四十二の三 タイプB

文字数 5,178文字

 心の声とも違う。むしろその奥底から伝わるような、本人さえも聞こえない声。それを受けとめられる者にしか……。
 なのに流れ込んだ記憶は即座に消える。もやもやした感覚だけが残る。……あれは前世の声だ。遠い感情だ。俺はたしかに聞かされた。だけど受けとめられなかった。

「えっ?」
 その声とともに、ドロシーが屋上に尻から落下する。
(とん)……」

 薄紅色のチェック柄のシャツとジーンズ。ドレスのときに履いていたレギンスを重ね着しているけど、肩までのストレートヘアでノーメイク。二十四時間前に俺の部屋で着替えたままのドロシーがそこにいた。

「……なんで? 私も人に戻っちゃった」

 こいつらは心の(たぎ)りだけで、(失敗作であろうと)異形の気を払い落としやがった。

「分かっただろ? 私が怒鳴っただけで松本君はキモくなくなった。嫉妬するのは確認してからにしろよ」
 俺の背後で夏奈が怒鳴る。

 ドロシーは聞き流している。立ちあがりお尻をさすり、覚悟の眼差しを俺に向けてくる。

「哲人さんはキュートでなくなった。だけどここにデニーさんがいる。玉もある。もう一度儀式をしてもらおう」

 ……そりゃそうだ。異形にならないと戦いようがない。後ろ指をさされる玄武くずれに再びなろうと、そうするしかない。
 でも俺にはそこまでの覚悟はない。上の下のドロシーとは、仕上がりに差がありすぎる。

「デニーは重傷を負った。魔法陣も破壊された。だから無理だよ。昼間は人で過ごして、夕方になったら考えよう」
 なので言い訳を並べる。

(ぷー)」ドロシーが人の言葉のあとに「デニーさんは強いから呪文ぐらい唱えられる。それに私は魔法陣を見たから覚えた。老大大のと違い偽装されてなかったので、哲人さんが腰かけたところ以外の九割は描ける」

 なんという映像記憶力だ。さらにおぞましい玄武もどきが生誕する予感がした――非常階段を駆け上がるイウンヒョク。
 ニョロ子からの視覚が届いた。

「……誰?」夏奈が真っ先に気づく。

「俺だよ。君を迎えにきた。震えあがったままのモモン蛾とコカトリスの代わりにな」
 視覚ではないイウンヒョクが、息を切らさぬまま屋上へ現れた。

「私と哲人さんが行きます。夏奈さんはまだ屋上にいてください」
 自己都合の具現のごときドロシーが俺の手を握る。

 俺もまだここにいたい。そんな思いは浮かんでいない。ドロシーが何事もなかったように接してくれるのだから。
 もう浮かべなくなったドロシーと手をつないでウンヒョクのもとに向かう。

「君達を呼んでないのにな。そもそも桜井を一人にしていいのか?」

 イウンヒョクが苦笑いする。そりゃそうだった。この二人は自然すぎるから、俺の危機感までぬぐい去る。

「ウンヒョクさん。この人達は置いていったほうがいいっすよ。さっきも二人で服を脱がしあった」
 夏奈は俺達を追い越し、イウンヒョクの背後へ行く。ドロシーへ中指を立てそうな態度。

 人だらけの公園。誰もいない影添神社の玄関前。快晴の空。視覚が続く。桃子とヅゥネのツーショット……。
 ニョロ子は何を伝えたいんだ?

「みんなで行こう。俺達も人に戻ったから入れてもらえると思う」
 分からないから、そう告げる。

「……哲人さん」
 ドロシーが立ち止まる。「また怒られるかもしれないけど……」

「いいや。連れていくのは青龍だけだ」
 イウンヒョクが俺の前まで来る。その手に剣が現れる。
「しかしその娘は何故に気づける?」

 階段を駆けあがる折坂さん。その手にはむき出しの日本刀。
 イウンヒョクの剣は俺の首へと――

「哲人さん!」
 ドロシーが俺に飛びつく。押し倒される。
「うっ」
「ひっ」

 彼女に続いて俺も悲鳴を漏らす。腹部にとてつもない衝撃。

「ああ……」
「やめ……」

 重なりあった俺とドロシーの喘ぎ。二人をまとめて貫いた剣は、刺したままで横に薙がれる。

「な、なんで?」
「青龍よ怯えるな。異形となり、私と永遠を過ごそう。立ち去るぞ」
「きゃっ、たくみ君助けて! たくみ君!」

「……ニョロ子追え」
 化けていた白虎を追え。夏奈を追え。俺は消えそうな意識のなかで命ずる。

 内臓が切れぎれになった。こんな大怪我を化け物でなきゃ治せるはずない。くそ白虎の肉球じゃないと……。

「て、哲人さん……」
 真っ青なドロシーが俺の上で体を引きずる。切れ長なアーモンドアイ。ちょっとだけぷっくりした唇から血が垂れている。
「あなたのこと大嫌いになれないから、癒しを与える」

 薄れていく俺の魂。でも彼女の唇が俺と重なる。彼女の血が俺の口に流れるとともに、妖術みたいな尊いみたいな力が、俺のなかへと流れてくる。
 ドロシーが唇を離す。九月の朝の青い空へ手が届きそうな地で、至近で微笑んでくれる。

「へへ、哲人さんの力が私に流れてきた。だから私も死なな……」
 俺へと倒れこむ。

 折坂さんが俺達を見下ろしている。その手にはまだ刀があった。俺達へと掲げる。木札がいまさら発動する。
 俺は気を失ったドロシーをしっかりと抱く。

「ドロシーを殺したら俺が怒る」
 大和獣人へと告げる。「死んでも生き返る。そして影添大社を滅ぼす」

 こいつこそ俺の言葉に怒りを浮かばせたけど、ふいに剣をおろし振りかえる。

「何があったのですか?」
 大蔵司が息を切らさずに非常階段を駆け上がってきた。

「手負いの虎がおかしくなった。ここにまで現れて桜井をさらった。松本達をまた仕留め損したがな」
 折坂が感情もなく告げる。
「桃子が冥界に送られたようだ。大蔵司なら連れ戻せるだろ?」

「それよりも桜井を救うのがさき……二人を救うのがさきですよ!」
 大蔵司が俺達のもとへ転がるように来る。ドロシーへと手をかざす。

「松本はともかく、そいつの命まで救うのか?」
「当たり前っすよ!」
 大蔵司が折坂をにらむように見あげる。

「……ならば横根を呼ぶべきだな。それであの子の罰を完了にしてやる」
 折坂が階段へと歩きだす。その手の日本刀が消える。
「私は宮司――もう隠す必要なかったな。禰宜を守りに向かう。桃子は貸さないが、怪鳥を使いたければ使え」

 折坂は立ち去った。残ったままなのは青い空。今夜満月を迎える空。
 俺はショックから回復する。痛みはない。
 大蔵司は真剣な表情でドロシーの背中をさすっている。

「松本は彼女から手を離せ。裏返してあげて」

 言われてドロシーを横たえる。彼女のシャツは真っ赤。蒼白な顔。かすかな息。だけど生きている。
 俺も生きている。傷を負ったのが嘘みたいに回復している。シャツが腹部で横に裂かれて血まみれだけど、身体はドロシーのおかげで復活している。
 白虎への怒りで震えられるほどに。

「こんなにかわいい顔なのに……。彼女のおなかの傷は完治した。でも私の力だと傷を消すだけ」
 大蔵司が手を戻す。その手にスマホが現れる。「……はやく出ろよ」
 耳に当てて舌打ちしたあとに、
「彼女の血は回復しない。早くしないと内臓が機能不全を起こす。私のは輸血を禁止されたけど、彼女の血液型は?」

 ……俺は知らない。ドロシーの血液型も誕生日もアドレスも電話番号も好きな食べ物も嫌いな食べ物も何も知らない。戦いのなかで出会ったばかりの、いまから始まりの二人。

「夏奈はB型だ」
 それならば知っている。「だから、おそらくドロシーもB型」

「あっ瑞希? でるの遅いよ。罰として記憶なくしてもデートに誘うからね……ウンヒョクさんを連れてすぐに屋上へ来て。そんでドロシーを医務室に連れていって。私と松本はいなくなるから、すぐにだからね」
 大蔵司が電話を一方的に切って、俺へと目を向ける。
「土日でも防衛医大出身の医師がいる。意識が戻ったら彼女本人の口から血液型を聞く。松本の根拠なきに従わない」

 大蔵司は立ちあがる。紺色のスニーカー。茶髪のショートヘア。ドロシーの血が付着した水色のTシャツと白色のチノパン。
 彼女は屋上の中心まで歩み、再びしゃがむ。その手をコンクリートにつける。

「死んだわけでないなら、ここからでも呼べるはず。……戻っておいで。戦うよ」

 地面に黒いホールが漂うように現れる。……そういえば六魄の気配がずっとない。俺とドロシーは相変わらず死に好まれているのに。

「ほほほ、京様、ありがとうございます」
 ホールを押し広げるように桃子が現れた。
「失態続きの私はそろそろ引退して、この子に任せましょうかしら」

「コケコッコー」
 ついでヅゥネも羽根をひろげて現れる。二本脚で着地して、ぼおっとしだす。

「ウンヒョクが報酬を受け取らないのを引き換えにして、麻卦さんに頼みこんだ。なので、こいつは当社の式神になった。新しい名前は鶏子(けいこ)

 とさかがあってコケコッコー鳴くのに雌鶏だったのか。それどころではない。大蔵司が周婆さんみたいなことをたやすくやったこともだ。
 いまから俺は大蔵司とともに白虎を追う。彼女は当然のように横根へそう告げた。いまの俺はただの人だ。でも人が手にする護符がある。なにより暴雪への怒りが体内に充満している。

「ドロシーありがとう。これを最後に二度と離れない。嘘じゃないよ」
 彼女の髪をさすり、膝に乗せていた頭をおろす。リュックサックを枕にさせる。

「哲人さん……」
 ドロシーが目を開けぬまま心の声を発する。
「置いてかないで。お願い、一緒にいて」

「血液型は?」
「……私の? 風船(Balloon)のB。哲人さんは?」
怒り(Anger)のA型。すぐに戻ってくるから。そしたら離れない」
「私は哲人さんの誕生日も何も知らない。ようやくひとつ知った。へへ……」
「いまからお互いの全部を知るよ。それこそ全部だ」

 ドロシーは口元に笑みを浮かべる。
 俺は立ち上がる。すでに歩きだしている大蔵司京を追う。

「まずは鶏子を封印する」
 彼女は並んだ俺へと言う。

「アフリカツインか? 思玲の車もある」
 空飛ぶバイクか大型四駆。なんだっていい。

「あれは二人乗り。思玲のは左ハンドルだろ。運転したことない(関係あるのか?)。宮司のコレクションに、WWⅡのドイツ軍のR75がある。サイドカーには機銃がついたまま」

 空飛ぶ軍用バイクかよ。願ってもない。

「暴雪……」
 本物のイウンヒョクがやってきた。怒りを堪えられない瞳で分かる。
「今度こそ奴を狩る。俺も参加させろ」

「俺は二人を守れなかったくせに自分だけ復活した。俺がすることは、夏奈を無傷で連れ戻すことだけ。白虎を倒すのはウンヒョクさんに任せる」
 彼の目を見ながら言う。
「いまはドロシーをお願いします」

「そういうこと。BMWのR75は三人乗れるから、私と松本で行って桜井を乗せて帰ってくる。――すぐ下の階が宮司のコレクションルーム。管理を私に任せて、火事を起こしてやれと麻卦さんに言われる程度のフロア」
 大蔵司が非常階段へ向かい、イウンヒョクとすれ違う。

「ま、松本君!」
 横根が真っ赤な顔で息を切らしながら登ってきた。

「夏奈が白虎に捕まったけど、俺が取り戻すから心配しないで。ドロシーは死にかけたけど大蔵司に助けられた。彼女を横根にも任せる」

「……え? も、もちろんだけど……」

 横根の言いたいことは分かる。でも彼女ともそれ以上言葉を交わさずにすれ違う。
 いまだけは夏奈のために動く。夏奈は藤川匠に助けを求めたとしても。

「哲人待てよ。暴雪はなんのために桜井を連れていったんだ?」
 イウンヒョクの日本語が背後でした。
「藤川匠に寝返ったのかもしれない。なので頭がいかれた」

 俺は振り向いてしまう。イウンヒョクはドロシーを軽々と抱え上げていた。

「桜井夏奈が素敵だから自分のものにしたかった。だから頭がおかしくなった」

 つまりこれは女の奪い合いだ。夏奈の争奪戦だ。
 返事も聞かず俺はまた顔を戻す。歩き続ける大蔵司を追う。
 いまだけはドロシーを他の人に委ねる。いままでずっと一番に大事だった人を救うために。藤川匠でなく俺が救う。
 ヅゥネ違った鶏子がおとなしく俺のあとに続く。

 七階の大きなシャッターの前で大蔵司が神楽鈴を鳴らす。シャッターが上がり、広大なフロアに陽が差し込んだ。……個々の名称が分かるはずないけど、クラシック乗り物の実物コレクションか。複葉機まである。
 すぐ手前に、それらしき緑色のレトロなサイドカー付きバイクがあった。

「前々から目をつけていたから移動させておいた。他のだと空中分解するかもだから。鶏子はそれに乗って。……サイドカーじゃない。バイクにだ。ハンドルを羽根で持とうとしなくていい。……バイクが潰れるまえに」
 大蔵司が神楽鈴を両手で横に持つ。
「御霊なきものに心を差し込めよ。体なきものに肉を差し入れよ。さすれば我に従え。闇照らすことなく影に添え。我とともに陰と化せ!」

Kikeriki(キッキリッキー)!』

 無線機から流れる鶏子の(とき)の発音が微妙に変わり、ナチス軍用バイクが紫色と化す。




次回「原生の深山」
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