四十七の四 破鏡
文字数 1,971文字
スマホを握りしめていた。
ここはどこだ? 体中痛くて、真っ暗闇だ。
雪で地面がぬかるんでいる。寒いし吐き気がひどいし、どこもかしこも激痛だ。……きっと俺は登山に来て、気候が急変して、みんなとはぐれて怪我をしたんだ。そうに違いない。
全身が痛い。嘔吐する。俺は暗闇のなかで今から一人で死ぬ。青い光が飛んでいる。誰の魂だろう?
人影が這いずってくる。お迎えが来た。きっと地獄からだ。逃げたくても体が動かない。
「ひいい、来るな、来るな」
「哲人サン……」
人影が俺の名を口にする。雷が照らす。泥だらけ傷だらけの女性の姿をした幽鬼だ。……魔女だ。
「ドント、ビー、スケアード」
怯えないでと、魔女が英語で言う。俺を抱き寄せる。
「ドント、ウォーリー」
落雷の中、心配しないでねと告げてくれた。死神の使いだろう女の子はきっと美人だ。彼女の唇が俺に触れる。痛みが消えていく。
俺は安らぎながら死ねるのかな……。
空からの青い光はウズラの卵ほどで、一直線に俺にぶつかる。
術の光に照らされる。手にしていたスマホが消える。
「いらねーし。これは松本君のだし」
夏奈の声。
頭がぼんやりして、なにが起きたか分からない。ここはどこだっけ?
「哲人サン!」
抱きついていたドロシーが人の声で怒鳴る。
「こっちの世界に帰ってくれた! 私を置いていかなかった! 夏奈さんも素敵だ!」
異形の声に切り替えられると、耳もとで大声すぎて、おかげで意識がはっきりする。
俺、人に戻っていたよな。こっちの世界の記憶がなにもない死にかけの人間に。おそらく藤川匠に青龍の光を分断されて……。その光を、夏奈は受けとらなかった。
巨大な異形はもういない。溶けながら地面へと吸われていった。不死身だとしても、俺と夏奈ならば何度でも倒せる。
俺を斬った男をにらむ。
「松本を殺せば、フロレ・エスタスは僕のもとに戻るのにな」
ずぶ濡れの藤川匠はしゃがんでいた。
「記憶が戻った僕は人に関われない。本来の力が戻るまでは、まだ君達を殺すことができない」
藤川匠の足もとには楊偉天が転がっていた。藤川匠が鏡を手にする。無死を従えた男……。
「私は松本君と一緒に戦う。たくみ君のところには行かない」
龍の悲しげな宣言。
「ごめんね。私はみんなと人に戻る。――ところでそこの女、松本君から離れてくれない? さっき意識がないのをいいことに無理やりキスしたよね?」
大粒な霰が降りそそぐ。それどころではないだろ。
「藤川、やめろ。鏡から手を離せ。貪を蘇らせるな」
俺は立ちあがる。独鈷杵をかかげる。
沈大姐が怯えた蛮龍。日本が滅びるぞ。
「復活したらしたで責任はとる」
藤川匠が鏡を表にする。
「導きを知りたいだけだ。僕と松本、どちらが朽ちるさだめかをね。死者の書には未来は記されていないから」
その足に楊偉天がしがみつく。意に介せず藤川匠が鏡を覗く――。凝縮されたオーロラみたいな光線にその目を貫かれる。藤川匠がよろめき廃墟へと倒れる。
「ヒヒヒ、罠だ。儂以外はその鏡を見ること叶わぬ」
老人が泥まみれで笑う。地に落ちた鏡を取りかえす。おのれの体をさする。
「儂こそ果てぬ。神殺の鏡よ、杖を直し、我が力も戻せ。……そう、こいつらほどに生気に溢れた頃に!」
……言い知れぬ不吉に襲われて、俺は駆けだす。ぬかるみに足を取られる。
ようやく気づいた。俺は人に戻っている。透明な妖怪の光はまたも分断されたのだろう。
俺は昼間と同様に青い光が宿るだけの人間だ。
「ドロシー、逃げろ」
人間が人間に声かける。彼女に武器はもうない。
楊偉天の折れた杖がオーロラに包まれる。目を焼かれた藤川匠は動かない。俺は神殺の剣を奪う。楊偉天のもとへと走る。焦げた木材に転び、割れたガラスが盛大に刺さる。なのにドロシーのキスを授かった人の体は絶好調だ。即座に立ちあがる。
「夏奈、みんなを守りにいけ」
戦わなくていいから。龍はためらいながらも去っていく。俺は老人を見る。鏡から溢れるオーロラが包んでいた……。こいつこそ人間じゃない!
「俺達の心だ!」
俺は独鈷杵を投げる。
「ぐふっ」
老人のうめき声。俺はオーロラへと破邪の剣を振り下ろす。
「おああああ……」
老人の悲鳴。俺は鏡を奪う。
『邪魔するな。もう少しだ』
貪が俺をにらむ。
神殺の力を止めなきゃ。俺は鏡を表に返す。目に向かう光線を剣でさまたげる。
「神殺よ」鏡に命じる。「光を消せ!」
楊偉天を包む光が消えていく。老人が泥に転がる。……鏡が揺れる。押さえこむ。
『楊偉天を若返らせても、それを止めさせても、鏡が俺をつなぎとめる力は尽きる』
鏡の裏面の貪が笑う。
「数百年ぶりだ」
俺の手の中で神殺の鏡が割れる。あふれでる禍々しい気配へと、手に戻った独鈷杵を突く。
法具が砕け散る。
次章「4.6-tune」
次回「貪慾」
ここはどこだ? 体中痛くて、真っ暗闇だ。
雪で地面がぬかるんでいる。寒いし吐き気がひどいし、どこもかしこも激痛だ。……きっと俺は登山に来て、気候が急変して、みんなとはぐれて怪我をしたんだ。そうに違いない。
全身が痛い。嘔吐する。俺は暗闇のなかで今から一人で死ぬ。青い光が飛んでいる。誰の魂だろう?
人影が這いずってくる。お迎えが来た。きっと地獄からだ。逃げたくても体が動かない。
「ひいい、来るな、来るな」
「哲人サン……」
人影が俺の名を口にする。雷が照らす。泥だらけ傷だらけの女性の姿をした幽鬼だ。……魔女だ。
「ドント、ビー、スケアード」
怯えないでと、魔女が英語で言う。俺を抱き寄せる。
「ドント、ウォーリー」
落雷の中、心配しないでねと告げてくれた。死神の使いだろう女の子はきっと美人だ。彼女の唇が俺に触れる。痛みが消えていく。
俺は安らぎながら死ねるのかな……。
空からの青い光はウズラの卵ほどで、一直線に俺にぶつかる。
術の光に照らされる。手にしていたスマホが消える。
「いらねーし。これは松本君のだし」
夏奈の声。
頭がぼんやりして、なにが起きたか分からない。ここはどこだっけ?
「哲人サン!」
抱きついていたドロシーが人の声で怒鳴る。
「こっちの世界に帰ってくれた! 私を置いていかなかった! 夏奈さんも素敵だ!」
異形の声に切り替えられると、耳もとで大声すぎて、おかげで意識がはっきりする。
俺、人に戻っていたよな。こっちの世界の記憶がなにもない死にかけの人間に。おそらく藤川匠に青龍の光を分断されて……。その光を、夏奈は受けとらなかった。
巨大な異形はもういない。溶けながら地面へと吸われていった。不死身だとしても、俺と夏奈ならば何度でも倒せる。
俺を斬った男をにらむ。
「松本を殺せば、フロレ・エスタスは僕のもとに戻るのにな」
ずぶ濡れの藤川匠はしゃがんでいた。
「記憶が戻った僕は人に関われない。本来の力が戻るまでは、まだ君達を殺すことができない」
藤川匠の足もとには楊偉天が転がっていた。藤川匠が鏡を手にする。無死を従えた男……。
「私は松本君と一緒に戦う。たくみ君のところには行かない」
龍の悲しげな宣言。
「ごめんね。私はみんなと人に戻る。――ところでそこの女、松本君から離れてくれない? さっき意識がないのをいいことに無理やりキスしたよね?」
大粒な霰が降りそそぐ。それどころではないだろ。
「藤川、やめろ。鏡から手を離せ。貪を蘇らせるな」
俺は立ちあがる。独鈷杵をかかげる。
沈大姐が怯えた蛮龍。日本が滅びるぞ。
「復活したらしたで責任はとる」
藤川匠が鏡を表にする。
「導きを知りたいだけだ。僕と松本、どちらが朽ちるさだめかをね。死者の書には未来は記されていないから」
その足に楊偉天がしがみつく。意に介せず藤川匠が鏡を覗く――。凝縮されたオーロラみたいな光線にその目を貫かれる。藤川匠がよろめき廃墟へと倒れる。
「ヒヒヒ、罠だ。儂以外はその鏡を見ること叶わぬ」
老人が泥まみれで笑う。地に落ちた鏡を取りかえす。おのれの体をさする。
「儂こそ果てぬ。神殺の鏡よ、杖を直し、我が力も戻せ。……そう、こいつらほどに生気に溢れた頃に!」
……言い知れぬ不吉に襲われて、俺は駆けだす。ぬかるみに足を取られる。
ようやく気づいた。俺は人に戻っている。透明な妖怪の光はまたも分断されたのだろう。
俺は昼間と同様に青い光が宿るだけの人間だ。
「ドロシー、逃げろ」
人間が人間に声かける。彼女に武器はもうない。
楊偉天の折れた杖がオーロラに包まれる。目を焼かれた藤川匠は動かない。俺は神殺の剣を奪う。楊偉天のもとへと走る。焦げた木材に転び、割れたガラスが盛大に刺さる。なのにドロシーのキスを授かった人の体は絶好調だ。即座に立ちあがる。
「夏奈、みんなを守りにいけ」
戦わなくていいから。龍はためらいながらも去っていく。俺は老人を見る。鏡から溢れるオーロラが包んでいた……。こいつこそ人間じゃない!
「俺達の心だ!」
俺は独鈷杵を投げる。
「ぐふっ」
老人のうめき声。俺はオーロラへと破邪の剣を振り下ろす。
「おああああ……」
老人の悲鳴。俺は鏡を奪う。
『邪魔するな。もう少しだ』
貪が俺をにらむ。
神殺の力を止めなきゃ。俺は鏡を表に返す。目に向かう光線を剣でさまたげる。
「神殺よ」鏡に命じる。「光を消せ!」
楊偉天を包む光が消えていく。老人が泥に転がる。……鏡が揺れる。押さえこむ。
『楊偉天を若返らせても、それを止めさせても、鏡が俺をつなぎとめる力は尽きる』
鏡の裏面の貪が笑う。
「数百年ぶりだ」
俺の手の中で神殺の鏡が割れる。あふれでる禍々しい気配へと、手に戻った独鈷杵を突く。
法具が砕け散る。
次章「4.6-tune」
次回「貪慾」