六十六の三 手負いの獣人

文字数 6,278文字

 **王思玲**

「あれは?」

 私の肩で声がした。黒いスライム状の物体が空を見つめていた。
 雅の背でまどろみかけた私も見あげる。夜空に紅色の虹……。

「おそらく魄。ドロシー様につけられたのでしょう」
 忍が偉そうに言うが、それくらいわかる。

「奴はどこを目ざしている?」

「おそらく峻計のもとですが、味方の状況の確認が必要です」
 忍が消える。

「逆手にとった罠かもしれない」
 ハラペコが言う。

「つけられた印に困惑している」
 雅が答える。「追いますか?」

サワサワザワザワ
ザワザワザワザワザワ

 どんなアクションをするにしても木霊が邪魔だ。立ち止まれない。

「戻りました。こちらの陣営に死者こそ出ていませんが、厳しくなってきました。やはり魄は大蔵司から杖を奪ったようです」
「ドロシー様は?」
「狂った折坂と戦闘中なので、とてもそばに寄れない。我が主は桜井さんと帰還中。他のものは大蔵司などの結界に避難している」

「忍が僕達最大の力だ。ありがとう」
 ブラックスライムが見えない忍に感謝した。
「松本が人の世界に戻ったなら、忍もドロシー様の力になってほしい」

 誰もが、哲人がこっちの世界からいなくなる前提でいる。本人にその気がなくてもだ。……そしたらドロシーを躾けるのは誰の役目だ?
 つまり私はまだ死ねない。だとしても戦いつづける。

「私を忘れようとも、我が主は哲人様のみ」
 忍がドロドロスライムハラペコをにらむ。
「それよりも杖。忌むべき魔道具と親しめる峻計ならば使いこなせる。そしてあれは避けられない。……私も雅さんも人となり無力になる。思玲様も猫か鼠になるかもしれない」

「私はお前の主である亀とちがう。そもそも避けてみせる」

 はったりを口にしても異形になりたくない。……華麗に七変化のドロシーは奇跡だろう。ありふれた私ならば、日月潭の主みたいな存在か、乳丸出しの雌鬼になるだろうな。
 だったらやることはひとつ。

「峻計へ渡すまえに魄を落とす。雅、跳躍しろ」
 雅の上で両手に驚蟄扇と春南剣をだす。

「やめるべきです。間に合わず、逆に落下時を狙われます」

 なんと! 従順な雅に拒絶された。

「わかった」
 森の女主に従うに決まっている。「和戸に弟子入りしてお前も飛べるようになれ。それが嫌なら代わりの策を告げろ」

「戦いの匂いが激しい。他の人間と合流しましょう」
 雅がまた歩みを速める。

「それは断固拒否する。狙いは峻計のみ」

 あいつは戦いに横槍を入れる。三つ巴、四つ巴にして生き延びてきた哲人みたいな輩だ。そもそも峻計を生かしたまま、私が朝を迎えられるはずない。

「ここから先は誰もが死に物狂い。仲間に合流してもらいます」
 雅がまた歯向かいやがった。
「あなた様を生かす。それこそが私の役目」



 **松本哲人**

「黒乱に落とされた。俺が奴の主に甘えたと勘違いしてだ。あの子熊は性悪すぎる。ろくな成獣にならねえ」
 夏奈に抱えられたキーウィがぼやく。

「キーウィは大きくなっても木霊に勝てないんだ、ははは」
(ディアォ)と呼べ。ここの木霊は異常すぎる」
「無理。漢字も呼び方も難しいし、ははは。……でも私が平気だね。本当はすごく強いのが伝わるよ」
「ここの木霊は苦手だ。大陸のより獰猛だし……、俺は四大天王筆頭と呼ばれてもこの程度だった」

 戻りがてら、木霊に襲われていた雕を救う羽目になった。巨大すぎるキーウィフルーツが土に埋もれて腐ったのを、富士山のふもとで発見されるわけにもいかないし。
 雕を腐葉土から救うのに難儀しなかった。木霊への恐怖を克服した俺にはたやすかった。というのは嘘で、にじり寄る土を追い払うコバルトブルーのおかげだ。やはり夏奈が持つ天宮の護符は紅色を越える。ドロシーよりも俺を守ってくれる……。
 守っているのではないかもしれない。無死を倒したときのように。

 ハーベストムーンは静かだ。乗っているだけで安らぎを与えてくれる。存在を忘れさせる。

「ちっちゃいキーウィも癒しをくれるよ。抱いていて心安まる」
「不本意だがよく言われる」

 夏奈は雕を抱きしめている。龍の気配は落ち着いている。溢れだした資質を御しているとさえ感じる。
 でも歯を食いしばったりする。ため息をついたりする。夏奈は独りで必死に戦っている。おのれの中のものへと……。

――このまま二人で逃げようか?

 夏奈の言葉をきっぱりと断ち切った。誰とだろうと逃げるなんてあり得ない。だけど……二人して龍の資質を抜きだし、何もなかった二人に戻る。そして始まるかもしれない二人。あり得たエンディング……。まだあり得るエンディング。

 獣人の咆哮がまた聞こえた。ウンヒョクの悲鳴は聞こえない。
 まだ全然終わってないだろ。最後の峰にたどり着けたのかさえ分からない。

「このまま突撃する」
 夏奈へ告げる。「たぶん俺は敵にやられる。すると夏奈が手にする護符は輝く。それを投げろ。決して飛びかかるな。固い俺は耐えられるから」

 言っておかないと、また空から降ってくる。

「それが川田君だったら?」
「同じだよ。倒すつもりでいくしかない。屈服させて、ウンヒョクを救う……なんだあれ?」

 樹海を分断するような紅色の筋が見えた。俺だけ気づける口紅みたいないい香り……ドロシーのマーキングだ。
 あれは手負いの獣が執拗に舐めても消せなかった。しかも、あのとき駅から俺の部屋につながったものより、はるかにくっきり、けばけばしいほど紅色だ。誰がつけられたであれ、そいつは逃げられない。
 だとしても俺が向かうのは駐屯地。明日にはテロのターゲットになったとでもニュースになりそうな呪われた地へ戻ろう。

 しめ縄の結界がふたつ見えてきた。よかった。川田は閉ざされたままだ。もうひとつのデカいのは自衛隊員を守っているのだろう。クレーターがふたつ……。
 ドロシーはどこ? 暴雪は? 貪は? 折坂は?
 忍は? 思玲は? デニー、ウンヒョク、大蔵司は? あれは……

「ドロシーちゃんと折坂はあっちぽい!」

 夏奈が天宮の護符で指し示す森と反対側を見てしまう。半壊した施設……。大蔵司が傀儡祓いした場所。あのときは壊れていなかった。気絶した隊員さんがまだいるはず。

「暴雪と貪は?」
「貪はドロシーちゃんが封じた。虎はわからない」
「大蔵司は? 思玲は?」
「わからんって言ってるだろ! はやくドロシーちゃんを助けにいけ!」

 怖っ。だけど。

「ウンヒョクとデニーが最優先だ」
 次いで巻き込まれた人達。でも四百人もいる。……それだけの規模で音信不通のはずなのに援軍が現れない。

「結界の中で守られているに決まっている。そうじゃなきゃドロシーちゃんが置いていくはずない」
「それでもここに川田がいる。ハーベストムーンは、ここへ降りて」
「……やめろよ」

 夏奈こそ気づけよ。俺こそドロシーのもとへ行きたい。一緒に戦いたい。守りたいのを耐えているんだよ。

「川田が心配だ」
「やめろ。龍になるぞ」

 ひとつ覚えの脅し文句。俺には効果ない。俺には意味ないけど……川田よりもドロシー優先の夏奈……。

このまま二人で逃げようか
でも安心した

 俺の真意を探ろうとした夏奈。
 はっきりさせよう。

「夏奈は思いだしているよね?」

 おそらく影添大社の屋上で、ドロシーが異形になったとき。夏奈は泣きわめいた。

「……いいや。何も思いだしてねーし」

 まっすぐな夏奈。嘘が苦手な夏奈。きっとフロレ・エスタスもそうなのだろう。
 認めさせるべきだ。さもないと次の質問ができない。

 夏奈はドロシーを求めているの? それともドロテアを欲しているの?

「俺は過去を見せられた。なのに覚えてない。それなのに刻まれている。大事だから。……赤い龍。それと」
「言うな! マジで龍になるぞ」

ゴロッ

 また空がどよめいた。だけど雲なき明るい夜。
 星々をかき消す満月が東の稜線を照らしている。富士山もくっきりと。
 夏奈が手にする護符は輝かぬまま。

「わかったよ。夏奈が望むようにするから、ハーベストムーンはドロシーをここに連れてきて。それまで俺は川田を見張る。出てきたら説得する」
「愛称はハーブがいい。敬愛すべきドロシー様にも勧めて」

 ペガサスがいきなり雌の声をだして驚かされたが、次の瞬間俺と夏奈は振り落とされる。

「キーウイ!」

 雕が悲鳴をあげながらも夏奈のクッションになってくれた。俺は尻から着陸しても全然平気。
 気絶した雕を抱きあげる。ペガサスはもう見えない。

「なんで私まで落とすんだよ」

 立ちあがった夏奈が毒づくけど、ハーベストムーンの判断だろう。ドロシーのもとへ向かうほうがより危険だと。

サワサワ
サワサワ

 またも木霊がお出迎えだ。たち悪いこいつらに弱さを見せれば飲みこまれる。俺は夏奈をかばいながら駐屯地へ歩く。

「足もとに注意して」
「森の底まで照らされている。怖いぐらい明るすぎだし」

 ただの人の目には、きっと真っ暗だよ。

「腐葉土が足を狙う。立ち止まらないようにね」

 俺には分かる。ドロシーは敵を忌むべき森へ引きこんだ。人々を助けるため。そいつと川田を鉢合わせないため。ドロシーに拮抗できる敵は折坂さん。

 暴雪はすでに彼女へ屈服しただろう。彼女が倒すはずない。そして俺が川田を救う。倒すはずがない。
 貪が封じられたのは残念だ。奴が赦されるはずないのに。
 峻計がどうなったか知らない。どうせ思玲が倒すだろう。あいつが救われるはずない。

 大きな穴がいくつか開いた駐屯所前に、ドロシーのリュックサックが落ちていた。……彼女が負けるはずない。そしたら夏奈は龍になるのだから。
 歩きながらリュックの中を覗く。いつでも呪文をかけられるよう一番上にあった玉がなくなっていた。もう彼女と向かい合わせになることはなくなった。

「みんなも生きているよね?」
 夏奈はでっかい結界にも声かける。中からこつんと音がした。
「ありがとう。京さんのおかげだ」

 俺だって安堵と感謝を同時に覚えた。それでも傷ついた人を保護するより先にすべきこと。

「川田」
 傷んだしめ縄の結界へと声かける。緊張がないと言えば噓になる。
「川田。朝までずっとそこにいてよ。俺も隣にいるから」

 結界は静かなまま。俺はそれに寄りかかろうとしてやめる。大蔵司の極上結界に俺なんかが触れたら大惨事だ。

「川田君、生きているよね?」
 夏奈も声かけるけど、返事が戻らないので不安になる。

 夏奈を人に戻す方法。川田を人に戻す方法……。
 俺はドロシーを襲う狼を独鈷杵で切り裂いた。その行為への躊躇が、導きのように川田を人の姿にした。でも同じ手法でドーンを人に戻すことは叶わなかった。

 藤川匠。奴は俺から青龍の光を切りとった。奴ならばできるかも。月神の剣で……。

「はは、あははははは……」
「わお、いきなり笑うなよ」
「ごめん、だって」

 乙姫様は水牢で自分を藤川匠に斬らせた。生き延びるために。そして人であるドロシーに戻った。
 つまり彼女ならばできる。彼女が独鈷杵――あれは力不足――ドロシーが破邪の剣を手にしたら、夏奈の龍を消し去れる……。

「……なんでもない」
「なんだよ。哲人の笑い声、ひさしぶりだったのに」

 そんな簡単であるはずない。ドロシーは賢い。ドロシーは失敗を恐れない。彼女が試みないのは成功の見込みがないからだ。人の姿に戻すのが精一杯だからだ。
 だけども試してもらおう。思玲の言葉がはったりでないのならば、椿と楠から生まれた春南剣で――。
 そうだよ。その所有者である人にこそ試してもらえ。

「解封!」

 叫び声とともに、巨大結界から大蔵司がでてきた。守りが消えたあとには、外で倒れていた自衛隊員方が五十名ほどとデニー、ウンヒョク、鶏子。誰もが傷ついたり薄らいでいる。意識は誰もなさそう。
 悲惨の極致なのに、魔道士とそれに関わった人は助けを呼べない。地面に転がり朝を待つだけ。

「ドロシーちゃんはさっきまで生きていたよ。貪を封じた。暴雪を猫にしちゃった」
 元気そうな黒乱が教えてくれた。たしかに意識なきウンヒョクに抱えられて、白い子猫がすやすや寝ている。
「ウンヒョク様は回復しだしている。デニーのが辛そうだけど、きっと耐えられる」

「やっぱり彼女の独壇場か」
 得意げになりそうな俺。でも、どうして白虎が子猫になった?

「そんで私は二度死にかけた。さあ桜井は中に入って。松本のパートナーをチェンジする」
「それはドロシーちゃんだけだし、ははは」

 それでも夏奈は素直に従う。まだ気を失っている四天王筆頭を俺から受けとる。

「よろしく」

 すれ違う際にグータッチしようとするけど、真剣な顔の大蔵司に無視される。手にしたままの天宮の護符……。夏奈に持たせておくべきだ。だってあれは、俺だけを守るわけではない。
 大蔵司が神楽鈴を振るう。

「結界に触るなよ。空封そして地封」
 しめ縄の結界に包まれて、また誰も見えなくなる。二人だけになる。
 血で汚れた巫女装束。猫耳でなくなった大蔵司がもう一つの結界を神楽鈴で指す。
「弱まった結界を強化してないのに、川田がおとなしすぎる。壊そうとして力足りず消滅したか、穴を掘って逃げたか」

「この結界は地面から脱出できるのか」
 何度か閉じこめられたが試そうとしなかった。町へ向かった可能性がでてきてしまう。

「土蜘蛛ですら、強化してない結界を脱出できなかった。さすがに無理か。えっ?」
「ようやくでてきた。一番美人が最初の獲物だ」

 川田の声がした。大蔵司が消えた。その地面には……彼女は穴に引きずられた!

「待て!」
 俺も人が潜るにちょうどのサイズの穴へ飛びこむ。

 知恵ある獣人は、大蔵司が現れるのをずっと待っていた。壊れかけた結界は見せかけで、ドロシーも折坂もいなくなり、彼女が姿をだすまで潜んでいた。

「楽しみの邪魔するな」
「うっ」

 足を切り裂かれた。こいつは追ってくる俺を待ちかまえていやがった。

ガブッ

 しかも噛みやがった! ……食われる。そしたら復活しない。

「人封! なんなのっ、逆さ人封! ワンチャンやめろよ」

「大蔵司、陰辜諸の杖!」地下へと叫ぶ。

「あれは魄に捕られた! やめ、やめろ。脱がすな!」

 ふいに足が解放される。下に目を向けると川田の隻眼が光っていた。遠く離れた満月の光を川田は手放さない。

「松本とドーンと姉御と龍と鶏子だけは喰わない。だから大蔵司を置いて逃げろ。拒否するならば喰う」
「……思玲は?」
「こいつの次に喰う。いまも匂いが漂っている。うまそうだ」
「横根は?」
「今夜最後の楽しみに取っておく。町に降りたらまずは七実を喰う」

 やはり昼間までの川田ではない。獣臭さえ違う。

「松本! まずは私を心配しろ!」
「おまえは落ちろ」
「ざけんな。烈! 烈! ……松本助けて!」

 大蔵司の声が引きずられていく。

「待て!」

 俺に恐怖はない。狭い穴を足から進む。おそらく五メートルほどで結界内にあがるはず。……地上への分岐が幾つかある。執念深く罠を築いていやがった。
 大蔵司の悲鳴だけを追いかける。明かりが差しこむ穴があった――。

「うわっ」
 土が大量に降ってきた。でも俺は玄武だ。蛇であり亀だ。ヘルメットを盾に陸上を目指す。
「川田ぐえっ」
 顔をだすなり蹴られた。引きずりだされ投げ飛ばされる――
「ぎゃああ!」

 強化されたしめ縄に頭から激突。弾き飛ばされない。だけどヘルメットが割れた。頭から黒い血が流れだす。

 結界内を照らす月はなおも東。

「ま、松本、や、やだ、やめて!」

 大蔵司の悲鳴を聞きながら立ち上がる。人だった異形が、友だった異形をにらむ。




次回「二人それぞれの力」
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