ・・・」
「俺はもっと大きくてもいいけど」
「馬鹿じゃないの? 男ってなんでもかんでも大きさに拘って・・・」
「違いない」
ブラウスのボタンを外す。
「『大きい』って言われてもあんま嬉しくないよな。こっちはそれで苦労してるんだっつの。それに、妬んでくるヤツも多いし。生まれ持ったモンだからどうしようもないっつうのに・・・」
下着を無理やりずらすと、大きな胸が揺れる。
「俺は好きな人から言われると嬉しくなるけどな。都もそうだろ?」
「・・・独活の大木」
「ハハ、胸で挟んでよ」
「もう・・・」
俺がソファーに座り直すと、都は悔しそうに俺を睨み付けながらも、俺の男根を胸で挟んだ。
「淳蔵、金庫の暗証番号、忘れないように『お呪い』をかけてあげるよ」
「ん・・・、なに?」
「0831、私の誕生日だよ」
「な・・・」
「ね? 忘れないでしょ? 秘密だからね」
都がにやりと笑う。可哀想な女。なんの因果で誕生日に戦地に旅立つんだか。俺は都の乳首を抓み上げた。
「ああぁっ! な、なにするのっ!」
「ムカつく顔してたからお仕置き」
「あとで覚えてろよ・・・」
「ハハッ、意識無くなるまで虐めてよ・・・」
そしてそのまま、目覚めたくない。
俺の部屋にはオルゴール時計がある。
クスリを手に入れるために人の道を踏み外した俺が、薬の節制を考えて寂しさに耐えているだなんて、酷い皮肉だ。早く帰ってきてほしい。俺が責任の重さに潰れてしまう前に。