二十九の一 乙女の祈り、乙女の逆鱗

文字数 3,692文字

 狼は怒り吠えながら結界に飛びこみ、そしてはじき返される。それをただくり返す。
 今のこいつは川田ではない。横根を襲う意思だけの傀儡の化け物だ。その顔をまた服で……、狼に川田の意思が戻っても結界は破れない。横根が先だ。

 俺は上空へと向かう。フェンスに囲まれただだ広い屋上に、峻計と横根と鬼が見える。横根は金網ごしにひろがる暗闇を見つめていた。峻計は黒羽扇を手にうんざりとした顔を俺に向ける。
 あいつが両手をかかげて体を一周させる。俺はひろがりだした結界に押し返される。空中で助走をつけて肩から飛びこみ、またはね返される。

「グハヒハハ。さすがは峻計さん、見ただけで覚えたな」

 闇に戻れた鬼が高笑いしていやがる。ふと忌々しい考えが浮かんだ。横根の前にひろがる空は、囲われていない。
 俺は上空をまわりこみ、ビルの外に浮かぶ。眼下に夜景がひろがる。旋回する。横根の見つめる闇に、やはり結界はなかった。フェンスを越えて彼女の背後に降りたつ。あいつをにらむ。

「しつこい。興ざめだ」

 黒い光が飛んでくる。予想していた俺は上へと逃れる。立て続けにまた飛んでくる。今度は右に避ける。次の光は――、三発目の黒い光はひときわ大きいが、見当違いの方向に飛んでいく。
 違う。横根の前のフェンスが壊される。彼女と空との境に道が作られた。

「横根瑞希。はやく飛びおりな」

 横根が縁へと歩きだす。鬼が卑しく喝采する。非常口の狼は吠え続けている。
 俺は横根へと突進する。か弱い妖怪が人を押し倒す。あいつが扇をかざす気配を感じて、また浮かびあがる。

「お前をみくびっていたよ」

 あいつが横根へと黒羽扇を振るう。俺は転がったままの横根へと飛びこむ。彼女をかばった俺へと、黒い光がズドンと

 背中から全身へと激痛が突き抜けた。のけぞった背骨が折れそうだ。悲鳴をあげた顎がはずれそうだ。目玉が飛びだしそうだ。心臓が破裂する……。

 横根が俺を羽毛布団のようにはがして立ちあがる。また屋上の縁へと向かう。俺は動けない。横根だけでも助けろと、俺の妖怪としての力がうごぐえっ…………、光を受けた背中を踏まれた。

「そこまで生にしがみつくとは、たいしたものだね。娘が落ちるのを見せてから、とどめをさしてやる」

 あいつの声が真上から聞こえる。あのヒールで傷口をぐりぐりされる。
 それでも俺はまだあきらめない。うつぶせに横たわったまま木札を探す。草鈴が手に当たる。それを口にあてる。

チリ、チ……ウゲ

 言葉をこめる間もなく、顎ごと蹴られる。草鈴が飛ばされる。
 あいつが俺をまたぐ。草鈴を踏みしだくその先に、縁に立った横根が見える。横根が空へと体を傾ける。
 とてつもない気配を感じた。

「横根、ちゃん!」

 桜井の叫び声とともに横根が飛んでくる。俺ははじき飛ばされてバウンドする。彼女も屋上にまた転がる。

「人に戻ってなにやってるの……。松本君? そこにいるの松本君でしょ。ヤバいよ。消えないで!」

 コザクラインコが騒いでいる。消滅間際の俺を見て、桜井の気配が炸裂している。

「そこのカラス。松本君を戻せ。さもないとお前を消してやる」

 龍の逆鱗に触れたな。俺の怒りなんてかわいいものだった。横根がまたうごめく。足どめしたいが、俺はもはや立ちあがれない。目がかすんでよく見えない。

「お前が青龍になるべき娘か。さすがの気だな。お前の頼みならば、なんでも聞いてやる。だから、こっちに来てくれ」

「桜井、行くな。また傀儡に……」俺は声を振り絞る。

「貴様は溶けだした身で、まだもしがみつくか」

 峻計が俺の後頭部を踏む。深く突き刺さる。
 あいつの黒羽扇を感じた。同時にあいつの気配が遠ざかる。

「ま、松本君に……。死ぬほど許せない」

 あんな小鳥があいつをはじき飛ばしたのかよ。やっぱり青龍はすごいな。でも、もう無理だ。俺が最初に消える。
 あおむけになり夜空を見上げる。
 ……スイカみたいな半月だ。違う。前夜だから半月もどき。俺達と同じ……





「ナ、ナンダッタノ」


 どこかで横根の声がする。

「ナンデ、ワタシ自殺ナンテシヨウト……」

 彼女は怯えている。桜井の雄叫びが傀儡の術が解いた。よかった。なのに目がかすんできた――

「思玲さんの珊瑚だよ! 松本君を助けて! 助けろ!!!」

 空がどよめくほどの叫び。俺の意識は無理やり戻される。真なる青龍の咆哮。もう楽になりたいのに目が開く。

「マツモトクン?」
 横根はすぐそこにいた。「オボエテイル……、思いだしたよ!」

「桜井! 結界を破れ」
 狼も吠える。川田の術さえも解けた。
「松本は寝ているな。人間は引き返したぞ。誰も瑞希ちゃんを助けに来ない。なんとかしろ!」

 こんな身に命令するなよ。でも……、そうだよ、俺こそあがけよ。

「なんだよ、その恥ずかしいウチワはダセー」
 桜井が騒いでいる。
「瑞希ちゃんに当てる気なら、次は外までつき落としてやる……。ははは、そんな小さい刀からだしたって、かゆいだけだし。瑞希ちゃん、はやくしなって! 松本君が消えちゃうよ!」

 もしかしたら桜井はあいつを圧倒しているのかよ。

「これは夏奈ちゃんの声……。私を助けてくれたのが思玲。なんでみんな忘れちゃったんだろう」
 横根がつぶやく。
「あそこで吠えているのが川田君かな。なにを言っているのか分からないけど……。松本君、声をだしてよ。私はもう猫じゃないから見つけられない!」

 俺は声などだせない。だしたところで彼女の耳に届かない。

「夏奈ちゃん、教えてよ!」
「ここ!」

 桜井の声とともに、横根が俺にのしかかる。

「いたた……。夏奈ちゃん強引だよ。――松本君、ここにいるの? 返事もできないほどなの?」

 横根は俺を見つめているけど、俺は見えていない。俺は珊瑚の力を感じる。この玉は眠っているのに、なおも俺を消さぬとしている。

「黄玉! 立ったまま寝ているのかい。その娘を外へ投げな」
「俺なんかが青龍さんに逆らえるわけないだろ。あんたがやればいい」

 直後に鬼が悲鳴をあげる。またあいつが仕打ちを与えたのだろう。空気がよどむ。

「えーと、我に護るべき者多し。故に……、いにしえの海神(わだつみ)に祈りを捧げ奉る、だっけ? 思玲が何度もしてくれたから覚えているけど……。自分の言葉のがいいよね、絶対に」
 吐息を感じる距離で、横根がつたなくつぶやきだす。
「行くよ! ……私には守りたい人がたくさんいます。だから太古の海の神様にお願いいたします。この宝珠に眠った力を、私の愛する人達にどうかお与えください」

 横根の胸もとから垂れた海神の玉が光る。俺のまわりが清浄な空気に満たされていく。

「川田君、ごめん。結界は破れないや。力だけじゃ無理かも」
 桜井が叫んでいる。

「くそっ。俺はまた見ているだけかよ」
 川田がぼやく。こっちになんか来なくていいのに。

 横根があの眼差しで見えない俺を覗きこむ。
「松本君も玉を握って。見える? ここにあるよ」

 俺は目の前に浮かんだ赤い珊瑚へと手を伸ばす――、ぐえっ、俺はとどめを刺される。
 ……違う。脈が裂けるほどに、清廉な魂が飛びこんできた。祈りが体中を駆けめぐる。体中の痛みも穢れも霧散する。木札の存在感さえ、ずしりと復活する。
 救われた身であろうと、こいつは……。それどころじゃない。

「ありがとう」

 俺は横根をどかして立ちあがろうとする。でも祈りに満ちた彼女のがずっと強い。のしかかっていることに気づきもせず、まだ俺へと祈りを捧げている。
 もう充分だって。申しわけないけど彼女を包みこむ。

 ***

「ありがとう。元気になれた」
 目の前できょとんと立つ横根に声をかける。
「ちょっとだけずれて。……重いって意味じゃないよ」

 横根があわてて体を手で覆う。顔を真っ赤にして俺を見上げる。なにか言いたげだけど、彼女を脇にどかす。

「みんなすぐに戻るから。待っていてね」それだけ伝える。

「ち、ちょっと待ってよ。……松本君待って」呼びとめられる。
「私、今のことを忘れちゃうかも。松本君のこともまた忘れるかも。だから伝えておかないと」

 俺は振り返る。彼女は俺をまっすぐに見上げていた。

「私が猫だったとき、大怪我をして苦しんでいたとき、松本君が抱えてくれたよね。すぐそばで護符がつぶやいていた。お札は何十回も言っていた。
娘よ、私が哲人を護るわけを聞いて過ごせ。あの若造はな、八十八代目の氏子総代になるべき男であり、大峠の山の神がお気に入りの早苗(俺の祖母の名前だ)の初孫であり、そもそも祠に幾度となく訪ねてくれた若人だからだ。見てのとおりに七難八苦を与えられたから、それから護らないとならない。お前も守ってくれ。哲人もお前を守るに決まっておる。
ずっと言っていたよ。もうすこし伝えたいことはあるけど、とりあえず……」

 大峠は母の実家の町。そして……。

「教えてくれてありがとう」

 もしかして俺も差し向けられたのか。七難八苦のために。

「お札もよかったね」横根が小さく笑う。「みんなでまた会おうね」

 見上げる瞳に笑みを返し、背を向ける。座敷わらしが人の女から這いずりだす。




次回「座敷わらしとコザクラインコ」
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