二十三の四 天空と冥界の交差点
文字数 4,576文字
でられるはずないけど何度も天珠は震えていた。つまり思玲の式神達も、まだ白虎にやられてはいない。
息が切れる。酸素が絶望的に不足している。それでも体を燃やせ。
また男の子の声がする。
そっちはだめ
お兄ちゃんだって分かっているよ。白虎は自分のもとに誘っている。だけど左右に杉の木を倒されて、前にしか進めないんだよ。そこで大きい口が開いていてもね。
でもお兄ちゃんは、このかわいい子を二度と(三度と)死なせないから心配しないでね。お兄ちゃんには力がある。素手で妖魔を殺した。残虐嗜虐な神獣だって殺してみせるから。
それにね。この滅茶苦茶きれいで、俺と一緒にいてくれる素敵な子は、閉ざされるほどに力が高まる。それに賭けてみる。
だったら牙をよけて。一二の三で飛びこんで。いち、に、の、さん!
目の前に象を飲み込むほどの真っ暗な洞が現れた。同時にジャンプする。転がり込む。背後でぐしゃりと門が閉ざされた。
ぬめりと臭気の暗闇。巨大な舌が脈動して俺とドロシーを嚥下しようとする。でも俺達は食われたではない。ようやく捕まえた。
俺はドロシーの肩を抱えていた左手を外す。彼女の首がかくりと降りるから右手でさらに強く抱く。
そのまましゃがみこむ。二回だけ深呼吸して異界の腐臭を吸う。左手を握りしめる。
「これが俺達の心!」
白虎の舌をどつく。
「貴様だって素晴らしい力ではないか。さすがは楊偉天を倒したものだ」
暗渠の向こうでくぐもった声が反響した。
余裕をこいていろ。俺はあきらめない。
「これは俺とドロシーの心! 心! 心! 二人の心!」
舌を連打する。暴雪は飲み込むのに難儀している。ここは酸素が薄い。俺はもう死んでいるかも。
だとしても。
「心! 心! 心!」
びくともしないじゃないか。もっと魂を込めろよ。そのために、何よりも伝えたいことを拳に込めろ。
「好きだ! 誰よりも好きになった! ドロシー大好きだ! 龍の弟だろうと大好きだ!」
窒息するまで殴り続けろ。あがき続けろ。
「弟?」彼女のか細い声がした。「龍の?」
「違う。混乱していた」窮地だろうと否定しろ。「夏梓群は俺の過去最大一番に大好きなドロシーだ!」
暗渠がかすかに紅色に照らされた。
同時に、白虎の頭蓋骨経由の衝撃。上あごに押しつぶされる。護布の下で二人はひとつになるほどに重なりあう。
「ぐあああああ」
暴雪の悲鳴とともに圧から解放される。後方が明るくなる。新鮮な空気が流れこむ。
俺は立ち上がろうとして、ドロシーにしがみつかれる。その右手には紙垂型の木札が握られていた。
「告白された。夏奈さんでなく私を選んでくれた。アンビリーバブル。もう死んでもいい」
白虎の口の中で彼女はうっとりした声をだす。
背後の門が閉ざされた。暗渠が激しく揺れ始める。暴雪が動きだした。
俺達は転がって彼女が俺の上になる。
「俺達はまだ(また)死なない」
「対 」
彼女は人の言葉で即答する。その右手が白銀に光る。ドロシーの顔が照らされる。憔悴しきっているのに希望に満ちた顔。
また大きく揺れて、彼女は俺の隣で仰向けになる。俺は腰を上げる。手を差し伸べるけど、ドロシーは拒絶する。
「王姐が教えてくれるはずない。峻計のは邪だ。でも麻卦が披露してくれた。あの日本豚にできるならば私にできないはずがない。……ちがう、あの日本人は狸だ」
日本人の隣で日本人を蔑称しまくったあとに上唇を舐める。下唇も舐める。寝ころんだままで、天宮の護符と冥神の輪を交差させる。
「噠!」
紅色と白銀の美しすぎる螺旋が、暗闇を残酷に照らす。白虎の上あごに突き当たる。
「ぐわあああ」
先ほどよりも大きな悲鳴。人ほどもある牙の向こうに青空が見えた。
すぐに閉ざされる。舌が激しく俺達を舐める。牙へと導こうとしている。
「哲人さん起こして」
暗闇に戻った世界で俺は彼女を立たそうとする。力が足りずに半身を浮かすのがやっと。
ドロシーは俺に寄りかかる。俺はずり落ちかけた布を二人にかける。
同時に。
「噠!」
白虎の口腔へと再びの美麗な螺旋。だが光は飲み込まれる。門は開かれない。
「邪悪なものであろうと褒めたたえたい」
奥底からの声。「もう充分だろ。二人そろって死
レベルオーバーな衝撃。上あごがまた降りてきた。護布がなければ首を折って即死していた。足もとが柔らかい舌でなければ圧死していた。……二人並んで果てたように仰向き。彼女は吐息を飲みこむ。
「噠!」紅色の護符で上あごを突く。
「ぐっ」
ゲートが開いた。その先に杉林が広がっている。そこへと、俺とドロシーは吐きだされる。
意識がちょっと飛んだ。樹冠より上から落ちたよな。妖怪でなければ……人だった。護布がなければ骨折……それよりもドロシー!
彼女はすぐ隣にいた。護布を敷き布みたいにして仰向けでいた。胸が激しく上下している。裾がめくれぬように抑えているけど……俺は護布なしで落下したのか。
となりの子のおっぱいより、土をやわらかくしてあげた。もっと守ってあげたいけど、あいつらを連れてでていけ。やっぱりぼくはこの山こそを守る
林の奥から爆音が轟いた。続けざまに響きまくる。木々の間から、木々が空に舞うのが見えた……天珠が振動している。
『チチチ、やっぱし生きていたな』
九郎の声がした。『耳に天珠を当てられねえから、くちばしで一方的に喋るだけだ。琥珀はレベル11をぶっ放すのに忙しい。小さい無人の神社があるだろ? その前に車を停めた。そこまで急げ。のろまは置いていくからな』
「老公 、もう私は動けない。今度こそもうダメ」
ドロシーの声がした。「でもダーリンのために立ち上がる」
彼女は裾を抑えたままで体を起こす。
動けるじゃないか、ダーリンはやめてくれ、などと突っ込まない。早くしないと、この山がスマホの波動で丸裸になる。
彼女は自分の足で歩きだす。俺は彼女を支えて隣を歩く。すぐに荒れた林道を下り始める。
爆音。爆音。
森への絨毯爆撃は続くけど、俺は絶対に非難しない。道でむき出しの二人を白虎が襲ってこないのだから。とにかく男の子が鎮座する山の神社へよろよろ急ぐだけだ。
「白銀弾だけ戻ってこない。光は消えただろうから探して見つかるものじゃないし、ごめんなさい」
「謝らないで。感謝しかない」
「ダーリンはやさしいね、へへへ」
ドロシーの手から天宮の護符と冥神の輪が消える。代わりに松葉杖が現れる。
投げたまま戻ってこない独鈷杵を探す時間もない。
***
お天宮さんの前にはメタリックグレーの二代目ジムニーが停まっていた。これは高値でやり取りされる軽四駆だ。盗難届はもう出されただろうか?
「お天宮様、ありがとう。ごめんなさい」
ご神体である祠がある林へと深く頭を下げる。「ドロシーもして」
「ダーリンは信心深いね」
しゃがみこんだ彼女も頭を下げる。
休む間もなく、風とともに空飛ぶペンギンが現れた。短い両足で小鬼を挟んでだ。
お天宮様を辟易とさせた
「琥珀と九郎もこの神社に感謝とお詫びを――」
「まずは何があった聞けよ。新機能のひとつにマーキングがある。前回のは当然消されたが、最初の一撃がヒットしたのが幸いだった。五発に一発は当ててやった。よほど痛かったのだろうな。逃げていった、ははは」
「琥珀は我らの主に似て短絡だが、たぶんマーキングを消しにどこぞの霊山に向かったと思う。すぐに戻ってくるぜ。なので早く乗れ。人だらけの東京まで急ぐぞ、チチチ」
「どっちにしろレベル11に制限がかかって撃てなくなったのを知らずにな。ははははは」
「百発も撃てばそりゃそうだろ。面白かったな、チチチチチ」
サバゲーの帰り道みたいなチビ妖怪二体が車に乗り込む。
「東京じゃなくて千葉を目指すのだろ?」
謝罪をあきらめた俺が、ジムニーのドアを開けながら言う。逃げるのでなく仲間と合流するために。
「私が日本で乱用したと思って止めたんだ。帰ったらさらに怒られる」
言いながら、しゃがんだばかりのドロシーが地面に手をつき腰をあげる。
「レベル8より上の波動は、魔道団が管理している。フィリピンの火山に封じた風の巨人族を、懲罰でただ働きさせて、マグマのエネルギーを波動に変える。それをスマホに転送するのは広州の技術だけどね。封じるといっても、陰陽士の封印とは全然理屈が違うし……」
ただの人間には理解不能なことを並べながら、彼女は車へ足を引きずる。「そうだ」と立ち止まり、俺へと振りかえる。
「哲人さん違ったダーリンは乗らないで。琥珀ちゃんも降りて」
疲れ切った顔を輝かして言う。
「また感じたのか?」
小鬼が真顔ですいすいと運転席から出てくる。
「ううん。恥ずかしいから隠したけど、じつは牢屋に三日も閉じ込められた。シャワーを浴びさせてもらえなかった。でも、その間に何度も何度も練習した。実践はしてない。たぶん出来ると思う」
ドロシーが松葉杖を横にして両手でつかむ。
「変態大蔵司が、賢い私の前で披露してくれた。言霊の連なりに気を込めろ。行くよ!
把心插入没有霊者 。把肉插入没有身者 。然后跟随我 。
不要讓闇照耀 ,要把放在陰影 。与我一起成為陰 !」
メタリックグレイだったボディが白黒のツートンカラーに変わる。正面のナンバープレートが赤くなる。左右に大きな羽根まで生える。ぱたぱたとペンギンの羽根みたいに動く……。
ドロシーが俺へと顔を向ける。
「気を込め過ぎて松葉杖が折れちゃった。初めてだから封印を加減できなかった。九郎ちゃんの力がはみ出ちゃったけど、空の旅だから関係ないね。白虎が来る前に急ごう」
松葉杖の残骸を投げ捨てて助手席を開ける。早くも汚れまくったチャイナドレス。車高ある軽四駆車へとまたぐように足を上げる。
「解除の仕方を、さすがに影添大社へ聞けないよね、へへ」
お尻に目を向けてしまったダーリンへ付け足す。
『戻せよ、災害女! 声デカ女! 尻出し女!』
モノラルのカーラジオから聞こえる九郎の罵声を聞きながら、俺も運転席から乗車する。空からならば房総半島まであっという間だな。夏奈の実家。夏奈の笑顔。
夏奈夏奈夏奈夏奈……
俺は桜井夏奈にしがみついていた。だから人として生きてここにいる。あの笑顔のおかげ……。
夏奈から龍の資質を取りだす。それで夏奈は誰にも狙われない。それで俺の役目は終わりだ。
俺はハンドルを握ることなく助手席へと左手を伸ばす。シートベルトもせずにドアに寄りかかる彼女が握り返してくれる。互いに泥だらけの指。俺は決めた。もう迷わない。
白虎は桁はずれだった。レベル11にも餃子の皮にならず、天宮の護符と冥神の輪による螺旋…………ってヤバすぎないか。もはや天地の狭間に敵うものなし……それでも暴雪は悲鳴をあげるだけ……。肯定的にとらえろよ。
ドロシーは枯れ草みたいなコンディションだったのに、微かにでもレジェンドに対抗できた。琥珀と九郎はすなわち思玲の力だ。彼女達にすがり、五人は本来の世界に戻る。
俺達は非力なのだから、それに戸惑う必要ない。
呆れた顔の琥珀が再び乗り込んで、ジムニーが空へと浮かぶ。父が入院する故郷から離れていく。
でも俺は惑わない。ドロシーとともに戦い、歩みだす。
次章「1-tune」
次回「なおも惑う男」
息が切れる。酸素が絶望的に不足している。それでも体を燃やせ。
また男の子の声がする。
そっちはだめ
お兄ちゃんだって分かっているよ。白虎は自分のもとに誘っている。だけど左右に杉の木を倒されて、前にしか進めないんだよ。そこで大きい口が開いていてもね。
でもお兄ちゃんは、このかわいい子を二度と(三度と)死なせないから心配しないでね。お兄ちゃんには力がある。素手で妖魔を殺した。残虐嗜虐な神獣だって殺してみせるから。
それにね。この滅茶苦茶きれいで、俺と一緒にいてくれる素敵な子は、閉ざされるほどに力が高まる。それに賭けてみる。
だったら牙をよけて。一二の三で飛びこんで。いち、に、の、さん!
目の前に象を飲み込むほどの真っ暗な洞が現れた。同時にジャンプする。転がり込む。背後でぐしゃりと門が閉ざされた。
ぬめりと臭気の暗闇。巨大な舌が脈動して俺とドロシーを嚥下しようとする。でも俺達は食われたではない。ようやく捕まえた。
俺はドロシーの肩を抱えていた左手を外す。彼女の首がかくりと降りるから右手でさらに強く抱く。
そのまましゃがみこむ。二回だけ深呼吸して異界の腐臭を吸う。左手を握りしめる。
「これが俺達の心!」
白虎の舌をどつく。
「貴様だって素晴らしい力ではないか。さすがは楊偉天を倒したものだ」
暗渠の向こうでくぐもった声が反響した。
余裕をこいていろ。俺はあきらめない。
「これは俺とドロシーの心! 心! 心! 二人の心!」
舌を連打する。暴雪は飲み込むのに難儀している。ここは酸素が薄い。俺はもう死んでいるかも。
だとしても。
「心! 心! 心!」
びくともしないじゃないか。もっと魂を込めろよ。そのために、何よりも伝えたいことを拳に込めろ。
「好きだ! 誰よりも好きになった! ドロシー大好きだ! 龍の弟だろうと大好きだ!」
窒息するまで殴り続けろ。あがき続けろ。
「弟?」彼女のか細い声がした。「龍の?」
「違う。混乱していた」窮地だろうと否定しろ。「夏梓群は俺の過去最大一番に大好きなドロシーだ!」
暗渠がかすかに紅色に照らされた。
同時に、白虎の頭蓋骨経由の衝撃。上あごに押しつぶされる。護布の下で二人はひとつになるほどに重なりあう。
「ぐあああああ」
暴雪の悲鳴とともに圧から解放される。後方が明るくなる。新鮮な空気が流れこむ。
俺は立ち上がろうとして、ドロシーにしがみつかれる。その右手には紙垂型の木札が握られていた。
「告白された。夏奈さんでなく私を選んでくれた。アンビリーバブル。もう死んでもいい」
白虎の口の中で彼女はうっとりした声をだす。
背後の門が閉ざされた。暗渠が激しく揺れ始める。暴雪が動きだした。
俺達は転がって彼女が俺の上になる。
「俺達はまだ(また)死なない」
「
彼女は人の言葉で即答する。その右手が白銀に光る。ドロシーの顔が照らされる。憔悴しきっているのに希望に満ちた顔。
また大きく揺れて、彼女は俺の隣で仰向けになる。俺は腰を上げる。手を差し伸べるけど、ドロシーは拒絶する。
「王姐が教えてくれるはずない。峻計のは邪だ。でも麻卦が披露してくれた。あの日本豚にできるならば私にできないはずがない。……ちがう、あの日本人は狸だ」
日本人の隣で日本人を蔑称しまくったあとに上唇を舐める。下唇も舐める。寝ころんだままで、天宮の護符と冥神の輪を交差させる。
「噠!」
紅色と白銀の美しすぎる螺旋が、暗闇を残酷に照らす。白虎の上あごに突き当たる。
「ぐわあああ」
先ほどよりも大きな悲鳴。人ほどもある牙の向こうに青空が見えた。
すぐに閉ざされる。舌が激しく俺達を舐める。牙へと導こうとしている。
「哲人さん起こして」
暗闇に戻った世界で俺は彼女を立たそうとする。力が足りずに半身を浮かすのがやっと。
ドロシーは俺に寄りかかる。俺はずり落ちかけた布を二人にかける。
同時に。
「噠!」
白虎の口腔へと再びの美麗な螺旋。だが光は飲み込まれる。門は開かれない。
「邪悪なものであろうと褒めたたえたい」
奥底からの声。「もう充分だろ。二人そろって死
レベルオーバーな衝撃。上あごがまた降りてきた。護布がなければ首を折って即死していた。足もとが柔らかい舌でなければ圧死していた。……二人並んで果てたように仰向き。彼女は吐息を飲みこむ。
「噠!」紅色の護符で上あごを突く。
「ぐっ」
ゲートが開いた。その先に杉林が広がっている。そこへと、俺とドロシーは吐きだされる。
意識がちょっと飛んだ。樹冠より上から落ちたよな。妖怪でなければ……人だった。護布がなければ骨折……それよりもドロシー!
彼女はすぐ隣にいた。護布を敷き布みたいにして仰向けでいた。胸が激しく上下している。裾がめくれぬように抑えているけど……俺は護布なしで落下したのか。
となりの子のおっぱいより、土をやわらかくしてあげた。もっと守ってあげたいけど、あいつらを連れてでていけ。やっぱりぼくはこの山こそを守る
林の奥から爆音が轟いた。続けざまに響きまくる。木々の間から、木々が空に舞うのが見えた……天珠が振動している。
『チチチ、やっぱし生きていたな』
九郎の声がした。『耳に天珠を当てられねえから、くちばしで一方的に喋るだけだ。琥珀はレベル11をぶっ放すのに忙しい。小さい無人の神社があるだろ? その前に車を停めた。そこまで急げ。のろまは置いていくからな』
「
ドロシーの声がした。「でもダーリンのために立ち上がる」
彼女は裾を抑えたままで体を起こす。
動けるじゃないか、ダーリンはやめてくれ、などと突っ込まない。早くしないと、この山がスマホの波動で丸裸になる。
彼女は自分の足で歩きだす。俺は彼女を支えて隣を歩く。すぐに荒れた林道を下り始める。
爆音。爆音。
森への絨毯爆撃は続くけど、俺は絶対に非難しない。道でむき出しの二人を白虎が襲ってこないのだから。とにかく男の子が鎮座する山の神社へよろよろ急ぐだけだ。
「白銀弾だけ戻ってこない。光は消えただろうから探して見つかるものじゃないし、ごめんなさい」
「謝らないで。感謝しかない」
「ダーリンはやさしいね、へへへ」
ドロシーの手から天宮の護符と冥神の輪が消える。代わりに松葉杖が現れる。
投げたまま戻ってこない独鈷杵を探す時間もない。
***
お天宮さんの前にはメタリックグレーの二代目ジムニーが停まっていた。これは高値でやり取りされる軽四駆だ。盗難届はもう出されただろうか?
「お天宮様、ありがとう。ごめんなさい」
ご神体である祠がある林へと深く頭を下げる。「ドロシーもして」
「ダーリンは信心深いね」
しゃがみこんだ彼女も頭を下げる。
休む間もなく、風とともに空飛ぶペンギンが現れた。短い両足で小鬼を挟んでだ。
お天宮様を辟易とさせた
あいつら
にも告げないといけない。「琥珀と九郎もこの神社に感謝とお詫びを――」
「まずは何があった聞けよ。新機能のひとつにマーキングがある。前回のは当然消されたが、最初の一撃がヒットしたのが幸いだった。五発に一発は当ててやった。よほど痛かったのだろうな。逃げていった、ははは」
「琥珀は我らの主に似て短絡だが、たぶんマーキングを消しにどこぞの霊山に向かったと思う。すぐに戻ってくるぜ。なので早く乗れ。人だらけの東京まで急ぐぞ、チチチ」
「どっちにしろレベル11に制限がかかって撃てなくなったのを知らずにな。ははははは」
「百発も撃てばそりゃそうだろ。面白かったな、チチチチチ」
サバゲーの帰り道みたいなチビ妖怪二体が車に乗り込む。
「東京じゃなくて千葉を目指すのだろ?」
謝罪をあきらめた俺が、ジムニーのドアを開けながら言う。逃げるのでなく仲間と合流するために。
「私が日本で乱用したと思って止めたんだ。帰ったらさらに怒られる」
言いながら、しゃがんだばかりのドロシーが地面に手をつき腰をあげる。
「レベル8より上の波動は、魔道団が管理している。フィリピンの火山に封じた風の巨人族を、懲罰でただ働きさせて、マグマのエネルギーを波動に変える。それをスマホに転送するのは広州の技術だけどね。封じるといっても、陰陽士の封印とは全然理屈が違うし……」
ただの人間には理解不能なことを並べながら、彼女は車へ足を引きずる。「そうだ」と立ち止まり、俺へと振りかえる。
「哲人さん違ったダーリンは乗らないで。琥珀ちゃんも降りて」
疲れ切った顔を輝かして言う。
「また感じたのか?」
小鬼が真顔ですいすいと運転席から出てくる。
「ううん。恥ずかしいから隠したけど、じつは牢屋に三日も閉じ込められた。シャワーを浴びさせてもらえなかった。でも、その間に何度も何度も練習した。実践はしてない。たぶん出来ると思う」
ドロシーが松葉杖を横にして両手でつかむ。
「変態大蔵司が、賢い私の前で披露してくれた。言霊の連なりに気を込めろ。行くよ!
メタリックグレイだったボディが白黒のツートンカラーに変わる。正面のナンバープレートが赤くなる。左右に大きな羽根まで生える。ぱたぱたとペンギンの羽根みたいに動く……。
ドロシーが俺へと顔を向ける。
「気を込め過ぎて松葉杖が折れちゃった。初めてだから封印を加減できなかった。九郎ちゃんの力がはみ出ちゃったけど、空の旅だから関係ないね。白虎が来る前に急ごう」
松葉杖の残骸を投げ捨てて助手席を開ける。早くも汚れまくったチャイナドレス。車高ある軽四駆車へとまたぐように足を上げる。
「解除の仕方を、さすがに影添大社へ聞けないよね、へへ」
お尻に目を向けてしまったダーリンへ付け足す。
『戻せよ、災害女! 声デカ女! 尻出し女!』
モノラルのカーラジオから聞こえる九郎の罵声を聞きながら、俺も運転席から乗車する。空からならば房総半島まであっという間だな。夏奈の実家。夏奈の笑顔。
夏奈夏奈夏奈夏奈……
俺は桜井夏奈にしがみついていた。だから人として生きてここにいる。あの笑顔のおかげ……。
夏奈から龍の資質を取りだす。それで夏奈は誰にも狙われない。それで俺の役目は終わりだ。
俺はハンドルを握ることなく助手席へと左手を伸ばす。シートベルトもせずにドアに寄りかかる彼女が握り返してくれる。互いに泥だらけの指。俺は決めた。もう迷わない。
白虎は桁はずれだった。レベル11にも餃子の皮にならず、天宮の護符と冥神の輪による螺旋…………ってヤバすぎないか。もはや天地の狭間に敵うものなし……それでも暴雪は悲鳴をあげるだけ……。肯定的にとらえろよ。
ドロシーは枯れ草みたいなコンディションだったのに、微かにでもレジェンドに対抗できた。琥珀と九郎はすなわち思玲の力だ。彼女達にすがり、五人は本来の世界に戻る。
俺達は非力なのだから、それに戸惑う必要ない。
呆れた顔の琥珀が再び乗り込んで、ジムニーが空へと浮かぶ。父が入院する故郷から離れていく。
でも俺は惑わない。ドロシーとともに戦い、歩みだす。
次章「1-tune」
次回「なおも惑う男」