第530話 メルシーおばさん、笠間の時鐘楼を見る

文字数 1,315文字

笠間の白鳥湖に、白鳥さんがいなかったので、佐白山麓公園(山麓公園)に行って、時鐘楼(じしょうろう)を見てきました。

1643年に、笠間藩主浅野長直(あさのながなお)は、佐白山麓公園周辺に下屋敷を建設しました。

1645年に、浅野長直は、赤穂藩に移りました。浅野長直の孫は、忠臣蔵では、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)として知られている浅野長矩(あさのながのり)です。

笠間藩家老の大石良欽(よしたか)も藩主と共に、赤穂藩に移ります。大石良欽の孫が、赤穂浪士四十七士の指導者として知られる大石内蔵助(おおいしくらのすけ、大石良雄、おおいしよしお)です。

日本では、奈良時代に建設が始まった鐘楼はお寺にある鐘(梵鐘、ぼんしょう)つき堂でした。

江戸時代に入って、宗教施設ではなく、時の鐘楼、または、時鐘楼と呼ばれる暮らしに欠かせない「時」を告げる鐘楼が建設されます。

有名な川越・時の鐘は、1627年に豪壮な蔵造りの商家街に創建され、川越大火の翌年の1894年に再建されたものです。

川越に、35年遅れで、1662年に、笠間藩が、正福寺の梵鐘を借り受け、大町の極楽寺(現八坂神社)に滝野一永(たきのかずなが)という町人が建てた時鐘楼で、時の鐘を撞き始めました。現在の鐘は3代目です。

明治になり、時鐘楼は、一時中断していましたが、1889年から再開し、1964年まで、4代の撞き手が担当しました。4代目の撞き手の三村豊美(みむらとよみ)さんは、82歳で亡くなるまで、43年に亘り、朝5時から夜7時まで、町の人々に時を告げてました。戦前、時鐘楼からは笠間の街がよく見渡せたというので、現在の時鐘楼の近くに、古い時鐘楼があったと思われます。

その後、鐘は1970年に佐白観音(現正福寺)境内に移り、朝の鐘と除夜の鐘として、住職とその家族によって撞かれていました。

笠間市は、市内にある樹(たちき)・中村昌平建築事務所に、現代版鐘つき堂の設計・建築を依頼します。

建築事務所は、川越・時の鐘を参考に、地上4層、高さ12.84mの現在の時鐘楼を建築し、2001年3月22日に竣工しています。正福寺にあった鐘も移設されています。

佐白山麓公園の時鐘楼は、見た目は古いですが、実際には、新しい建築です。

現在では、時鐘楼の鐘は、機械が撞いています。


写真1 駐車場の隣には、笠間日動美術館が見えます。美術館の隣の坂道を登ります。


写真2 坂道を登ったところは、佐白山麓公園です。時鐘楼が見えます。写真の右の木の影に、大石内蔵助の像があったようですが、今回は見落としてしまいました。


写真3 時鐘楼の前のメルシーおばさん。


写真4 4階建ての時鐘楼です。


写真5 公園をお散歩しているメルシーおばさん。


写真6 公園をお散歩しているメルシーおばさん。


写真7 坂を更に登ると旧笠間町立美術館がありました。


写真8 クローズアップ写真です。


写真9 遊具広場のあおむしに乗っているメルシーおばさん。


写真10 遊具広場の赤いあおむし(?)に乗っているメルシーおばさん。


写真11 遊具広場からみる笠間日動美術館は、お城のように見えます。


写真12 元気に坂道を下って、駐車場に向かうメルシーおばさん。
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