二十三の二 狼ですら遠ざかる
文字数 1,902文字
「哲人。こいつにも木札を見せてやれ。土着の火伏せ札をな」
思玲が緑松を見おろす。
「鼠程度の脳みそしかないだろうが、貴様に聞きたいことがある。素直に答えるのなら護符の怒りをかわずに済むぞ。私もよいことを教えてやる。流範は死んだ」
俺は邪悪な笑みを浮かばせる思玲のもとへ向かう。……木札はさらにピリピリしている。はやく逃げろと、まだ言っている。
「貴様らは、なにゆえ日本に来た?」思玲が詰問を始める。
「くそ。流範さんを手助けするために決まっているだろ。こんなことなら、老祖師の命令といえども逃げるべきだった」
老祖師……。流範も言っていたな。おそらくは楊偉天の尊称だろう。
「我が師傅は楊偉天と戦われているか?」
「さあね。紅宝 と緑宝 なら知っているかもな。あいつら、サイコロで一番負けて老祖師の盾役をおおせつかった。台湾で劉昇とやる羽目になったからな。グハハ」
師傅を呼び捨てにするなと、思玲が小刀を振る。金色の光が鬼の顔に当たる。鬼は軽くのけぞったあとに、光が当たった頬をぽりぽりと掻く。思玲は質問を続ける。
「十二磈はまだ八匹いたよな。ここに四匹、台湾に二匹。残りの二匹はのたれ死んだか?」
「黄玉 と海藍宝 のことか? グホホホ。まだ生きてはいるけどな」
鬼が笑いだす。
「奴らはサイコロで一番と二番だと喜んでいたら、なんとあいつのお伴だ。負けたほうがまだましだ。グヒヒヒ」
思玲はしばらく黙ったのちに、
「……あいつは鬼を連れてなにをするのだ?」
「知るはずないだろ。俺達は行き先も分からないまま来たのだからな。流範さんがやられたのが相手なんて知らずにだぜ」
あいつとは誰だ? それより尋問が終わったら、思玲はこの鬼をどうするつもりだ? もう護符は使わないからな。
「貴様らに教えたところで意味がないってことか」
思玲が冷やかに笑う。
「最後の質問だ。こいつらを人に戻すのを見たことがあるか? 楊偉天や峻計が話していたとか、術をだしたとか、ちょっとした記憶でいい。教えてくれ」
鬼はぽかんと考えて、思玲の言った意味をようやく理解する。
「知るわけないだろ。俺達は下っ端だぜ」
……この鬼は嘘を言っていない。俺達みたいになにも知らない。
「思いだす努力をしろ」
でも思玲はにらむ。「思いだすには痛みが必要か? 貴様らはなかなか死ねないのだろ? 痛みが長びくぞ」
「思玲、校門方面から人が来るぜ」
ドーンの声が頭上からした。
「学生でない男女が各一人。それとさ、上で聞いていて気分が悪くなるんだけど。空気がよどむって、夏奈ちゃんも嘆いているぜ」
「かまわぬ。この鬼は人の目に見えぬからな」
やはり思玲はドーンの話も半分しか聞いてない。「念のため、哲人は人と鬼のあいだをふさげ。川田はおどかさぬように隠れろ」
命ぜられたとおりに、俺は鬼の背後に移動する。川田は校舎の奥へと去っていく。必要以上にやけに遠くへ……。
鬼にたいする思玲の態度に、俺だって非情を感じてしまう。川田だったらなおさらだろう。でも思玲が正しいと信じているから、尾を垂らし遠ざかるのは、こいつのせめてもの意思表示に違いない。
鬼に背を向けたからか、木札の興奮が極点に達している。人に見えぬように木札を懐にしまう。誰も俺に触らないでくれ。
***
二人連れが現れた。ただの人間だ。女性を先頭に、男性は大きなキャリーバッグを引きずる。
年上の女性の年齢はよく分からないけど、アラサーぐらいだろうか……すごい美人。思玲ぐらい背が高くてスタイルもいい。漆黒の長い髪に、スリットが深く入った赤色のチャイナドレスがエキゾチックだ。
モデルが撮影に来たのかも(この大学はたまに使われる)。思玲と違ってメイクもしているし、正真正銘のクールビューティーだ。
女性と目が合う。
「こんにちは」
人の声でにっこり微笑んでくれた。俺は妖怪のくせにどぎまぎしてしまう。巻きこまないようにしないと――。
俺が見える?
「あなた達にあわせて、わざわざ着替えたわ。胡蝶 の夢 よ。分かる?」
……心へと声を飛ばしてきた。
「為 ……」
背後から思玲のかすれた実声が聞こえる。
「王姐 じゃないの。こんなところで奇遇だね」
女性が思玲へ微笑む。「流範が死んだみたいね。私はあなたの噂を信じないけど、いつまでも縮こまっているのは疲れるわ」
女性が力を抜く。ぞわっとするほどの異形の気配があふれる。
木札が震えだした。
「誰ですか?」
俺は振り向くこともできないまま思玲に尋ねる。
「な、なんで、あいつが現れるんだ」
彼女の声はあきらかに怯えている。
「あいつこそ、飛ばずの峻計。大鴉の最後の一羽。さ、最悪の一羽だ」
次回「漆黒の扇」
思玲が緑松を見おろす。
「鼠程度の脳みそしかないだろうが、貴様に聞きたいことがある。素直に答えるのなら護符の怒りをかわずに済むぞ。私もよいことを教えてやる。流範は死んだ」
俺は邪悪な笑みを浮かばせる思玲のもとへ向かう。……木札はさらにピリピリしている。はやく逃げろと、まだ言っている。
「貴様らは、なにゆえ日本に来た?」思玲が詰問を始める。
「くそ。流範さんを手助けするために決まっているだろ。こんなことなら、老祖師の命令といえども逃げるべきだった」
老祖師……。流範も言っていたな。おそらくは楊偉天の尊称だろう。
「我が師傅は楊偉天と戦われているか?」
「さあね。
師傅を呼び捨てにするなと、思玲が小刀を振る。金色の光が鬼の顔に当たる。鬼は軽くのけぞったあとに、光が当たった頬をぽりぽりと掻く。思玲は質問を続ける。
「十二磈はまだ八匹いたよな。ここに四匹、台湾に二匹。残りの二匹はのたれ死んだか?」
「
鬼が笑いだす。
「奴らはサイコロで一番と二番だと喜んでいたら、なんとあいつのお伴だ。負けたほうがまだましだ。グヒヒヒ」
思玲はしばらく黙ったのちに、
「……あいつは鬼を連れてなにをするのだ?」
「知るはずないだろ。俺達は行き先も分からないまま来たのだからな。流範さんがやられたのが相手なんて知らずにだぜ」
あいつとは誰だ? それより尋問が終わったら、思玲はこの鬼をどうするつもりだ? もう護符は使わないからな。
「貴様らに教えたところで意味がないってことか」
思玲が冷やかに笑う。
「最後の質問だ。こいつらを人に戻すのを見たことがあるか? 楊偉天や峻計が話していたとか、術をだしたとか、ちょっとした記憶でいい。教えてくれ」
鬼はぽかんと考えて、思玲の言った意味をようやく理解する。
「知るわけないだろ。俺達は下っ端だぜ」
……この鬼は嘘を言っていない。俺達みたいになにも知らない。
「思いだす努力をしろ」
でも思玲はにらむ。「思いだすには痛みが必要か? 貴様らはなかなか死ねないのだろ? 痛みが長びくぞ」
「思玲、校門方面から人が来るぜ」
ドーンの声が頭上からした。
「学生でない男女が各一人。それとさ、上で聞いていて気分が悪くなるんだけど。空気がよどむって、夏奈ちゃんも嘆いているぜ」
「かまわぬ。この鬼は人の目に見えぬからな」
やはり思玲はドーンの話も半分しか聞いてない。「念のため、哲人は人と鬼のあいだをふさげ。川田はおどかさぬように隠れろ」
命ぜられたとおりに、俺は鬼の背後に移動する。川田は校舎の奥へと去っていく。必要以上にやけに遠くへ……。
鬼にたいする思玲の態度に、俺だって非情を感じてしまう。川田だったらなおさらだろう。でも思玲が正しいと信じているから、尾を垂らし遠ざかるのは、こいつのせめてもの意思表示に違いない。
鬼に背を向けたからか、木札の興奮が極点に達している。人に見えぬように木札を懐にしまう。誰も俺に触らないでくれ。
***
二人連れが現れた。ただの人間だ。女性を先頭に、男性は大きなキャリーバッグを引きずる。
年上の女性の年齢はよく分からないけど、アラサーぐらいだろうか……すごい美人。思玲ぐらい背が高くてスタイルもいい。漆黒の長い髪に、スリットが深く入った赤色のチャイナドレスがエキゾチックだ。
モデルが撮影に来たのかも(この大学はたまに使われる)。思玲と違ってメイクもしているし、正真正銘のクールビューティーだ。
女性と目が合う。
「こんにちは」
人の声でにっこり微笑んでくれた。俺は妖怪のくせにどぎまぎしてしまう。巻きこまないようにしないと――。
俺が見える?
「あなた達にあわせて、わざわざ着替えたわ。
……心へと声を飛ばしてきた。
「
背後から思玲のかすれた実声が聞こえる。
「
女性が思玲へ微笑む。「流範が死んだみたいね。私はあなたの噂を信じないけど、いつまでも縮こまっているのは疲れるわ」
女性が力を抜く。ぞわっとするほどの異形の気配があふれる。
木札が震えだした。
「誰ですか?」
俺は振り向くこともできないまま思玲に尋ねる。
「な、なんで、あいつが現れるんだ」
彼女の声はあきらかに怯えている。
「あいつこそ、飛ばずの峻計。大鴉の最後の一羽。さ、最悪の一羽だ」
次回「漆黒の扇」