三十八の一 老兵は死なず。口うるさいのみ
文字数 4,825文字
『がんばってね! 私は京さんといる』
夏奈からメッセージが届く。ほぼ同時に横根もスマホをチェックしたから、二人に流したのだろう。『了解』と返事する。スタンプはやめておく。
タクシーは近場で荒川を渡らずに都内の道を進む。渋滞がひどい。それでも一時間あれば到着するはずだ。
「検問みたいです」
北区に架かる橋の手前で運転手が言う。
「あんな事故があれば仕方ないですね」
露泥無であるおばさんが助手席で答える。
「ニュース聞きますか?」
「やめてください」
ラジオへ手を伸ばした運転手へと、俺がきっぱり断る。
しかし俺達は平気だけど、無免許で大型バイクに乗る未成年思玲はうまくない。だから後ろに四人乗ろうと言ったのに……。
このメンバーは、大峠の山道に向かった五人だ。子どもだった思玲は熱をだし、横根は透けていて、俺はろっ骨を数本折っていた。いまよりも悲惨だった。でも部外者の露泥無とドロシーは、進んでチームに加わってくれた。
どっちにしろ、あのでかいバイクで引き返せない。脇道へ行けない場所で張っているし。
「検問でなにをチェックされますか?」露泥無からの問いに、
「ナンバーだけでしょ。タクシーは素通りですが、不審と判断された一般車は停められるかもしれません。日本も物騒になった」
橋の崩落は事故に改ざんされたけど、テロの噂も流れている。そのための検問だろう。
前の車は免許証を提示させられたが、俺達が乗るタクシーはほぼスルーだった。続いて思玲のバイク。
「格好いい。七葉扇を持って片手運転。あっ、広げた」
ドロシーは身体の向きを変えて後方を覗いていた。
「警察全員が倒れた。運転しながらの一瞬だ。……警察がもう起き上がった。加減した失神の術……。さすが王姐。ビューティフルだ」
美しくはない。根本が間違っている。
しかしテンパった思玲は、何をしでかすか分かったものじゃない。俺がいたいけな座敷わらしだったときも、彼女は加減せずに術を当てまくり、しまいには扇と小刀を交差させようとした。昼間の大学敷地内でだ。
やはり関係を持たなくてよかったかも。俺に未練はほとんどない。
タクシーは荒川にかかる橋を越えて川口市に入った。赤信号で思玲が横に並び、親指を立てる。
ドロシーは知らぬ間に俺の手を握っていた。俺からかもしれない。
「わ、私はもう力になれないかも。やっぱり無理かも」
埼玉に入るなり、横根がひさしぶりに言葉を発した。しかも人の声で。
「瑞希、落ち着きなさい。誰もあなたに頼らないから心配しないでね、ほほほ」
最強体だと人の声しか発せられない露泥無がたしなめる。
「なにかあるのですか」
「イベントです」
俺はそっけなく答えて、運転手との会話を拒絶する。
「瑞希さんが怖がる必要ない。哲人さんが守ってくれる」
ドロシーが窓の外を見ながら心の声で言う。
「だから黙っていてください。狭い車内が人の息だらけで、窓を開けていてもつらい」
「……ひどい」横根が人の言葉でつぶやく。
ゆがんだ五人。俺だってゆがんでいる。でも横根には頼らない。降りだしに戻させない。
「ここで結構です。あとは歩きます。車だと酔う子がいるので、おほほ」
露泥無がタクシーを停めさせる。
四人はコンビニで降りる。俺が乗車代を支払う。
「トイレ休憩か? ハラペコのねぐらまで我慢しろ」
思玲が停めたバイクのエンジンをふかす。
*
ニョロ子が戻ってきたので、思玲をマンションへ誘導してもらう。
「王姐待って。やっぱり乗る」
ドロシーがノーヘルで、動きだしたバイクへ飛び乗っていった。思玲が懸命に制御する……。
なんで体を軽々と不安定なものへ持ちあげられる? 腕力でなく瞬発力。絶対的バランス感覚と、あらゆる運動を同時に制御する緻密な反射神経。俺は感心するけど。
「救いのない人間」
横根のつぶやきが聞こえてしまう。
俺と横根と露泥無は、お互いに情報交換しながら歩く。
夏奈経由で、思玲が検問突破したことを影添大社に伝えておく。『あのバイクは治外法権』と大蔵司から返事があったとのこと。
十分近くして、新しくはないマンションにたどり着く。思玲とドロシーはすでにいた。大型バイクは横倒しになっていた。
「後ろの人間がいきなり飛び降りて、バランスを崩し停めそこねた。こいつは腕立て伏せが足りぬゆえ、私一人では汗をかく」
「ごめんなさい。PKの術でも重くて無理だ」
みんなで起こし、露泥無であるおばさんが所定の駐車位置に引きずっていく。
ニョロ子が俺の肩に降りる。伝えることはないらしく、ここに残ることを選んだようだ。
「このマンションは日本人より中国人のが居住している。トルコ人も多い。日系ブラジル人も多少いる。インド人は少ない。白人は、北欧系の女性が同室に八人で住んでいるだけ」
戻ってきた露泥無が教えれくれる。
セキュリティのないエントランスを露泥無が通過する。無人の管理人室。様々な張り紙が張ってある掲示板。干からびた吐しゃ物。
エスカレーターは二台あった。露泥無が最上階のボタンを押す。ガタガタ動きだす。
「よさそうな物件だな。ドロシーもここに住めばいい」
思玲は質 の悪い冗談をいう。
「契約にはパスポートが必要だし、そもそも未成年だけでは無理だ。そこだけはうるさい」
露泥無が真面目に回答する。溶けて華奢な女の子の姿に戻る。
「ここまで来れば安全だからだ。殲は屋上で誰にも気づかれぬまま身を隠し、唐は荒川からここまで二分でやってくる。あの巨大クラゲは陸地を移動できる。……どうせ忍から聞いているだろ」
「デニーが俺達の記憶を消したことはね」
もはや隠す必要ない。「俺達を助けたこともね。だからここにいる」
エレベーターが開く。エスニックな香り。外国語での口論や赤子の泣き声がする。露泥無が一番手前のチャイムを鳴らす。
「開いているよ」
沈大姐の声が聞こえた。
*
「コンビニで降りたのなら茶菓子ぐらい買ってこい。いつまでたっても役に立たない貉だ」
沈大姐は不機嫌だった。「梁勲の孫は生き延びたことを私に感謝しろ。……その娘は白猫だな? 松本を忘れるはずない。思玲はでかくなったが魂がかすれているぞ。私の知ったことじゃないけどね」
大阪のおばちゃんを彷彿させる勢いで、ソファに寝ころんだままで言う。その背後にデニーが立っている。どちらもこのまま出掛けられるような普段着だ。
靴を脱がずに入ってきた俺達は、挨拶の機会もなく突っ立ったままだ。
「松本が持っているものは何だ?」
デニーが俺をにらむ。峻計や劉師傅と同様に、この人も木札の存在に気づく。
「火伏せだろ。それがあれば、忌むべきものどもの厄災を跳ねかえす。悪意ある人からも逃れられる。人として頼れば怖いものしらずだが」
沈大姐がソファに座りなおす。「わざわざ異形になるのか。護符の力は半減するぞ」
だから暴雪は一撃で退散したのか。記憶よりも強く感じたのはそのせいか。
……流範は護符の怒りを喰らっても半日以上生き延びた。この木札は俺を守るためのものであって、攻撃で使えば強者にはそこまででなく、しかも穢れてしまう。……でも横根がいる。
「私どもの心配をしていただけるとは、さすがは全魔道士の首領 。おそらく大姐は油断なされていたのでしょう。私達はなおもあなた様の後塵を拝すのみです。それは香港人のこの娘も――ドロシー頭を下げろ」
さっそく思玲はおべっかだらけだ。ドロシーはそっぽを向いているし。
「王思玲は黙れ。お前は峻計だかを逃したな。真昼間に異形を狩れる機会など滅多にない。しかもあいつは満月新月両方だ。落とし前はお前がとれ。明日の昼までにだ。さもないと台湾島に不夜会出張所を作る」
政治的にも危うい話をする。筋が通らないし、なんて奴だ。思玲は引きつった笑みをかえすだけだし。こうなると――
「ドロシーはおとなしくね」
俺は先んじて彼女の手を握る。沈大姐が俺達をじっと見る。
「松本とドロシーは、この国の告刀を受けたな。護符を手にする前にだ」
手をつないだままの二人はきょとんとしてしまう。
「それは彼女です」と、俺は黙ったままの横根を指さすけど、
「そっちは知らん。おそらく正統なものを受けただろ。松本達のはいわゆる呪いだ。やはり影添大社はろくでもない。高飛車で金儲けだけ」
「私だけが呪いを受けました。沈大姐でしたら消せますか?」
「南育ちは自分に都合いいことしか口にしないな。お前のは瞬間的なものだから貼りついてない。松本のもかすみだしているよ。心が打ち勝とうとしている。露泥無は茶を入れろ。客人にもだ」
「ちょっと待ってください。俺は呪いを受けてない」
「だったらそういうことだろ。何度も言わすな。
いいか。今回の争いで、私だけが真面目だった。香港が日和り、影添大社は機能不全。世の中の水平を保つために、私が動くしかなかった。桜井夏奈を殺す。単純明快だが、それは正義じゃない。私らは劉昇ではないからね。なので龍の資質を抜きだそうとした。賢く優しく怖いデニーからの進言だ」
龍の資質を抜きだす?
「包み隠さずに教えてやろう。護符があるなら、もはや忘れることもないだろうからな」
デニーが俺へと薄く笑う。
「楊偉天はおかしくなっていた。自分の功績を祖国に認めてもらうために、論文めいたものを我々へ送りつけた。それは人を四神獣に変えるという、妖術さえかわいく感じてしまうものだった。もちろん要点は隠されていたが、不夜会のエリートは研究を重ねた」
「だが人を用いる実験は認めなかった」
大姐が口を挟む。
「当然です。なので机上の理論であったが、はっきりしたことがある。――儀式には向かいに位置するものが必要。それが歪めば、人を異形に変えることなく資質が抜ける。楊偉天は、それを失敗と位置づけていた」
「グレートだ……」ドロシーの握る手が強まる。「夏奈さんから龍の資質だけを消せる。だったら夏奈さんを連れてくるべきだった」
「机上の空論と言っただろ。儀式は失敗する可能性のが高い」
またも沈大姐が喋りだした。
「しかも、その有能な飛び蛇が飛び回っていて、お前らに喋れば奴らに筒抜けになる。なので上海をでてからここまで口外しなかった。あそこで茶を沸かしている露泥無にもだ。だが私らは試すことにした。成功すれば特上の龍の資質が手に入る。失敗しても資質が桜井に残るだけ。もしくは化け物が現れる。そしたら処分おっと、とにかくそういうことだ。
なので私がじきじきに迎えにいった。だが藤川匠がやってきた。あいつも桜井が無防備になるのを待っていた。白猫と手負いが離れるのをだ。
生まれ変わりを見た瞬間に分かった。こいつは私どころかデニーよりも強い。だが逃げるわけにはいかない」
「あなたのが私よりずっと偉大です」
デニーが腹立ちまぎれのマシンガントークに割り込んだ。そのままま止めてくれたらいいのに「失礼しました。全員が話の続きを待っています」
「デニーのは謙遜だが事実でもある。私がデニーの歳だったら、藤川匠にも負けなかった。だが力は年を取るほどに弱まる。なので私は引退する。デニーに不夜会を譲る。しかし、こいつは目の色が違うだろ? なので私は後ろ盾を続ける。
私からは以上じゃなかった。白虎の件があった。蛇が伝えたが、松本は手負いの虎にしたな。この大馬鹿野郎が! ……虎はひそむ。明日の夜を待つ。だから月満ちる日没までに、松本が責任をもって倒せ。護符を捨てて姿をさらして呼び寄せろ。
あとは新しい首領が仕切れ。露泥無はのろい。日本で作法は不要だ。早く茶を持ってこい」
「大姐は戦い続けた。休んでいただく頃合いだ。なので私は承った」
デニーは大姐の背後に立ったままだ。
「手始めが貪退治。だがあいつは倒しても復活する。限りない戦いの始まりだ」
次回「亀となるか蛇となるか」
※明日より基本的に22時20~30分頃の手動更新になります。よろしくお願いします。
夏奈からメッセージが届く。ほぼ同時に横根もスマホをチェックしたから、二人に流したのだろう。『了解』と返事する。スタンプはやめておく。
タクシーは近場で荒川を渡らずに都内の道を進む。渋滞がひどい。それでも一時間あれば到着するはずだ。
「検問みたいです」
北区に架かる橋の手前で運転手が言う。
「あんな事故があれば仕方ないですね」
露泥無であるおばさんが助手席で答える。
「ニュース聞きますか?」
「やめてください」
ラジオへ手を伸ばした運転手へと、俺がきっぱり断る。
しかし俺達は平気だけど、無免許で大型バイクに乗る未成年思玲はうまくない。だから後ろに四人乗ろうと言ったのに……。
このメンバーは、大峠の山道に向かった五人だ。子どもだった思玲は熱をだし、横根は透けていて、俺はろっ骨を数本折っていた。いまよりも悲惨だった。でも部外者の露泥無とドロシーは、進んでチームに加わってくれた。
どっちにしろ、あのでかいバイクで引き返せない。脇道へ行けない場所で張っているし。
「検問でなにをチェックされますか?」露泥無からの問いに、
「ナンバーだけでしょ。タクシーは素通りですが、不審と判断された一般車は停められるかもしれません。日本も物騒になった」
橋の崩落は事故に改ざんされたけど、テロの噂も流れている。そのための検問だろう。
前の車は免許証を提示させられたが、俺達が乗るタクシーはほぼスルーだった。続いて思玲のバイク。
「格好いい。七葉扇を持って片手運転。あっ、広げた」
ドロシーは身体の向きを変えて後方を覗いていた。
「警察全員が倒れた。運転しながらの一瞬だ。……警察がもう起き上がった。加減した失神の術……。さすが王姐。ビューティフルだ」
美しくはない。根本が間違っている。
しかしテンパった思玲は、何をしでかすか分かったものじゃない。俺がいたいけな座敷わらしだったときも、彼女は加減せずに術を当てまくり、しまいには扇と小刀を交差させようとした。昼間の大学敷地内でだ。
やはり関係を持たなくてよかったかも。俺に未練はほとんどない。
タクシーは荒川にかかる橋を越えて川口市に入った。赤信号で思玲が横に並び、親指を立てる。
ドロシーは知らぬ間に俺の手を握っていた。俺からかもしれない。
「わ、私はもう力になれないかも。やっぱり無理かも」
埼玉に入るなり、横根がひさしぶりに言葉を発した。しかも人の声で。
「瑞希、落ち着きなさい。誰もあなたに頼らないから心配しないでね、ほほほ」
最強体だと人の声しか発せられない露泥無がたしなめる。
「なにかあるのですか」
「イベントです」
俺はそっけなく答えて、運転手との会話を拒絶する。
「瑞希さんが怖がる必要ない。哲人さんが守ってくれる」
ドロシーが窓の外を見ながら心の声で言う。
「だから黙っていてください。狭い車内が人の息だらけで、窓を開けていてもつらい」
「……ひどい」横根が人の言葉でつぶやく。
ゆがんだ五人。俺だってゆがんでいる。でも横根には頼らない。降りだしに戻させない。
「ここで結構です。あとは歩きます。車だと酔う子がいるので、おほほ」
露泥無がタクシーを停めさせる。
四人はコンビニで降りる。俺が乗車代を支払う。
「トイレ休憩か? ハラペコのねぐらまで我慢しろ」
思玲が停めたバイクのエンジンをふかす。
*
ニョロ子が戻ってきたので、思玲をマンションへ誘導してもらう。
「王姐待って。やっぱり乗る」
ドロシーがノーヘルで、動きだしたバイクへ飛び乗っていった。思玲が懸命に制御する……。
なんで体を軽々と不安定なものへ持ちあげられる? 腕力でなく瞬発力。絶対的バランス感覚と、あらゆる運動を同時に制御する緻密な反射神経。俺は感心するけど。
「救いのない人間」
横根のつぶやきが聞こえてしまう。
俺と横根と露泥無は、お互いに情報交換しながら歩く。
夏奈経由で、思玲が検問突破したことを影添大社に伝えておく。『あのバイクは治外法権』と大蔵司から返事があったとのこと。
十分近くして、新しくはないマンションにたどり着く。思玲とドロシーはすでにいた。大型バイクは横倒しになっていた。
「後ろの人間がいきなり飛び降りて、バランスを崩し停めそこねた。こいつは腕立て伏せが足りぬゆえ、私一人では汗をかく」
「ごめんなさい。PKの術でも重くて無理だ」
みんなで起こし、露泥無であるおばさんが所定の駐車位置に引きずっていく。
ニョロ子が俺の肩に降りる。伝えることはないらしく、ここに残ることを選んだようだ。
「このマンションは日本人より中国人のが居住している。トルコ人も多い。日系ブラジル人も多少いる。インド人は少ない。白人は、北欧系の女性が同室に八人で住んでいるだけ」
戻ってきた露泥無が教えれくれる。
セキュリティのないエントランスを露泥無が通過する。無人の管理人室。様々な張り紙が張ってある掲示板。干からびた吐しゃ物。
エスカレーターは二台あった。露泥無が最上階のボタンを押す。ガタガタ動きだす。
「よさそうな物件だな。ドロシーもここに住めばいい」
思玲は
「契約にはパスポートが必要だし、そもそも未成年だけでは無理だ。そこだけはうるさい」
露泥無が真面目に回答する。溶けて華奢な女の子の姿に戻る。
「ここまで来れば安全だからだ。殲は屋上で誰にも気づかれぬまま身を隠し、唐は荒川からここまで二分でやってくる。あの巨大クラゲは陸地を移動できる。……どうせ忍から聞いているだろ」
「デニーが俺達の記憶を消したことはね」
もはや隠す必要ない。「俺達を助けたこともね。だからここにいる」
エレベーターが開く。エスニックな香り。外国語での口論や赤子の泣き声がする。露泥無が一番手前のチャイムを鳴らす。
「開いているよ」
沈大姐の声が聞こえた。
*
「コンビニで降りたのなら茶菓子ぐらい買ってこい。いつまでたっても役に立たない貉だ」
沈大姐は不機嫌だった。「梁勲の孫は生き延びたことを私に感謝しろ。……その娘は白猫だな? 松本を忘れるはずない。思玲はでかくなったが魂がかすれているぞ。私の知ったことじゃないけどね」
大阪のおばちゃんを彷彿させる勢いで、ソファに寝ころんだままで言う。その背後にデニーが立っている。どちらもこのまま出掛けられるような普段着だ。
靴を脱がずに入ってきた俺達は、挨拶の機会もなく突っ立ったままだ。
「松本が持っているものは何だ?」
デニーが俺をにらむ。峻計や劉師傅と同様に、この人も木札の存在に気づく。
「火伏せだろ。それがあれば、忌むべきものどもの厄災を跳ねかえす。悪意ある人からも逃れられる。人として頼れば怖いものしらずだが」
沈大姐がソファに座りなおす。「わざわざ異形になるのか。護符の力は半減するぞ」
だから暴雪は一撃で退散したのか。記憶よりも強く感じたのはそのせいか。
……流範は護符の怒りを喰らっても半日以上生き延びた。この木札は俺を守るためのものであって、攻撃で使えば強者にはそこまででなく、しかも穢れてしまう。……でも横根がいる。
「私どもの心配をしていただけるとは、さすがは全魔道士の
さっそく思玲はおべっかだらけだ。ドロシーはそっぽを向いているし。
「王思玲は黙れ。お前は峻計だかを逃したな。真昼間に異形を狩れる機会など滅多にない。しかもあいつは満月新月両方だ。落とし前はお前がとれ。明日の昼までにだ。さもないと台湾島に不夜会出張所を作る」
政治的にも危うい話をする。筋が通らないし、なんて奴だ。思玲は引きつった笑みをかえすだけだし。こうなると――
「ドロシーはおとなしくね」
俺は先んじて彼女の手を握る。沈大姐が俺達をじっと見る。
「松本とドロシーは、この国の告刀を受けたな。護符を手にする前にだ」
手をつないだままの二人はきょとんとしてしまう。
「それは彼女です」と、俺は黙ったままの横根を指さすけど、
「そっちは知らん。おそらく正統なものを受けただろ。松本達のはいわゆる呪いだ。やはり影添大社はろくでもない。高飛車で金儲けだけ」
「私だけが呪いを受けました。沈大姐でしたら消せますか?」
「南育ちは自分に都合いいことしか口にしないな。お前のは瞬間的なものだから貼りついてない。松本のもかすみだしているよ。心が打ち勝とうとしている。露泥無は茶を入れろ。客人にもだ」
「ちょっと待ってください。俺は呪いを受けてない」
「だったらそういうことだろ。何度も言わすな。
いいか。今回の争いで、私だけが真面目だった。香港が日和り、影添大社は機能不全。世の中の水平を保つために、私が動くしかなかった。桜井夏奈を殺す。単純明快だが、それは正義じゃない。私らは劉昇ではないからね。なので龍の資質を抜きだそうとした。賢く優しく怖いデニーからの進言だ」
龍の資質を抜きだす?
「包み隠さずに教えてやろう。護符があるなら、もはや忘れることもないだろうからな」
デニーが俺へと薄く笑う。
「楊偉天はおかしくなっていた。自分の功績を祖国に認めてもらうために、論文めいたものを我々へ送りつけた。それは人を四神獣に変えるという、妖術さえかわいく感じてしまうものだった。もちろん要点は隠されていたが、不夜会のエリートは研究を重ねた」
「だが人を用いる実験は認めなかった」
大姐が口を挟む。
「当然です。なので机上の理論であったが、はっきりしたことがある。――儀式には向かいに位置するものが必要。それが歪めば、人を異形に変えることなく資質が抜ける。楊偉天は、それを失敗と位置づけていた」
「グレートだ……」ドロシーの握る手が強まる。「夏奈さんから龍の資質だけを消せる。だったら夏奈さんを連れてくるべきだった」
「机上の空論と言っただろ。儀式は失敗する可能性のが高い」
またも沈大姐が喋りだした。
「しかも、その有能な飛び蛇が飛び回っていて、お前らに喋れば奴らに筒抜けになる。なので上海をでてからここまで口外しなかった。あそこで茶を沸かしている露泥無にもだ。だが私らは試すことにした。成功すれば特上の龍の資質が手に入る。失敗しても資質が桜井に残るだけ。もしくは化け物が現れる。そしたら処分おっと、とにかくそういうことだ。
なので私がじきじきに迎えにいった。だが藤川匠がやってきた。あいつも桜井が無防備になるのを待っていた。白猫と手負いが離れるのをだ。
生まれ変わりを見た瞬間に分かった。こいつは私どころかデニーよりも強い。だが逃げるわけにはいかない」
「あなたのが私よりずっと偉大です」
デニーが腹立ちまぎれのマシンガントークに割り込んだ。そのままま止めてくれたらいいのに「失礼しました。全員が話の続きを待っています」
「デニーのは謙遜だが事実でもある。私がデニーの歳だったら、藤川匠にも負けなかった。だが力は年を取るほどに弱まる。なので私は引退する。デニーに不夜会を譲る。しかし、こいつは目の色が違うだろ? なので私は後ろ盾を続ける。
私からは以上じゃなかった。白虎の件があった。蛇が伝えたが、松本は手負いの虎にしたな。この大馬鹿野郎が! ……虎はひそむ。明日の夜を待つ。だから月満ちる日没までに、松本が責任をもって倒せ。護符を捨てて姿をさらして呼び寄せろ。
あとは新しい首領が仕切れ。露泥無はのろい。日本で作法は不要だ。早く茶を持ってこい」
「大姐は戦い続けた。休んでいただく頃合いだ。なので私は承った」
デニーは大姐の背後に立ったままだ。
「手始めが貪退治。だがあいつは倒しても復活する。限りない戦いの始まりだ」
次回「亀となるか蛇となるか」
※明日より基本的に22時20~30分頃の手動更新になります。よろしくお願いします。