三十三の一 離れないよ、絶対に

文字数 2,772文字

3.5-tune


 横根はまだ俺達の記憶が残ったままだ。結んだ髪もほどけたままで、彼女は川田の目に珊瑚をかざして祈る。でも傷は治らない。

「瑞希ちゃん、ありがとう。人に戻れば治るから大丈夫だよ」

 川田は言ったあとに、声が届かないことに気づく。俺は別のことにも気づく。おそらく川田は傷を受けいれていると。おのれへのいましめのために。
 だから手負いの獣などと呼ばれる羽目になったのだ。二十歳のくせに頑固親父と呼ばれる由縁だ。

 川田は横根の手をなめて尾を向ける。つたない意思表示が彼女に伝わる。横根は珊瑚の玉から手を離し、スマホを取りだす。

「お母さん? 瑞希だけど」
 電話に向かい泣きだす。悪夢の記憶を残し家族の声を聞けば当然だ。
「うん、心配かけてごめん。うん、……でも、まだ帰れないんだ。なぜって、サークルの男の子で、松本君や川田君のことを話したよね。……やっぱり知らないんだ。うん。うん。私は一人だけど一人じゃないから心配しないで。……ううん、帰らないよ、絶対に。いったん切るからね」
 電話を終えて子犬に話しかける。
「あなたおかしいって言われっちゃった。でも、今の私はさっきと違うのだから仕方ないよね。川田君、夏奈ちゃん、和戸君。そして松本君。みんなを思いだした私」
 立ちあがり、ワンピースの土埃をはらう。
「それと思玲。彼女は今どこなの? 怪我していたよね? 助けにいかなきゃ」

 さすが横根。そう来たか。しかし飛びおりかけた記憶だってあるのだろ?

「駄目駄目。家に帰りな! 瑞希ちゃんは狙われているって」
 ドーンが横根の前でホバリングし、ガーガーとわめく。

「和戸君、やっぱり飛べたね。もしかして心配してくれているの?」
 人がカラスに微笑みかける。
「もう操られたりしないよ、絶対に。……さっきの人が劉師傅だよね。すごく強くてやさしかった。あの人も思玲のところにいるの?」

 それを聞いて、俺は彼女の顔の前に浮かびあがる。
「師傅は傷ついている。俺達だけでは、あいつからお前を守れない」

 心をこめて声をだす。俺の存在に気づいてもくれない。そりゃ服の中に入れれば心がつながるけど、川田が怒りそうだ。ドーンがやっかみそうだ。切り札にとっておこう。

「俺がまた操られたらどうするんだよ。俺はすごくつらかったんだよ」
 川田が彼女の足もとで真摯に吠える。

「ここは屋上だよね? 川田君は階段降りるの下手だったものね。小さくなったら、なおさら大変だよね」
 子犬の鳴き声しか聞こえない横根が子犬をやさしく抱きあげる。

「……あれだな。俺がここで守ればいいんだ」
 彼女の胸もとで、川田がたやすく寝返りやがる。

「和戸君、下で待っていてよ。どこに行けばいいか教えてね」
 横根はカバンを拾いあげて階段を降りていく。

 俺とドーンが残される。カラスが俺の頭を止まり木にする。

「どうやって説得するんだよ」

 頭上でドーンがうんざりと言う。俺はまた考える……。

 横根は師傅や思玲と合流すれば安全だろうけど危険も増す。でも横根を(誰かが)自宅まで見守ったとして、あいつに執拗に追われるよりは……。いや、師傅はあいつの扇は傷ついたと言った。憶測だけど、あの邪悪な黒い光はだせないとしよう。だったら魔道士達と合流するより自宅に帰るのがリスクは少なそうだ。
 いやいや、峻計がすでに横根の家を知っていたら(あいつは傀儡の心を読む)、寝ている横根などたやすく殺される。桜井によって掘りおこされた記憶が消えれば、無防備に傀儡になるかも。だったら彼女を道士達にゆだねるべきかもしれない。
 非道なことを思いつく。四神の儀式だかをするには、彼女の命を消さないとならない。それならば彼女を手もとにあいつをおびきよせ、四玉を奪いかえす……。仲間の命をさらそうと思うな。だとしても、思玲や師傅に会いたいと純粋に本人が望むわけだし、それが最善かもしれない。

「四人で思玲と合流しよう。人である横根が、俺達の助けになるかもしれないし」
 俺は人でなしだから、そんなことばかりに頭がまわる。

「カッ。俺が記憶のあるまま人に戻ったら、這いつくばってでも家に帰るけどな。みんなには悪いけど、こんなところに戻ってこねーよ」
 ドーンが羽根をひろげる。
「まあいいや。邪魔にでかい狼がいなくなっただけでもよしとしよ」

 カラスが夜空へ飛びたち、階下に消える。俺もふわりと浮かびあがり、ドーンを追いかける。

 ***

 駅前の時計は十一時近くだったと、目ざといドーンが言っていた。師傅が去ってから長い時間、二人が目覚めるのを待っていた。人の時間の流れはせっかちだ。
 商店街は閉店した店舗が目立つ。営業しているのは居酒屋とコンビニ、思玲と行ったディスカウントストアぐらいだ。人通りが少ない歩道を、横根は大きなカバンを肩にかけて子犬を抱えて歩く。彼女に麦わら帽子がないことに気づく。
 桜井の気配はまだ伝わらない。近くにはいないのか、それとも……。どっちにしても急がないと。俺達のそばにいてくれる、人である横根を守りながら。

「きっとみんなと一緒にいるかぎり、記憶は残ったままだと思うんだ」
 横根が独り言のように言う。「だから離れちゃ駄目なんだよ、絶対に」

 師傅は、彼女の記憶は徐々に薄れると推測した。横根とどっちが正しいかなんて、さほど重要ではない。……しかし流範に傷を負った記憶とかも残っているはずなのに、横根はなんでこんなに強いんだ? 俺が同じ立場でどうするか自信はない。

「瑞希ちゃんがそう言うのならば、きっとそのとおりだよ。疲れたら降りるよ。どうせ聞こえないけど」

 横根に抱かれながら黒い子犬が言う。
 俺とドーンが戦っているあいだ寝ていたくせに、でれでれしやがって。

「自分から降りろよ。ちゃんとしつけはできているだろうな。そこで粗相をするなよ」

 ドーンの声が電線からする。こいつは横根を引きこんだことに納得しないけど、ガーガーと声もだす。ここにいるよと横根に伝える。彼女が上を向くと再び羽根をひろげる。母校へと導く。

「七実ちゃんにばらすぞ」俺も川田に言ってやる。

「……二週間ぐらい連絡とってないから、話のきっかけになるかもな。だが、やっぱり自分の足で歩くか」
 川田は横根の手から飛びおりようとする。

「駄目だよ、一緒にいてよ」
 横根はさらに強く子犬を抱きよせる。「松本君は、もっと下に降りてよ」

 彼女が護符を見上げて言う。俺がいることを知らせるために、木札を服からだしてある。

「人の明かりが苦手なんだよ」
 俺は伝わらない声をかけながら、木札を横に振る。横根が笑う。

「なんだか違和感がなさすぎて、自分で作った空想の世界にいるみたい。絶対に、みんなはみんななんだよね?」

 横根の不安げな問いに、木札を縦に強く振る。横根がさみしげにまた笑う。




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