三百五十三話 キャット

文字数 2,526文字

こんこん。


「どうぞ」

『失礼しまァす!』


千代が事務室に入ってきた。


「どうしたの?」

「第一回、チキチキ! 美代様にお茶をお持ちするのはこの私よ! おビンタ勝負! ポロリはないですニャ」

「えー? 殴り合ってるの?」

「口を先に出したのは幸恵さん、手を先に出したのはかんなさんですぅ」

「俺に仲裁しろって?」

「いえ、面白いので見学するかと思いましてェ。ちゅーちゅーさん運びましょうかァ?」

「あははっ、悪いヤツめ」


千代はチェシャ猫のように笑った。俺は鼠を一匹出して千代に渡し、エプロンと服の間に入れてもらう。全貌は見えないがこっそりとなら覗けそうだ。


「桜子さァん」

「千代さん、まだチキチキしていますよ」

「ここ」

「あら・・・」


千代が俺を指差した。桜子はすぐに意図に気付いたようだ。三人で廊下からキッチンを覗き込む。


「やめろッ!! やめろやァッ!!」

「先に手を出してきたのは貴方でしょッ!! そんなにぶくぶく太ってるからやり返されてもなんにもできないのよッ!! 殴られたくないなら殴るなッ!!」


幸恵がかんなを殴打していた。かんなは腕を盾のようにして身を庇いながらなんとか幸恵を振り払おうとしている。その隙を突いて、ばちんっ、とかんなの頬を幸恵が叩いた。それでやめるつもりはないらしく、再びかんなに暴力を振るおうと揉み合っている。


「かんなさん、弱過ぎますね・・・」

「弱い犬程よく吠えますニャ」


桜子と千代が冷静に分析する。


『直治に喧嘩は止めるなって指示されているんだったね』

「はい」

「そうですニャ」


やがてかんなは、身を丸めて縮こませながら泣き出した。


「やめろよおおおッ!! やめてよおおおッ!!」

「なんなの、貴方。せめて身なりを綺麗に整えたらどうなの? 眉毛を整えて髭を剃るくらいしなさいよ、ブス。歯も磨いてね。口臭が酷いから。清潔感の無い人間が食品に触れないで。貴方はトイレ掃除でもしていればいいのよ」

「どうしてそんな酷いことを言うのぉ!?」

「お茶を淹れる前に手を洗った? くしゃみや咳をそのまましてない? 食品に障っている最中に肌や髪を触ってない? 貴方は『ちゃんと綺麗にしてます』って言える説得力が無いの。清潔感が無いから。だから美代様のお茶は、二度と淹れないで。そもそも貴方、食事当番から外されていますよね? その時点でわからないの? この家に居るみーんなが、貴方の作った食事を口に入れたくないってことが、わからないかしら?」

「ううう・・・」

「ブスでも清潔感のある人は居るわよ? 貴方は違う。ブスで清潔感が無い。貴方の言葉を使って言うならキモいわ。髪の毛もベタベタできッたならしいたらありゃしない。あとその意味不明な設定、やめなさいね。統合失調症だの二重人格だの。小学生でも許されないわよそんな虚言。いえ虚言とも言えないわね。嘘ね、嘘。周りの大人の気を引きたいから仮病を使う子供みたい。貴方の汚い言葉で言うならクソガキね。さ、キッチンから出ていってください。クソガキキモブスかんなさーん」


かんなは獣のような声を上げながら低い姿勢で幸恵に突撃した。が、偶然か狙ってできたのかはわからないが、かんなの顔には綺麗な蹴りが入り、かんなはその場で蹲って、小さな呻き声を上げながら震え始めた。幸恵は上機嫌に手を洗って、ハーブティーを淹れ始める。


『退散しよう。桜子君も事務室に』


俺の言葉に千代と桜子が頷き、事務室に戻ってきた。


「面白かったですねェ」

「なかなか楽しめました」

「キャットファイトはショーとして観るものだけど、今のは『醜い争い』そのものだったねえ」

「ショー、ですかァ・・・」


千代がなにやら考えている。


「ンフ、良いこと思い付きましたので、都さんに提案してきますぅ! 失礼しまァす!」


と言って、事務室を出ていった。


「千代さん、悪巧みをしている時の顔をしていましたね」

「チェシャ猫のように笑う時は、そうだね。碌なことじゃないかも」


そういえば。


「ねえ、桜子君。突っ込んだこと聞いていいかな?」

「はい。なんなりと」

「千代君とどういう関係なの?」


桜子は唇に指を添えて少し俯き、考える。


「千代さんは掴み所のない人ですし、掴ませないようにしているようですから、あまり深くは関わらないようにしているのですが・・・。わたくしは千代さんを尊敬しています」


顔を上げる。


「メイドとして、一人の人間として、同じ女性として、そして、都様に存在を認められ、寵愛を受ける生きものとして。わたくしの相談や愚痴を聞いてくださいますし、お互いの部屋で夜遅くまでお喋りすることもあります。千代さんも、あまり弱音は吐きませんが、色々とお話してくださいます。明確に、これ、という関係の名前は、わたくしの語彙では思い浮かびません。そういう関係です」


聞いてよかったと思った。


「ありがとう、桜子君。実はね、千代は長い間、同性は都しか居ない状態だし、恋人も作ってない様子だったから、色々と思うところがあってね」

「フフ、美代様、心配ないかと・・・」

「おやおや?」

「お肉さんの観察が一番の趣味だそうですよ。解体が二番、旅行が三番だそうです」

「おやまあ・・・」

「千代さんにとって都様は至上の存在。都様の笑顔が、たとえそれが意地の悪い笑顔でも、笑っていただくことが、性にも勝る悦びなのだとか」


今のは初耳だ。


「そんなに都のこと好きなんだ」

「はい。『別に隠しているわけじゃないのに、何故か遠慮して誰も色恋の話をしないんですよねェ。男ってわかりませんニャ』と仰っていました」


桜子が千代の声色と口調をちょっと真似て言った。


「成程。本人が『隠してない』と言っていたから俺にも喋ったと」

「そうです」

「良い子だね」


桜子はにっこりと笑った。

こんこん。


「どうぞ」

『失礼します』


幸恵がハーブティーを持ってきた。


「やあ、幸恵君。今日もありがとうね」

「いえいえ」

「今ね、桜子君と『犬派か猫派か』って話をしていたんだよ。君はどっち?」

「あー、うーん、どちらかというと犬派です。私、動物はあんまり・・・」

「おや? 嫌いなのかい?」

「お二人共、都様には言わないでくださいよ? 私、実は動物が苦手なんです。猫なんて嫌いの部類に入っちゃうかも」


桜子がくすりと笑った。
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