第638話 メルシーおばさん、会津武家屋敷に行く

文字数 2,876文字

会津武家屋敷は、会津若松市にある、会津藩の家老であった西郷頼母( さいごう たのも、男性、1830年 - 1903年)の邸宅(山本勝巳氏が再建)を中心に、復元または移築された歴史的建造物が建ち並ぶ歴史をテーマとする1975年に開館した野外博物館(敷地面積2.3ha)です。

開館25周年記念として、2000年5月に、西郷頼母の養子で、大技・山嵐を生み出した柔道家・西郷四郎の像が建てられました。

西郷四郎さんは、有名な柔道家で、「第1話 はじめてのご挨拶」でもふれた夏目漱石さんの小説「三四郎」のモデルになった人です。

会津武家屋敷には、犬が入れます。嬉しいことに、抱っこ出来れば、建物の中も見学できます。

テーマ別に写真を整理したので、西郷頼母の邸宅の写真と片長屋(第2資料館)の写真が一部で混在しています。

会津武家屋敷には、「第607話 メルシーおばさん、鶴ヶ城城址公園に行く」で紹介した茶室「麟閣」のコピーもあります。

家老の西郷頼母と藩主の松平容保(まつだいら かたもり、1836年-1893年)が、会津武家屋敷の主な登場人物です。

松平容保は1852年に、第9代藩主を継ぎます。

西郷頼母は、1862年に、33歳で家老に任じられます。西郷頼母は非戦派です。

1862年、松平容保は、幕府から京都守護職就任を要請されます。西郷頼母は、辞退を進言して、松平容保の怒りをかって、家老を解任され、蟄居させられています。

京都守護職になった松平容保は、部下に新選組をかかえ、幕末の政変に巻き込まれると同時に、会津藩の財政に負担をかけます。

1868年、戊辰戦争が勃発して、西郷頼母は松平容保から家老職復帰を命じられます。西郷頼母は白河口総督として奮戦しますが、敗れて、7月2日に、鶴ヶ城に帰参します。西郷頼母は、藩主・松平容保の切腹による会津藩の降伏を迫ったため、藩主・松平容保と会津藩士が激怒します。身の危険を感じた頼母は、伝令を口実として城から逃げ出します。西郷頼母は、仙台に向かい、そこで榎本武揚、土方歳三らと合流して、1869年に、北海道に建国された、5か月の短命の分離主義国家の蝦夷共和國(日本最初の民主主義国家)の設立にかかわります。

観光案内には次のように、書かれています。

8月22日、松平容保、滝沢本陣にて宿陣し、白虎隊もここより出陣します。8月23日、戸ノ口原の戦いにて東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入、城下の戦いと籠城が始まります。8月23日に西郷頼母の母、妹2人、妻、5人の娘は親戚12人と共に自邸で自害しました。


参考:

戦後に会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八(とみはち)氏は、1931年に、会津史談会をつくります。宮崎十三八氏は、「観光史学」を提唱して、観光資源として動員することを目的に歴史を創作することを主張しています。宮崎十三八氏は、担当した観光都市化政策のなかで、会津地方の歴史、とりわけ戊辰戦争史を観光資源化(創作)しています。

会津武家屋敷は、次のように説明されています。

西郷頼母の邸宅は戊辰戦争で焼失した西郷邸の鳥瞰図(俯瞰図)が発見されたのを契機として、綿密な時代考証と設計を基に、1975年に類を見ない復元 家老屋敷として建立されています。

出典は、鳥瞰図であり、部屋割図ではありません。西郷頼母の家族が自害したと伝えられる部屋には、自刃の間(仏壇と次の間)という案内板がついています。しかし、日常生活している時点で、自刃の間という名前の部屋はありえません。鳥瞰図には、仏壇はないので、仏壇の間は後世の創作です。部屋割の多くも創作のはずです。西郷頼母の邸宅は、「観光史学」を具現化しています。

西郷頼母の家族の自害の出典は、西郷頼母が、「栖雲記・一雨の名残り」(1896)に書いた薩摩藩の中島信行(初代衆議院議長)が、後に会津藩の中林包明に述べた話です。会津武家屋敷にも、中島信行の人形が展示されていますが、戊辰戦争の時期には、中島信行は、会津にはいませんでした。つまり、「栖雲記・一雨の名残り」の記述は間違いです。西郷頼母の家族が、戊辰戦争で亡くなって、連絡がつかなくなったことは確かですが、最後を見届けた人はいません。

1890年飯盛山の中腹に、白虎隊19士のお墓が建てられました。1896年は、その直後でしたので、西郷頼母が、家族の自害の話を創作した可能性があります。1899年に新渡戸稲造は、英語版の「武士道(Bushido: The Soul of Japan)」を出版しました。1900年には、2世紀の間、ほとんど忘れ去られていた「葉隠」の現代語訳が出版されています。時代背景を考えれば、創作は不自然ではありません。

老中の西郷頼母は、藩主の松平容保に、切腹による会津藩の降伏を迫っています。

これは、現在の日本であれば、官房長官が、首相に、「お辞めになった方がよいです」というような関係です。

あるいは、アメリカであれば、副大統領が、大統領に、「お辞めになった方がよいです」というような関係です。

そのような人物の家族が、自害(ハラキリ)をするとは思えません。





写真1 会津武家屋敷に着きました。



写真2 西郷四郎さんの銅像です。


写真3 西郷頼母の邸宅の表門が見えてきました。


写真4 西郷頼母の邸宅の玄関で、出迎えている人がいます。


写真5 西郷頼母の邸宅の玄関の前のメルシーおばさん。この玄関ではなく、観光客用の入口に回ります。



写真6 片長屋(第2資料館)では、西郷頼母の銅像が出迎えてくれました。


写真7 片長屋(第2資料館)の会津家老の娘の山川捨松さんです。津田梅子さんと共に、日本初の女子留学生5人の1人でした。


写真8 西郷頼母の邸宅の観光客用の入口が見えてきました。


写真9 西郷頼母の邸宅の茶の間(食堂)です。


写真10 茶の間の達磨の前のメルシーおばさん。


写真11 次の間と書院壱の間で構成されるお成りの間です。


写真12 お成りの間のメルシーおばさん。


写真13 次の間の家老の西郷頼母さんです。


写真14 書院壱の間の中央の男性が、藩主の松平容保さんです。


写真15 茶室です。


写真16 片長屋(第2資料館)の自害する西郷頼母の家族の人形です。右の男性は、中島信行さんです。


写真17 自害したと伝えられる自刃の間(仏壇と次の間)です。


写真18 家老の寝室として使用されていた奥一の間です。


写真19 これも奥一の間です。


写真20 お風呂が見えます。西郷頼母の邸宅をでます。


写真21 片長屋(第2資料館)には、駕籠部屋がありました。駕籠には、身分の高い人だけが乘れました。


写真22 1837年に建てられた旧中畑陣屋(東北に残った最後の代官所)です。


写真23 旧中畑陣屋の前のメルシーおばさん。


写真24 茶室「麟閣」のコピーです。


写真25 やさしそうな布袋さまがいました。


写真26 江戸時代の婦人の礼服の打掛です。


写真27 打掛の前のメルシーおばさん。


写真28 出口はすぐそこです。


写真29 出口に向かうメルシーおばさん。

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