第570話 メルシーおばさん、昭和の小学校に行く

文字数 1,454文字

道の駅もてぎのある茂木町で、犬も泊まれる宿泊施設を検索したところ、昭和ふるさと村の1室だけが、対応していることがわかりました。

そこで、昭和ふるさと村は、どんな所か、見にいってみました。

昭和ふるさと村は、廃校になった旧木幡(きばた)小学校校舎を活用したグランピング施設です。

茂木町では、1872年の学制公布を受けて、1873年に、木幡村慈眼寺に聚分舎(しゅうぶんしゃ)という名前の小学校が開校します。1895年に小学校は、慈眼寺から昭和ふるさと村に移転し、名称も変わります。1934年に、児童増加に伴い、逆川村有林の杉と松を使って、木幡小学校校舎が建てられます。2006年に、児童減少に伴う統合で、木幡小学校校舎は、廃校になりました。木幡小学校は、132年間に3,625名の卒業生を輩出しました。

2008年に旧木幡小学校校舎は、「昭和ふるさと村」という名称の昭和の時代が体験できる宿泊・研修施設(グランピング施設)になりました。

旧木幡小学校校舎は、木造平屋建て桟瓦葺切妻屋根の木造軸組み構造で、床面積は、75.5m×10mあります。校舎中央の正面玄関には「腰折り屋根」の洋風建築が採用されています。北に75mの廊下があり、廊下の南に1年から6年の教室(6室)と職員室があります。天井の高さは3.636mあります。

旧木幡小学校校舎は、2021年に、登録有形文化財(建造物)に指定されています。

旧木幡小学校校舎は、犬も抱っこすれば見学ができるので、メルシーおばさんは見学してきました。

茂木藩について:

「第395話 メルシーおばさん、五角堂を訪ねる」では、 不動松を「約300年前、谷田部藩主細川興昌が、茂木(栃木県)より居所を谷田部に移したときに、参勤交代のためにこの場所に松を植樹した」と説明しました。

細川興昌は、谷田部藩に移住するまで、茂木藩の藩主でした。谷田部藩に移住したあとでも細川興昌は、領地を茂木藩と谷田部藩の双方に持っていました。

細川興昌が、谷田部に移住したあと、茂木藩は、谷田部藩と呼ばれるようになります。簡単に言えば、谷田部藩は、谷田部藩(江戸屋敷)、谷田部藩(茂木藩領)、谷田部藩(谷田部藩領)の3か所にありました。1840年の資料では、藩士は、江戸屋敷58名、茂木陣屋47名、谷田部陣屋43名の計148名でした。

1871年の廃藩置県で、谷田部藩(茂木藩領)は栃木県に、谷田部藩(谷田部藩領)は茨城県になりました。

木幡村慈眼寺の聚分舎の前身の寺子屋は、谷田部番(茂木藩領)にあったと思われます。


写真1 旧木幡小学校校舎です。


写真2 「腰折り屋根」の洋風建築の正面玄関です。


写真3 正面玄関の入り口には、「昭和ふるさと館」と書かれています。


写真4 75mの廊下です。雑巾がけは大変だったと思われます。


写真5 昭和の小学校の教室です。


写真6 椅子に乗って、昭和の小学生気分のメルシーおばさん。


写真7 温故知新(おんこちしん、ふるきをたずねてあたらしきをしる)の額がありました。論語の言葉です。昔の小学校では、論語は、人気がありました。


写真8 昔の教壇です。


写真9 教壇に向かって右には、大きなソロバンがありました。


写真10 教壇に向かって左には、オルガンがありました。


写真11 ちょっと細目のだるまストーブです。燃料は、石炭かコークスです。


写真12 小物も展示されていました。


写真13 昔の時計です。


写真14 天井に木造軸組み構造が見えます。


写真15 75mの長い廊下を通って、駐車場に戻ります。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み