四の一 日帰り香港でした

文字数 4,409文字

4.92-tune


 思玲の黒髪をなびかせながら、フェリーは十分ほどで対岸の紅磡という町に着く。またユーラシア大陸に戻ってきたらしいが、地球上のどのあたりにいるかよく分からない。すぐに立ち去るみたいだし。

「でかい異形がいたら歩くしかないな」

 麻卦さんが雅を見ながら言う。
 この一帯は香港島よりごみごみしていないけど、俺は異形の中でも絶滅危惧種だ。異境の昼間の町を歩きたくない。

「私は車を追いかける」

 雅が言ってくれたので、三人はタクシーに乗れた。思玲が行き先を運転手に告げる。台湾語はほぼ中国語(北京語)で、香港では普通に通用するようだ。

「魄は?」

 助手席の思玲が、振り向かずに異界の声で麻卦さんに尋ねる。運転手がやり取りに気づくはずない。

「はあ?」
「あなたの式神ではないのか? 付いてきているぞ」
「……連れてきてないし、俺には分からん。香港の隠密なら処分してくれ」
「すみません。俺が懐かれてしまいました」

 事情を二人に説明する。

「邪魔にならぬ限りは哲人が連れ歩けばいい」
 思玲は十八歳前後の姿になろうが寛大というか適当だ。
「眼鏡を日本で作るのに、川田のカードは使えないままか?」

「そもそも二度と使わない。横根が十万円ぐらい貯金している。それが当面の資金」
 彼女にはいずれ必ず返すけど、誰の記憶に残らなければ泣いてもらうしかない。

「契約するならば龍退治の前金を払ってやるよ。女の子二人の宿泊費をサービスの上にな」
 麻卦さんが言う。「なので日暮里に直行する。眼鏡屋があった気がするし、魄も引き取ってやる」

 日暮里駅から南東へひたすら歩けば、荒川区と足立区の境である隅田川にたどり着く。そのはるか手前に影添大社はある。ちなみに荒川区は荒川と接してないが、そんなことはどうでもいい。
 影添大社に行ったところで夏奈にも横根にも俺は見えない。だけど告刀。それを授かる可能性のためにも断りなどしない。一人ずつでも本来の姿に戻らないとならない。夏奈を老化などさせない。
 過大評価されたままの俺と思玲も心配だ。俺達だけだと、たぶん龍もその主も倒せない。影添大社期待の大蔵司だって、法董に歯が立たなかったし。あの破戒僧より今後の敵は強いだろう。

 ***

「ニーハオ。私が深圳の責任者である閭です。パーシーと呼んでください。ここから深圳までは電車であっという間です」

 大きなターミナルの片隅で、黒髪のままのノーメイクで小柄な眼鏡の女性に人の言葉(北京語)で挨拶された。露泥無の女の子バージョンがそばかすの肉づきよい三十路になったイメージ。

「心の声は?」
「ここは国境でした。そんな場所で黙って見つめ合うのは避けるべきです」

 麻卦さんの質問に閭さんがにこやかに答える。嫌味のない笑顔で俺にも会釈してくれた。

「王さんには偽造パスポートを用意してあります。麻卦氏も偽物でイミグレーションをしてください。陸路での入国審査はそこまで厳しくありません。だそうです」

 見えない俺が麻卦さんへ通訳する(思玲だと端折るから)。ボディガードだけじゃない有能さ。

「俺のはもともと偽造品だからそれを使うが、飛行機もか? お宅の国のセキュリティは別格だろ? だそうです。
……。
……松本哲人さんですね。あなたはすでに中国でも有名人ですよ、だそうです。……空港には行きません。日本へは式神を使います。友好関係にある上海から殲を借ります。だそうですけど」

 それはない。上海不夜会と関わらない。魔道団と今しがた話をつけたばかりだ。

「そりゃそりゃ、すごいセッティングだ。広州さんは全魔道士と仲良しだものな。そう伝えてくれ」
 麻卦さんは図太い。気にもしてないじゃないか。

「心の言葉にチェンジしてください」
 さすがに面倒になってきた。

「君は図太いな。――パーシーちゃん、セッティングありがとうね。広州さんは全魔道士と仲良しだ」
「そうでもないです。思玲さんへの悪意はないですけど、妖術士達が巣食った島とは疎遠でした。なので人の声を私だけでも続けます。だそうです」

「あんたの仲間が来たのは覚えているぞ。スマホがないのを笑われた」
 背高い思玲が閭さんを見下ろす。「馬鹿にされた意味を知った。私も欲しい。中古でいくらだ?」

 あの危険なスマホをご所望なのか。それよりも、
「思玲ちょっと待って。パーシーさん、殲って翼竜ですよね?」
 結界を覆いマッハ2.2で飛ぶモンスターだ。俺はすでに乗っている。人の作りし飛行機よりは(俺には)快適だ。だけどつまり「沈大姐がいるのですか?」

「あの方は来られません」
 思玲に曖昧な笑みを向けていた閭さんが答える。
「代わりにデニーが来ています。彼は大姐の信任が厚いので、あの方の式神を借りられるのです。そう伝えてください」

「デニーって人が翼竜で送ってくれるみたいです……」

「……広州さん、それは駄目だよ、勘弁してくれよ」
 鉄面皮の麻卦さんが落ち着かなくなるけど……。

「私達に任せると言われましたよね? あそこが関わると南京の寺院はおとなしくなります。そのためです」
 閭さんが答えるけど……。

「取引は最初からなかったのですね」
 俺は二人へと言う。香港魔道団から滅邪の輪の片割れと死者の書を受け取るだけが目的だった。
「俺と思玲を助けたのは、そのための偽装だったのですね?」

「それだけじゃないけどな」
 麻卦さんが含み笑いする。

「哲人は屁理屈を始めるつもりじゃないだろな?」
 思玲に睨まれる。きつい眼差しだろうと黒目がちな瞳。

「確認しただけですよ」
 なんであれ、俺達のためにも動いてくれたのは事実だ。とやかく言う必要はない。

「南京の方々は深圳に今夜遅くに到着予定です。そちらは私達に任せてください。東莞に案内すれば満足してくれるでしょう」
 閭さんが何もなかったように心の声を飛ばすので通訳する。

「俺も行きたいな」執務室長がまた笑う。

「香港の男性もわざわざ来ますからね。ではイミグレーションを済ませましょう。松本さんと狼も同行してください……だそうです」

 *

 構内は混雑していた。数人が雅の尻尾にぶつかりよろめいたり転んだり――俺にぶつかった子どもが弾き飛んだ!
 思玲がナイスキャッチしてくれたけど、気づけば夜になっていた。

「雅は哲人と一緒に潜んでいろ」
「御意」

 俺達はトイレに閉じこもる。ずっと用を足してないから久しぶりの空間。食事をしてないから当然だが、脱げない衣服で便意が訪れたらどうすればいいだろう。しかし巨大な狼とだと窮屈すぎる。

「電車に乗るのは耐え難い。お前も一緒ならば、後を追うのを主が認めるかもしれない」
 美しい狼が二本脚で壁に貼りつきながら言う。立った姿勢だと俺よりでかい。

「無理だよ。車内の端で小さくしていよう」
 やはり壁に貼りついた俺が言う。

 この狼なら時速100キロメートル以上で走れるのかもしれないけど、対向車両に衝突したら大惨事になってしまう。すでに異形の時間だ。

 *

 待ち時間もなく電車の指定席が予約されていた。執務室長の予測通りに動いているみたいで、何故だがひんやりした。さすがは、日本の裏の祭事や異形退治を任されてきた影添大社を取り仕切る人だけはある。
 ホームへのドアが開き人々が押し合いながら入場する。俺と雅は騒動が落ち着いてから向かう。始発駅だった。

「席が四人とも接するよう便宜させました」

 閭さんが笑う。本来は日本みたいに座席を選択できないみたいだ。というより俺の席もあるのか。

「私だけならば外へ向かいます」

 雅は電車の屋根に登るらしい。俺は窓側に座り、隣に執務室長が座る。もうアルコールは飲まないようだ。じきに発車した。
 後ろの席に思玲と閭さんがいる。二人は異形の言葉で会話している。思玲がディスカウントと大声で言うので覗いたら、閭さんがタブレットの画面を見せていた。異形専用スマホの電子カタログだろう。

「このルートで中国に入るのは初めてだ。すべてが変わっていく」
 麻卦執務室長が心の言葉でぽつり言う。景色は暗くてよく分からない。二十一時ぐらいだろう。

「ドロシーと連絡とれないですよね」

 帰り際に挨拶できなかった。異形のままでまた来ると約束したけど、正直に言って、いまの姿で香港を再訪したくない。こりごりだ。

「閭がビジネスがらみで知っているだろ。メッセージを代筆してもらえ」

 ドロシーは(琥珀を閉じこめた)クラウドサービスだかをやっていたよな。代理店も名乗っていた。電話でのやり取りが彼女との最初の接触だった。希望なき階段を登りながら、スタンドバイミーの保留音……。劉師傅を思いだす。屋上での死闘も。

「連絡しないのか? 二度と会えないかもしれないぞ」
「それでもいいです」

 あの時よりもさらに激しい戦いが待ちかまえているだろう。またも助けてくれる誰かが犠牲になるかもしれない。それがドロシーだったら……。
 彼女とはあんな終わり方で良かったかもしれない。人の世界に戻す約束は守ってあげたいけど、そもそも俺にできるのだろうか。
 劉師傅、アンディ、フサフサ……。助けてくれた人(フサフサだって猫であり人だ!)を犠牲に生き延びた妖怪くずれなんかに。

「ありがとう」
 心の中で香港へ声かける。「ごめんね」

 忌むべきストーリーからまず一人退場してもらう。でも人間として、いつか彼女と会ってやる。覚えていたならば。

 ***

 深圳駅は香港に輪をかけて、か弱い異形にキツイ場所だ。広かろうが閉ざされた空間。人だらけ。明かりだらけ。吐き気と頭痛がしてきた。はやく脱出したい。顔色を変えない雅も舌を垂らしたりする。

「香港日本台湾は、魔道士に融通していますよね? でもこの国の政府は上海不夜会だけに便宜を与えます。なので私も入国審査をしないとなりません。国を守るためですから当然ですけどね」
 閭さんが言う。

「俺と雅は外で待っている」
 これは譲れない。さもないと体が薄らぐ。

「その必要ない」
 背後から中国語がもとである心の言葉をかけられる。

 みなが振り返る。駅構内でちょろちょろ見かける警察的な制服の男がいた。180センチ近い背丈でしなやかな体躯。制帽の下から覗くのは涼しげな色男の面。若く見えて、おそらく三十代半ば。

「デニーひさしぶりだな」
 麻卦執務室長が苦々しそうに言う。「特別待遇させてくれるのか?」

「私と一緒ならばそうだ」
 デニーと呼ばれた男が背筋を伸ばして答える。
「党要職専用のルートを案内する。パーシー以外はついてこい」

「谢谢」と閭さんが即座にうなずく。
「沈大姐の参謀さんが来られたので私はここまでですね。……えーと、麻卦さん、追加料金なしです。思玲、全額用意できたら連絡してね。それと、松本さんは人に戻ったら広州に遊びへ来てください。無口できれいな狼さんも元気でね。それでは再見」

 彼女だけがイミグレーションへとそそくさ歩いていく。




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