第395話 メルシーおばさん、五角堂を訪ねる
文字数 2,098文字
「第391話 メルシーおばさん、布施弁天に行く」で、布施弁天にある鐘楼の設計者は、つくば市谷田部の名主の飯塚伊賀七であると紹介しました。
江戸時代には、「谷田部にすぎたるもの3つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれていました。
谷田部とは、谷田部藩のことです。つくば市内で、江戸時代末期まで存続した藩は、谷田部藩だけですが、とても小さな藩です。
2023年3月15日から5月20日まで、10週間の期間限定で、京都に、世界一予約が取れないと言われているコペンハーゲンの名レストラン「ノーマ」が、出店していました。この臨時レストランのために、100人のスタッフがデンマークから日本に来たそうです。
谷田部藩の規模は、約50人と言われていますので、レストラン「ノーマ」の半分しかありません。
なので、「谷田部にすぎたる」という表現には実感がこもっています。
1)不動並木
谷田部には、不動町にある大渡山不動尊の前から南へ向かう道(現在の茨城県立つくば工科高等学校の脇)に沿って200mにわたり約200本の松並木(不動並木)がありました。説明板には「約300年前、谷田部藩主細川興昌が、茂木(栃木県)より居所を移したときに、参勤交代のために江戸よりのこの場所に松を植樹した」と書かれていました。1957年には、茨城県指定天然記念物となりました。
2003年11月に、不動並木を訪れた人が、「今は最後の1本が残るのみ」と書いていましたが、現在では、松並木は全て枯れてしまっています。
谷田部には、もうひとつ有名な松がありました。
1875年に谷田部小学校が、谷田部陣屋後に建てられます。陣屋の大松(千歳松)は、学校のシンボルツリーになっていました。1985年には、小学校の脇の通りを改装した時には、通りを千歳通りと命名しています。この松も、1993年には枯れてしまいました。
2)広瀬周度
谷田部藩医の周伯の嫡子として1782年に生まれた広瀬周度は、藩医を務める一方、杉田玄白一門に学んだ父について蘭学を研究し、書画にも通じていました。羽成(はなれ)観音堂に、16歳の時の天井画が残っています。
3)飯塚伊賀七
飯塚伊賀七(1762年4月23日ー 1836年12月24日)は、名主で発明家でした。
伊賀七の作品は、五角堂と布施弁天鐘楼、和時計、分間谷田部絵図(1788年)が残っています。分間谷田部絵図は、伊能忠孝が最初の地図をつくる1800年より前になります。
現在は、残っていませんが、伊賀七は、大型のそろばん、酒買い人形、茶くみ人形、人力飛行機も発明したと伝えられています。
飯塚伊賀七は、「からくり伊賀七」と呼ばれますが、最近では「つくばのダ・ヴィンチ」と呼ぶ人もいます。
2009年に「ロボットの街つくば」が提唱されたとき、伊賀七は、つくばの「ロボット(からくり)」の開発者のルーツとして紹介されています。
「ロボットの街つくば」は、「第305話 メルシーおばさん、つくばチャレンジ2022に行く」で紹介しています。
2018年には、伊賀七の物語を演ずる伊賀七座という劇団が設立され、2023年3月までに、7公演を達成しています。
メルシーおばさんも、不思議な形の五角堂に行ってみました。五角堂の中には、和時計がありましたが、現在は、郷土資料館に移設されています。なお、五角堂は、飯塚家の宅地内にあるため中には入れません。
ところで、1985年の3月から9月まで、つくばでは科学万博が開かれました。博覧会の広場には、木津一夫さんが製作したモニュメントが展示されていました。千歳通りは、1985年10月に完成していて、中心となるモニュメントも、木津一夫さんが製作しています。博覧会会場と千歳通りは4kmしか離れていません。名探偵メルシーおばさんの推理はこうです。「科博万博の終了に伴って、撤去されたモニュメントの移転先として、千歳通りが整備された。つまり、2つのモニュメントは、同一のものであった」
写真1 谷田部藩の唯一の遺構の谷田部藩陣屋玄関前のメルシーおばさん。建物は公民館になっています。
写真2 五角堂の近くに着いたメルシーおばさん。
写真3 五角堂のある飯塚家の正門です。
写真4 門の隣には、五角堂の説明があります。
写真5 五角堂の前のメルシーおばさん。
写真6 五角堂からすこし離れました。これで、全体が見えますね。
写真7 千歳通りです。歩道のように見えますが、中央は、2車線の自動車道路になっています。
写真8 千歳通りの端には、黄色の点滅信号機がありました。この信号機は、横断歩道の信号が青のときには、赤くなります。しかし、青にはなりません。
写真9 マツバボタンが綺麗でした。
写真10 1985年設置の時計が壊れたので、2017年につくばアウルライオンズクラブが寄贈した新しい 時計台です。時計の文字盤は写真の上方にあり、写っていません。フクロウが可愛いです。
写真11 モニュメントと藤棚があります。ここが、千歳通りの中心と思われます。それにしても、暑い日でした。
写真12 木津一夫さんのモニュメントのクローズアップです。
江戸時代には、「谷田部にすぎたるもの3つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれていました。
谷田部とは、谷田部藩のことです。つくば市内で、江戸時代末期まで存続した藩は、谷田部藩だけですが、とても小さな藩です。
2023年3月15日から5月20日まで、10週間の期間限定で、京都に、世界一予約が取れないと言われているコペンハーゲンの名レストラン「ノーマ」が、出店していました。この臨時レストランのために、100人のスタッフがデンマークから日本に来たそうです。
谷田部藩の規模は、約50人と言われていますので、レストラン「ノーマ」の半分しかありません。
なので、「谷田部にすぎたる」という表現には実感がこもっています。
1)不動並木
谷田部には、不動町にある大渡山不動尊の前から南へ向かう道(現在の茨城県立つくば工科高等学校の脇)に沿って200mにわたり約200本の松並木(不動並木)がありました。説明板には「約300年前、谷田部藩主細川興昌が、茂木(栃木県)より居所を移したときに、参勤交代のために江戸よりのこの場所に松を植樹した」と書かれていました。1957年には、茨城県指定天然記念物となりました。
2003年11月に、不動並木を訪れた人が、「今は最後の1本が残るのみ」と書いていましたが、現在では、松並木は全て枯れてしまっています。
谷田部には、もうひとつ有名な松がありました。
1875年に谷田部小学校が、谷田部陣屋後に建てられます。陣屋の大松(千歳松)は、学校のシンボルツリーになっていました。1985年には、小学校の脇の通りを改装した時には、通りを千歳通りと命名しています。この松も、1993年には枯れてしまいました。
2)広瀬周度
谷田部藩医の周伯の嫡子として1782年に生まれた広瀬周度は、藩医を務める一方、杉田玄白一門に学んだ父について蘭学を研究し、書画にも通じていました。羽成(はなれ)観音堂に、16歳の時の天井画が残っています。
3)飯塚伊賀七
飯塚伊賀七(1762年4月23日ー 1836年12月24日)は、名主で発明家でした。
伊賀七の作品は、五角堂と布施弁天鐘楼、和時計、分間谷田部絵図(1788年)が残っています。分間谷田部絵図は、伊能忠孝が最初の地図をつくる1800年より前になります。
現在は、残っていませんが、伊賀七は、大型のそろばん、酒買い人形、茶くみ人形、人力飛行機も発明したと伝えられています。
飯塚伊賀七は、「からくり伊賀七」と呼ばれますが、最近では「つくばのダ・ヴィンチ」と呼ぶ人もいます。
2009年に「ロボットの街つくば」が提唱されたとき、伊賀七は、つくばの「ロボット(からくり)」の開発者のルーツとして紹介されています。
「ロボットの街つくば」は、「第305話 メルシーおばさん、つくばチャレンジ2022に行く」で紹介しています。
2018年には、伊賀七の物語を演ずる伊賀七座という劇団が設立され、2023年3月までに、7公演を達成しています。
メルシーおばさんも、不思議な形の五角堂に行ってみました。五角堂の中には、和時計がありましたが、現在は、郷土資料館に移設されています。なお、五角堂は、飯塚家の宅地内にあるため中には入れません。
ところで、1985年の3月から9月まで、つくばでは科学万博が開かれました。博覧会の広場には、木津一夫さんが製作したモニュメントが展示されていました。千歳通りは、1985年10月に完成していて、中心となるモニュメントも、木津一夫さんが製作しています。博覧会会場と千歳通りは4kmしか離れていません。名探偵メルシーおばさんの推理はこうです。「科博万博の終了に伴って、撤去されたモニュメントの移転先として、千歳通りが整備された。つまり、2つのモニュメントは、同一のものであった」
写真1 谷田部藩の唯一の遺構の谷田部藩陣屋玄関前のメルシーおばさん。建物は公民館になっています。
写真2 五角堂の近くに着いたメルシーおばさん。
写真3 五角堂のある飯塚家の正門です。
写真4 門の隣には、五角堂の説明があります。
写真5 五角堂の前のメルシーおばさん。
写真6 五角堂からすこし離れました。これで、全体が見えますね。
写真7 千歳通りです。歩道のように見えますが、中央は、2車線の自動車道路になっています。
写真8 千歳通りの端には、黄色の点滅信号機がありました。この信号機は、横断歩道の信号が青のときには、赤くなります。しかし、青にはなりません。
写真9 マツバボタンが綺麗でした。
写真10 1985年設置の時計が壊れたので、2017年につくばアウルライオンズクラブが寄贈した新しい 時計台です。時計の文字盤は写真の上方にあり、写っていません。フクロウが可愛いです。
写真11 モニュメントと藤棚があります。ここが、千歳通りの中心と思われます。それにしても、暑い日でした。
写真12 木津一夫さんのモニュメントのクローズアップです。