二十二の二 六界のどこか

文字数 3,942文字

――あったらしい朝がきた。きっぼーのあーさーだ

 さえずりと別に、さまざまな鳥達が声をあわせて唄っている。ひんやりとした森の空気。朝の空気。朝の森の匂い。

――よろこっびに羽根をひーろげ、大空飛ぶぞー

 俺はドロシーと抱き合いながら地面に転がっていた。彼女はまだ気を失っている。天宮の護符を握りしめたまま……またもや全裸でないか。俺は服を着ているのに。
 密着し過ぎて彼女の体はよく見えないが、その先に古びた祠が見える。ここは子どもの頃から知っている。つい最近も訪れたばかりだ。その時もドロシーと一緒だった。手をつないで夕闇迫る坂を登って……。
 ここはお天宮さんだ。

 理屈など分からないけど、香港から日本へ瞬間移動した。俺は彼女を抱えたまま腰を上げる……重力を感じる。つまり俺は人に戻っている。
 お天宮の社を見つめる。

「俺を連れ戻してくれたのですね。周婆さんありがとう。早苗お祖母ちゃんありがとう。だけど……」
 お天宮さんをにらむ。「ドロシーを人に戻せ。感謝できるか」

「うっ」
 ドロシーが俺を振り払うように目覚める。周婆さんから授かった衣服を抱えたまま、自分の首を絞めるように抑える。左胸を掻きむしる。地面を転がりながら吐く。
「苦しい、助けて……」

「だ、大丈夫?」

 俺はおそるおそる彼女を抱きなおす。……彼女からも熱を感じる。つまりドロシーも生きている。異形なんかでなく人として。折坂に首を斬られ心臓を突かれたと言っていたのに無傷。
 俺は空を見上げる。雲は多いけどそれでも晴れた朝空。その下の林にご本尊がある。
 早とちりしてごめんなさい。もう一度つぶやく。

「お天宮さんありがとうございます」
「アリガタクナイ!」

 人であるドロシーが俺にしがみつく。

「パパとママはいなかった。私は二人のところに行けないんだ」
 彼女は震えながら広東語で嗚咽しだす。「私は呪われた子だからだ。ひ、人を殺したからだ」
「そんなことはない」

 俺は見上げたままで彼女を強く抱く。どんな言葉だろうと受け入れて、彼女が落ち着くのを待つ。……吐しゃの匂いに混ざり深山の樹液の香りすら感じる。俺は怖いほどに冷静だ。こうなるのが分かっていたかのように現状を受け止められる。

 ドロシーに聞きたいことはこれでもかとある。東京に一刻も早く戻らなければとも思う。でも彼女が立ち直るのが先だ。……異形の状態から復活した俺は、まだあり得るかも。しかしドロシーは人として死んだのに人でない身でよみがえり、致命傷を消して人間として生きかえった。
 確かにそれを望んだけど、この子は化け物? やっぱり龍の弟の生まれ変わり? さまざまを匂わせながら俺にうずくまり泣く人から体を離したくなる。

 廃村での戦いを思いだせ。藤川匠により人に戻された俺の体は、土壁の毒により瀕死で、癒しを授かった。彼女から受けた傷もあったにせよ、ドロシーのキスで回復した。それだってよくよく考えれば怪物の所業だけど、だとしても彼女だけを斯様に思ってはいけない。

「ドロシーが両親に会えなかったのは、まだ死んではいけないから。追い返されたんだよ」

 広東語でそう言って、さらに強く抱いてあげる。
 そもそも俺だって化け物だし。ためしに頬をつねってみる。ほらみろ。新月の廃村で授かった口づけが残ったままの、痛覚なく果てるまで戦える怪物だ。

 *

「私は誰も殺していない。呪われてなんかいるはずない」
 十分以上経過して、ようやく彼女はつぶやく。「哲人さん離れて。体を洗いたい」

 心への忌むべき声だ。俺はなおも聞きとれる。というか、いまもそっちで喋っていたかも。

「俺の目は? 何色?」
「青いよ。お願いだから離れて。自分から人間の汚れた匂いがして気が狂いそう」

 死のうが生き返ろうが、なおも青龍の光が残ったままだ。奴らに奪われなかった……。峻計が言ったよな。龍の破片は俺にしがみついている。
 とりあえずドロシーを抱擁から解く。俺こそしがみついている場合じゃない。

「そこに水道があるけど……俺は墓地で峻計に殺された。ドロシーはどこで」
「峻計!?」
 ドロシーがくしゃくしゃな顔で俺を見つめる。「陰陽士の奴らが言っていたのは本当だったんだ。……私は勘違いで影添大社に乱入した。そして大蔵司も朝卦も殺しかけた。……よかった、私が死んだだけで。しかも生き返れたし……裸だ。裸の私を抱いていたんだ。あっちを向いて!」

 *

 滅茶苦茶なドロシーはお天宮さんの水道で体を清めている。沢の水だから冷たいだろうけど。俺は林道を曲がり角まで下って彼女を待つ。
 ……体を離したときにちらりと見えてしまった。ドロシーの太ももには法董に裂かれた傷痕が痛々しく残っていた。消えたのは折坂にやられたらしい致命傷だけかも。超常現象にも限界はあるのか。
 俺が着ているのは、あの時と同じままの彼女の父親の形見のシャツ。それだって泥と汗と血まみれだ。弾が貫いた古い跡もある。
 更にひどい様のジーンズの後ろポケットには、独鈷杵と分厚い札束がそれぞれ入っていた。前のポケットにはスマホ……人である証だ。涙が出かけるけど、もう片側のポケットには天珠が入っている。ただの人でない証。
 でも、青龍の光を授かろうが資質なき俺はこれを操作できない。表面を二回タップする。本来ならばこれでつながるのに――

『思玲様!』

 琥珀の声が聞こえた……なんで?

「お、俺だよ。松本哲人」

 沈黙がしばらく続く。鳥達の斉唱はまだ続いている。卑しい語彙で縄張り争いする奴らもいる。

『霊の声でも異形の声でもない』
 ようやく琥珀の声が返る。

「ついさっき生きかえった。しかも人に戻った」
『ちょっと待て。――九郎、松本哲人が……』

 声が遠ざかる。……背筋が寒くなる。
 ドロシーや思玲と接したおかげで、人になったり異形になったり忙しいことを続けたおかげで、俺は忌むべき資質が目覚めたのか? 絶対に嫌だ。普通の人間に戻る。でも小鬼や空飛ぶペンギンと会話したい。

「哲人さん、すごく寒い」

 着替えたドロシーが現れる。いきなり日本の山中に出没した紫色のチャイナドレス。もちろんタイトでスリット入り。サイズが小さくきつめだから尚更体躯がはっきり分かるのに、胸もとにある厚めの蛇の刺繡が極めて邪魔だ。
 やっぱり夏奈より肉付きいいなと観察しかけるほど俺は冷静だ。
 彼女は松葉杖に寄りかかるように歩いてくる。隠し持っていたとしても、何故に一緒によみがえる?

 彼女を怖がるなよ。ふらふらなのは足の怪我のせいだけではないだろうし。蒼白な顔も山の水で冷えたからではないだろう。誰も生者と見なせなくても唇は紫色になっていない。紅色のまま。愛らしく品よくぷっくりした奇跡的唇のまま。
『もしもーし』と天珠から聞こえた。

『哲人ならばあり得るとの結論だ。迎えにいってやる。……その時に教えることがある』
「いまは大峠のお天宮さんにいる。とりあえずいくつか聞きたい。ドーンは?」
『まだカラスのままだ。哲人と顔を合わせて伝えたいから――』
「もう一つだけ。満月はいつ?」
『明日の晩だよ。これ以上はなにも答えない』

 俺の横まで来たドロシーが林道に座りこむ。また首をさする。胸もさする。俺に寄りかかろうとしてやめる。人の汚れが臭いのだろう。

「分かったよ。俺からもひとつだけ伝えておく。ドロシーと一緒だ。彼女も人のまま。外傷はない」

『なんだよそりゃ! ……ははは、あの無茶苦茶こそあり得るよな。
だったら残りは電話(天珠だ)で済ませることばかりだ。桜井ちゃんと瑞希ちゃんも変わらず。哲人がいない川田には食われそうで近寄れなかった。奴だったらもう哲人の復活に感づいているだろうな』

『つまりいないのは我が主だけだ』
 九郎が割り込んできた。『例の火伏せの神の近くか? 近づけば俺は見つけられるので琥珀と向かう、チチチ』

「みんなに俺達のこと伝えてくれよ」
『ドロシーが死んだのはたった今だ。あいつらに報告する間もなくこっちへ帰ってきた。それにまだ朝早すぎる。まずは合流だ』

 真面目な琥珀が通信を終える。人が死のうが生き返ろうが、こっちの世界の連中はクールだ。……そうだよ、まだ俺達は人の世界に戻っていない。

「この服はセンス悪すぎだけど術をかけてある。露出した肌まで分厚い結界に覆われて外傷から守られる。下着にも術をかけてあった。でも、老大大のを履きたくないから捨てた。……まだ人である哲人さんに慣れていないけど、青い目だしパパの服だから我慢できる。だから靴を貸して。裸足だと痛い」

 死のうと生き返ろうと唯我独尊ドロシーが俺に寄りかかる。

「そしたら歩ける?」
「まだ無理。哲人さんはなんで平気なの?」
「ドロシーの癒しが残っている」
「なんかずるい、へへ」

 実際はそれだけではないと思う。俺は人で死んでないから。ドロシーは人として死んでよみがえったから。その差じゃないかと感じる。
 遠い飛行機の音。早く動きだしたい。ドロシーは動けない。だったら家族に連絡して涙したい。両親のいないドロシーの前でできない。……影添大社との戦いの中身は? いまのドロシーに聞けるはずない。

「俺達はなんでここに現れたのかな」
 代わりに尋ねてみる。瞬間移動はまだあるとして、どういう理屈で人に戻れた?

「戦い続けるため」
 俺の肩で彼女は即答する。「それをここの神が望んだから。周婆さんが望んだから。何より私達が望んだから戻ってきた」

 彼女の回答は俺の求めたものじゃないし、そもそも違うかもしれない。でも間違いではない。俺は更に戦い続ける。それこそ修羅のように。
 小鳥はまだ鳴いてくれている。

――この広ーい土を見おろせよ。それ、いち、にい、さん、しい、ごー!




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