二の二 蒼光
文字数 3,430文字
「わっ、びっくりした」
桜井が目をさらに大きくする。でかい犬が彼女の脇にいた。暑さにやられたのか目がうつろだ。
「ずっといたの? かわいいね」
彼女は俺にも笑みをかけ、犬の頭をなでる。
俺の目には、獰猛な黒い狼みたいだ。むかし親戚の家で飼っていたシベリアンハスキーを思いだすが(よぼよぼの老犬だった)、そいつよりずっと大きくて野性的だ。首輪がないことに気づく。
「気をつけたほうがいいよ。その犬は」
「なにそれ!」
桜井はさらに満面の笑みで脇の椅子を見つめる。俺と彼女のあいだのデッキチェアに、白い猫が怯えたようにうずくまっていた。
「めっちゃヤバいし」
彼女は犬の頭ごしに手をのばし、その猫もやさしくさする。野良犬かもしれない大型犬に無防備で、見ていてハラハラする。
ふいに俺の顔を見つめる。
「私達、なにか忘れてるよね?」
「えっ? ……お土産まだだよね」
夏休みに学校まで来た用事を思いだす。それでも彼女は見つめてくるので、俺は気弱にも目をそらす。
白猫と目があった。毛なみは手入れされているから飼い猫だろう。震えて見ひらいた目が子猫みたいでかわいい。
しかし、せっかく桜井とテーブルを挟んでいるのに、なんだか不穏な空気に包まれている。カラスの一団が鳴きながら旋回しているせいだ。足もとでもガーガーと鳴いていやがる……。
うわ! カラスが俺を見上げて訴えるように騒いでいた。羽根でも折れて飛べないのか。だから上空で仲間が心配しているのか。しかしカラスはそばで見るとでかいな。
「クローズ、ザ、ボックス! ハリー!」
片言英語の怒鳴り声に、背骨が垂直になるほどに驚かされる。長髪で眼鏡のお姉さんが俺達をにらんでいた。
長身できれいな人だ。日ざしの下で仁王立ちしている。大学院の留学生かな……。桜井と一緒だから、余計なことは考えないようにしないと。
テーブルの箱を閉めろと怒鳴ったのだろう。金属製の箱の中で黄色い布に包まれて、やけに大きな透明のビー玉が三個と、青色の玉がひとつ輝いていた。俺達が開けたんだっけ?
まあいいや。木札をポケットに突っこんで、命ぜられたままにふたを閉める。
「イン、ザ、ウッド、ケース」
海外の人は押しが強いな。単語の羅列で意思が伝わる。青錆びた箱を木の箱にしまう。
「あの人のだったんだ。きれいな玉が入っていたね」
桜井はそう言いながら、テーブルのウチワに手を伸ばす。うずくまる犬は俺をにらんでいた。
バウオホ!
松本? 妙な鳴き声をあげて向かってきた。とっさに身がまえるが、その必要もなく犬はつんのめる。また前脚をあげて尻尾を振りながら俺へとかかってくる。また転ぶ。
白猫が椅子の中でさらに縮まる。地べたのカラスがガガッと悲鳴のように騒ぐ。邪魔者だらけだ。
*
お姉さんまでテーブルに来た。チェックのシャツとジーンズ姿で、小ぶりなショルダーを肩にかけている。桜井をにらむように見つめる。
桜井は気おくれすることもなく、ウチワをあおぎながらハローと挨拶する。すぐに興味をなくして、「なにか忘れているんだよな」とまた言う。
お姉さんは肩をすくめて白猫に目を向ける。無言でやさしくさする。ころんで顎から落ちた犬が牙をむきだす。お姉さんはその頭もさする。ついで彼女は空を見上げる。カラス達をにらみつける。
留学生をとやかく言うのは避けたいけど、なんだか風変わりな人だ。俺の足もとのカラスにも気づく。侮蔑の面持ちのなかに憐憫の眼差しが浮かんだような。
カラスが俺の足もとに隠れる。お姉さんはようやく俺に目を向ける。
「ゲット、アウト」
指を校内の歩道に向ける。……用事がすんだら退出しろだと? さすがに頭にきた。
「私達はくつろいでいるのに、あなたはなにを言うのですか?」
彼女の十倍はまともな英語で返してやった(第2外国語の中国語は、この人の英語以下だから使わない)。
「この騒ぎはあなたが起こしたのですか? どういう理由をお持ちですか?」
受験レベル英会話に、お姉さんはぎょっとした顔になる。さらに畳みかけてやろうと思ったが、気になったことをゆっくりと質問する。
「この犬や猫はあなたのペットですか? あなたは中国からの留学生ですか?」
「ペット? チャイナ?」
その単語は聞きとれたようだ。彼女は猫へと目を落とし、ノーペットとつぶやく。俺に目を向けなおし、
「ノー、チャイニーズ。アイ、アム、タイワニーズ」
語気を強めてにらみやがる。
「台湾人?」
桜井が声をあげる。
「やっぱ大事なこと忘れてる。あのカラス達が知っているよね?」
立ちあがり空を指さす。
カラスはさらに増えていた。まわりにいた学生達も気味悪がって、ちらほらと立ち去っている。台湾人のお姉さんも上空をちらりと見上げる。手をかざして太陽の方角をまじまじ見る。
舌を打ち振り返る。
「ユー、アー、タイムアウト」
俺へと指をさしやがる。
この女はバッグからなにか取りだす。白色の扇子? 広げるとお香が漂う。俺達を囲むように駆け足で舞いだす。桜井がぽかんと観る。……これは京劇の舞踊かな。優美でしなやかでスピーディだ。この状況下で見とれてしまう。
彼女はテーブルを一周して扇子をたたむ。短い時間の舞いなのに息がやけに荒い。ふと日常から隔離された気分になる。ガラスごしに世界を見ているようだ。
お姉さんは手で額の汗をぬぐい、文句のひとつも言いたげな顔を俺に向ける。手の中の木札が、ずしりと存在感を増す。ポケットに入れたのに、無意識につまみだしていた。
ブワサ
羽音のように風が抜けていった。桜井の前髪が揺れる。お姉さんが青ざめる。
上空ではカラスの数が異常だ。カーカーアーアーと鳴きわめいている。学生からの不安げな声も聞こえる。厄災が寄ってきそうで、撮影するのもはばかれる光景だ。
また突風がくる。鋭くてぬるい風。黒犬が小さく吠える。お姉さんが顔をかばうようにしゃがむ。さらに風が突きぬける。
お姉さんは再び扇子をひろげる。剣舞のようなパフォーマンスを始める。胸もとで赤いペンダントが揺れるのが見えた。
「夕立前の風かな。駅カフェに移動しない?」
不安が渦巻く俺は、天候を理由に立ちあがる。足もとのカラスがわめきながら羽根を押しつける。どれもこれも薄気味悪い。
「ううん、行かないよ」
桜井は悲しげな笑みを向けていた。
「忘れていたこと、やっぱりカラスが教えてくれた。瑞希ちゃんと川田君と和戸君。松本君も思いだせた?」
聞き覚えのない名前を列挙する。ゼミ関係だろうか。俺は首を横に振る。
「私のせいで、みんなどこか行っちゃったと思う」
彼女は箱を手もとに寄せる。
せわしく剣舞をくりひろげるお姉さんが、桜井を横目で見る。切迫した顔で中国語を叫ぶ。
桜井は木の箱を開ける。俺が閉まった青錆びた箱をまた取りだす。
「不行 !」とお姉さんが凍りつく。ストップと付け足すが、桜井は聞いていない。
「みんなに謝りたいのに無理っぽいね」
滅茶苦茶にかわいくて切ない笑みを俺にだけ向ける。その箱も開ける。青色の玉が輝いている。木札が手の中で燃えはじめる。
熱さなど感じていられるか! 桜井と見つめあう今だけが存在している。
「ストップ、ハー! アイ、キャンノット、タッチ、ザ、ボックス!」
お姉さんの叫びなど耳に入れない。
その娘をとめろ。私は箱に近寄れないから、貴様に頼むのだ
……こ、声を脳みそに打ちこまれた。
我にかえる。カラス達が四方から笑い声みたいにわめいている。木札が熱い。なにかが起きている。
俺はパニックになりかけている。カラスの半分ほどが地上に降りて俺達を遠巻きに囲むのを見て、声をだして逃げたくなる。何十羽いるのだろう。奴らの視線は俺達だけに向けられている。
お姉さんの眼鏡が落ちた。彼女は自分の頭をはらう。
頭上から嵐のような突風。お姉さんがよろめき、ショルダーが肩から落ちる。シャツの背中が汗でびしょ濡れだ。
俺はお姉さんにかまわず、桜井を見る。彼女は観念したように玉へと手を伸ばしていた。
桜井はなにかに憑りつかれた。いつだかそう感じたはずだ。桜井がどこかに連れていかれる!
俺は手を伸ばし、彼女の手をはらいのけようとする。反対の手で木札を握りしめたままで。また突風が近づく。
桜井が青い玉に触れた瞬間、俺の手が重なる。強烈なコバルト色があふれだし、俺は吹っ飛ばされる。
次章「1.5-tune」
次回「セカンドコンタクト」
桜井が目をさらに大きくする。でかい犬が彼女の脇にいた。暑さにやられたのか目がうつろだ。
「ずっといたの? かわいいね」
彼女は俺にも笑みをかけ、犬の頭をなでる。
俺の目には、獰猛な黒い狼みたいだ。むかし親戚の家で飼っていたシベリアンハスキーを思いだすが(よぼよぼの老犬だった)、そいつよりずっと大きくて野性的だ。首輪がないことに気づく。
「気をつけたほうがいいよ。その犬は」
「なにそれ!」
桜井はさらに満面の笑みで脇の椅子を見つめる。俺と彼女のあいだのデッキチェアに、白い猫が怯えたようにうずくまっていた。
「めっちゃヤバいし」
彼女は犬の頭ごしに手をのばし、その猫もやさしくさする。野良犬かもしれない大型犬に無防備で、見ていてハラハラする。
ふいに俺の顔を見つめる。
「私達、なにか忘れてるよね?」
「えっ? ……お土産まだだよね」
夏休みに学校まで来た用事を思いだす。それでも彼女は見つめてくるので、俺は気弱にも目をそらす。
白猫と目があった。毛なみは手入れされているから飼い猫だろう。震えて見ひらいた目が子猫みたいでかわいい。
しかし、せっかく桜井とテーブルを挟んでいるのに、なんだか不穏な空気に包まれている。カラスの一団が鳴きながら旋回しているせいだ。足もとでもガーガーと鳴いていやがる……。
うわ! カラスが俺を見上げて訴えるように騒いでいた。羽根でも折れて飛べないのか。だから上空で仲間が心配しているのか。しかしカラスはそばで見るとでかいな。
「クローズ、ザ、ボックス! ハリー!」
片言英語の怒鳴り声に、背骨が垂直になるほどに驚かされる。長髪で眼鏡のお姉さんが俺達をにらんでいた。
長身できれいな人だ。日ざしの下で仁王立ちしている。大学院の留学生かな……。桜井と一緒だから、余計なことは考えないようにしないと。
テーブルの箱を閉めろと怒鳴ったのだろう。金属製の箱の中で黄色い布に包まれて、やけに大きな透明のビー玉が三個と、青色の玉がひとつ輝いていた。俺達が開けたんだっけ?
まあいいや。木札をポケットに突っこんで、命ぜられたままにふたを閉める。
「イン、ザ、ウッド、ケース」
海外の人は押しが強いな。単語の羅列で意思が伝わる。青錆びた箱を木の箱にしまう。
「あの人のだったんだ。きれいな玉が入っていたね」
桜井はそう言いながら、テーブルのウチワに手を伸ばす。うずくまる犬は俺をにらんでいた。
バウオホ!
松本? 妙な鳴き声をあげて向かってきた。とっさに身がまえるが、その必要もなく犬はつんのめる。また前脚をあげて尻尾を振りながら俺へとかかってくる。また転ぶ。
白猫が椅子の中でさらに縮まる。地べたのカラスがガガッと悲鳴のように騒ぐ。邪魔者だらけだ。
*
お姉さんまでテーブルに来た。チェックのシャツとジーンズ姿で、小ぶりなショルダーを肩にかけている。桜井をにらむように見つめる。
桜井は気おくれすることもなく、ウチワをあおぎながらハローと挨拶する。すぐに興味をなくして、「なにか忘れているんだよな」とまた言う。
お姉さんは肩をすくめて白猫に目を向ける。無言でやさしくさする。ころんで顎から落ちた犬が牙をむきだす。お姉さんはその頭もさする。ついで彼女は空を見上げる。カラス達をにらみつける。
留学生をとやかく言うのは避けたいけど、なんだか風変わりな人だ。俺の足もとのカラスにも気づく。侮蔑の面持ちのなかに憐憫の眼差しが浮かんだような。
カラスが俺の足もとに隠れる。お姉さんはようやく俺に目を向ける。
「ゲット、アウト」
指を校内の歩道に向ける。……用事がすんだら退出しろだと? さすがに頭にきた。
「私達はくつろいでいるのに、あなたはなにを言うのですか?」
彼女の十倍はまともな英語で返してやった(第2外国語の中国語は、この人の英語以下だから使わない)。
「この騒ぎはあなたが起こしたのですか? どういう理由をお持ちですか?」
受験レベル英会話に、お姉さんはぎょっとした顔になる。さらに畳みかけてやろうと思ったが、気になったことをゆっくりと質問する。
「この犬や猫はあなたのペットですか? あなたは中国からの留学生ですか?」
「ペット? チャイナ?」
その単語は聞きとれたようだ。彼女は猫へと目を落とし、ノーペットとつぶやく。俺に目を向けなおし、
「ノー、チャイニーズ。アイ、アム、タイワニーズ」
語気を強めてにらみやがる。
「台湾人?」
桜井が声をあげる。
「やっぱ大事なこと忘れてる。あのカラス達が知っているよね?」
立ちあがり空を指さす。
カラスはさらに増えていた。まわりにいた学生達も気味悪がって、ちらほらと立ち去っている。台湾人のお姉さんも上空をちらりと見上げる。手をかざして太陽の方角をまじまじ見る。
舌を打ち振り返る。
「ユー、アー、タイムアウト」
俺へと指をさしやがる。
この女はバッグからなにか取りだす。白色の扇子? 広げるとお香が漂う。俺達を囲むように駆け足で舞いだす。桜井がぽかんと観る。……これは京劇の舞踊かな。優美でしなやかでスピーディだ。この状況下で見とれてしまう。
彼女はテーブルを一周して扇子をたたむ。短い時間の舞いなのに息がやけに荒い。ふと日常から隔離された気分になる。ガラスごしに世界を見ているようだ。
お姉さんは手で額の汗をぬぐい、文句のひとつも言いたげな顔を俺に向ける。手の中の木札が、ずしりと存在感を増す。ポケットに入れたのに、無意識につまみだしていた。
ブワサ
羽音のように風が抜けていった。桜井の前髪が揺れる。お姉さんが青ざめる。
上空ではカラスの数が異常だ。カーカーアーアーと鳴きわめいている。学生からの不安げな声も聞こえる。厄災が寄ってきそうで、撮影するのもはばかれる光景だ。
また突風がくる。鋭くてぬるい風。黒犬が小さく吠える。お姉さんが顔をかばうようにしゃがむ。さらに風が突きぬける。
お姉さんは再び扇子をひろげる。剣舞のようなパフォーマンスを始める。胸もとで赤いペンダントが揺れるのが見えた。
「夕立前の風かな。駅カフェに移動しない?」
不安が渦巻く俺は、天候を理由に立ちあがる。足もとのカラスがわめきながら羽根を押しつける。どれもこれも薄気味悪い。
「ううん、行かないよ」
桜井は悲しげな笑みを向けていた。
「忘れていたこと、やっぱりカラスが教えてくれた。瑞希ちゃんと川田君と和戸君。松本君も思いだせた?」
聞き覚えのない名前を列挙する。ゼミ関係だろうか。俺は首を横に振る。
「私のせいで、みんなどこか行っちゃったと思う」
彼女は箱を手もとに寄せる。
せわしく剣舞をくりひろげるお姉さんが、桜井を横目で見る。切迫した顔で中国語を叫ぶ。
桜井は木の箱を開ける。俺が閉まった青錆びた箱をまた取りだす。
「
「みんなに謝りたいのに無理っぽいね」
滅茶苦茶にかわいくて切ない笑みを俺にだけ向ける。その箱も開ける。青色の玉が輝いている。木札が手の中で燃えはじめる。
熱さなど感じていられるか! 桜井と見つめあう今だけが存在している。
「ストップ、ハー! アイ、キャンノット、タッチ、ザ、ボックス!」
お姉さんの叫びなど耳に入れない。
その娘をとめろ。私は箱に近寄れないから、貴様に頼むのだ
……こ、声を脳みそに打ちこまれた。
我にかえる。カラス達が四方から笑い声みたいにわめいている。木札が熱い。なにかが起きている。
俺はパニックになりかけている。カラスの半分ほどが地上に降りて俺達を遠巻きに囲むのを見て、声をだして逃げたくなる。何十羽いるのだろう。奴らの視線は俺達だけに向けられている。
お姉さんの眼鏡が落ちた。彼女は自分の頭をはらう。
頭上から嵐のような突風。お姉さんがよろめき、ショルダーが肩から落ちる。シャツの背中が汗でびしょ濡れだ。
俺はお姉さんにかまわず、桜井を見る。彼女は観念したように玉へと手を伸ばしていた。
桜井はなにかに憑りつかれた。いつだかそう感じたはずだ。桜井がどこかに連れていかれる!
俺は手を伸ばし、彼女の手をはらいのけようとする。反対の手で木札を握りしめたままで。また突風が近づく。
桜井が青い玉に触れた瞬間、俺の手が重なる。強烈なコバルト色があふれだし、俺は吹っ飛ばされる。
次章「1.5-tune」
次回「セカンドコンタクト」