四十四の二 吹きさらしの五人
文字数 2,947文字
俺は無力感を振りはらえないまま、護布がはだけた月神の剣をひろう。剣に怖さを感じない。師傅が持たねば剣に威圧がないからだ。
こんなのが破邪の剣であるはずない。それでも俺はあいつの声へと剣先を向ける。
「そういうことはいいから、はやく人になってみな。見届けてやる」
出入り口の上から、峻計が姿を見せずに笑う。
「松本、かまうな。先に進むしかないのだろ」
川田が見えない目で俺を見つめる。
そうかな。最初から進退窮まっていた。そんなこと考えるなよ……。
『お願いだから、はやく箱を開けて!』桜井が怯える。『あいつを食べたがっている』
「瑞希ちゃん、これをかけて。気休めだけど、けっこう効くぜ。俺はもういらねーし」
ドーンが護布をくちばしで引きずる。
青ざめた横根が緋色のサテンを体にかける。俺は箱の前にしゃがむ。木の箱をひらき、金属の箱をとりだす。そのふたも開ける。
かすかな黒色は弱っていた。かすかなブルーはみずから動かない。かぎりなく透明な三つの玉をはべらして、白い玉だけが煌々と輝いていた。
「もうやだ!」
横根が目をかばう。
俺は剣を持ち、思玲に言われたように箱を切りつける。
「ふふ。そんなやさしく叩いても、なにも起きないよ」
あいつの声を無視したい。もっと強く切りつける。
「玉よりあんたが怯えているよ。ふふ。瑞希ちゃんが帰ってきたから、男どもは人に戻っていいのにね」
彼女の名を呼ばないでくれ。俺は横根を見る。緋色の布をかぶった白色の猫がへたりこんでいた。一撃で決めなければいけなかった……。
『まだ大丈夫。はやく箱を壊して』
桜井の言うとおりかもしれないけど、横根が再び人に戻ったとして記憶が残っているだろうか。思玲もいない。あいつだけがいる。
俺は箱を突き刺そうとする。鋭利な刃先が錆びた表面にはじき返される。腕から流れ続ける血が剣をつたう。
「戻るのやめよ」ドーンが言う。「戦うしかな、ゴホゴホッ、オエー」
「違うよ。人になれば和戸君も治るんだよ。戻るしかないよ」
横根は気を取りなおしている。「どうせなら人になって……」
観念しかけてもいる。
「今のままで戦うほうが、まだ可能性があるじゃん。哲人、はやく寄こせ」
ドーンが羽根でくちばしをぬぐおうとする。
ドーンがなにを求めているかは分かる。でも、もう戦わせない。
「俺は瑞希ちゃんに賛成だ。俺が狼だったときは託された。柴犬になろうがやってやる」
川田が箱に飛びかかる。
でも子犬が噛んでも金属の箱が傷つくはずない。……狼の牙よりも師傅の剣が強いに決まっている。なのに四玉は怯えない。剣の持ち手のせいだ。
「玄武くずれは最後まで粗暴だね。蒼玉が割れたらどうする」
軽快な羽音が舞いおりる。すらりとした大カラスが子犬に爪をかける。真っ黒な目が俺をあざ笑う。
こいつは峻計だ。みずからの羽根を扇にささげる前の姿。
「老祖師が早々に呼び戻してくれたのよ。みずからのどを突かれてね」
大カラスが川田を足にして飛びたつ。黒色の子犬が足をばたつかせ上空に消える。
「川田君!」
白猫が緋色の布から飛びだす。首にぶら下がる赤い珊瑚が揺れる。
「俺よりも、もう一羽来るぞ!」
子犬は叫び声を残して闇空に見えなくなる。
ガハハハ……
なぜだか滝つぼの笑いを思いだす。……そうだった。俺も大カラスどもと一緒だ。一度死んで生きかえった。こんなことを見せられるために……。仲間を巻き添えに。
すべて許せない!
「川田を助けろ」ドーンに命じる。
カカカッ
瀕死の迦楼羅が待ちかねたように飛びたつ。死力を絞れ!
『怒らないで。私まで呼ばれちゃうよ』
明けはじめた空が鳴り響く。俺は剣を持ち立ちあがる。
「辛うじて復活だ。俺なんぞのために、老祖師がお一人犠牲になられてな」
入口から大声がした。
「お前ら、あの扇には気をつけ……んだ? 四神くずれだけかよ」
川田が告げたとおり、焔暁が戻ってきた。俺は師傅の亡骸を踏みつけた大カラスをにらむ。
こいつは終わりだ。
「まだ生きていたのか。護符の代わりに剣か? おもしれえ」
俺を見て、俺の剣を見て、焔暁が笑う。戦いへのうずきをこらえきれぬように、階段口から飛びたつ。
「明王の端くれから燃やしてやるぜ」
燃える足を俺に向ける。
俺は師傅がかかげた剣からほとばしった光を思いだす。俺も剣を天にかざす。
おのれさえも眩しい。
月神の剣から光があふれる。光が屋上を蒼天と照らす。上空の雷雲さえもかき消そうとする。
……こんなにも、剣は俺を待っていた。
「くそっ」と、俺の目前で対の炎が逃れる。俺は剣を右手に跳躍する。心と剣が一体だ。中空を薙ぎ、地へと降りる。
「くそう……」
焔暁がよたよたと落ちかけ、かろうじて浮かぶ。剣の光がおさまった屋上に、燃える足がふたつ、くすぶりながら転がる。
「ま、松本君、それだよ」横根がつぶやく。「それで箱を壊せばよかったんだ」
……どのみち怯えた俺では無理だったよ。箱へと剣を向ける。
ウワン、ウワン……
かかげただけだ。それだけで透明の四つの玉が怯えだす。俺は箱に飛びつき、あわててふたをする。
四玉の怯えはなおもやまない。おそらく開けると同時に俺達は人に戻る。
『なんで閉じるんだよ!』
桜井が怒声をあげる。彼女が俺から飛びでようとする。
まだだろ。川田もドーンもいないだろ。五人で囲むのだろ!
「ああ」
白猫が黒雲を見上げる。
峻計が落ちてくる。続いて川田とドーンも。
「ドーン、どこだ?」
子犬だけがよろよろと立ちあがる。後ろ足が砕けたのか腰から崩れる。
「俺を助けても意味がないだろ!」
それでもなおも吠える。
「はやくしないと!」
横根が緋色の布をくわえて引きずる。
『はやくだせ!』
桜井が暴れる。俺は抑えることしかできない。俺は確信している。桜井が俺の力を破ったときに、青龍が具現する。
「ドーンはどこだ!」
川田が叫ぶ。ふいに低くかまえ、一陣の風に飛ばされる。
「また大老師が死なれちまったぞ」流範の声がとどろく。「お前への預かりものだ!」
大カラスが目前に現れて、くちばしを開く。朱色の光が見える。とっさに腹だけを守る。馬鹿、青龍は狙わないだろ――
ズドウン
すべてが朱赤に染まる。
俺の顔、焼けただれたかも……。
俺は妖怪だ。まだ耐える。残った目で大カラスを探す。むき出しの屋上はこいつらに利がある。
風はどこだ? どこから吹く?
グワサリ
加減されたような背後からの一撃。……それでも背骨、砕けたよな。意識がうすれ、腹をかばう手が垂れかける――。
「叫ぶな。お前がどれだけ好きか、誘って断られたのも分かった。だから静かにしろ」
川田はうんざりしていた。
「近所迷惑だ。……でも、あれはそこまでかな」
うるさい。お前だって酔っぱらいだ。どうせ彼女を調子よくてサークルに半分も顔をださない適当女と思っていて、几帳面で女好きな俺では釣り合わないと思っているのだろ。
でも二人だけの小さな思い出があるんだよ。テラスから覗きこんでいた桜井、真顔で言いかえしてきた桜井、ハイタッチをやり直した桜井……。
……まだ終わってないだろ。人だった友を思いだすなよ。好きだった子を思いだすなよ。
今だけに、この屋上だけに意識を向けろよ、俺。
次回「足掻けよ俺」
こんなのが破邪の剣であるはずない。それでも俺はあいつの声へと剣先を向ける。
「そういうことはいいから、はやく人になってみな。見届けてやる」
出入り口の上から、峻計が姿を見せずに笑う。
「松本、かまうな。先に進むしかないのだろ」
川田が見えない目で俺を見つめる。
そうかな。最初から進退窮まっていた。そんなこと考えるなよ……。
『お願いだから、はやく箱を開けて!』桜井が怯える。『あいつを食べたがっている』
「瑞希ちゃん、これをかけて。気休めだけど、けっこう効くぜ。俺はもういらねーし」
ドーンが護布をくちばしで引きずる。
青ざめた横根が緋色のサテンを体にかける。俺は箱の前にしゃがむ。木の箱をひらき、金属の箱をとりだす。そのふたも開ける。
かすかな黒色は弱っていた。かすかなブルーはみずから動かない。かぎりなく透明な三つの玉をはべらして、白い玉だけが煌々と輝いていた。
「もうやだ!」
横根が目をかばう。
俺は剣を持ち、思玲に言われたように箱を切りつける。
「ふふ。そんなやさしく叩いても、なにも起きないよ」
あいつの声を無視したい。もっと強く切りつける。
「玉よりあんたが怯えているよ。ふふ。瑞希ちゃんが帰ってきたから、男どもは人に戻っていいのにね」
彼女の名を呼ばないでくれ。俺は横根を見る。緋色の布をかぶった白色の猫がへたりこんでいた。一撃で決めなければいけなかった……。
『まだ大丈夫。はやく箱を壊して』
桜井の言うとおりかもしれないけど、横根が再び人に戻ったとして記憶が残っているだろうか。思玲もいない。あいつだけがいる。
俺は箱を突き刺そうとする。鋭利な刃先が錆びた表面にはじき返される。腕から流れ続ける血が剣をつたう。
「戻るのやめよ」ドーンが言う。「戦うしかな、ゴホゴホッ、オエー」
「違うよ。人になれば和戸君も治るんだよ。戻るしかないよ」
横根は気を取りなおしている。「どうせなら人になって……」
観念しかけてもいる。
「今のままで戦うほうが、まだ可能性があるじゃん。哲人、はやく寄こせ」
ドーンが羽根でくちばしをぬぐおうとする。
ドーンがなにを求めているかは分かる。でも、もう戦わせない。
「俺は瑞希ちゃんに賛成だ。俺が狼だったときは託された。柴犬になろうがやってやる」
川田が箱に飛びかかる。
でも子犬が噛んでも金属の箱が傷つくはずない。……狼の牙よりも師傅の剣が強いに決まっている。なのに四玉は怯えない。剣の持ち手のせいだ。
「玄武くずれは最後まで粗暴だね。蒼玉が割れたらどうする」
軽快な羽音が舞いおりる。すらりとした大カラスが子犬に爪をかける。真っ黒な目が俺をあざ笑う。
こいつは峻計だ。みずからの羽根を扇にささげる前の姿。
「老祖師が早々に呼び戻してくれたのよ。みずからのどを突かれてね」
大カラスが川田を足にして飛びたつ。黒色の子犬が足をばたつかせ上空に消える。
「川田君!」
白猫が緋色の布から飛びだす。首にぶら下がる赤い珊瑚が揺れる。
「俺よりも、もう一羽来るぞ!」
子犬は叫び声を残して闇空に見えなくなる。
ガハハハ……
なぜだか滝つぼの笑いを思いだす。……そうだった。俺も大カラスどもと一緒だ。一度死んで生きかえった。こんなことを見せられるために……。仲間を巻き添えに。
すべて許せない!
「川田を助けろ」ドーンに命じる。
カカカッ
瀕死の迦楼羅が待ちかねたように飛びたつ。死力を絞れ!
『怒らないで。私まで呼ばれちゃうよ』
明けはじめた空が鳴り響く。俺は剣を持ち立ちあがる。
「辛うじて復活だ。俺なんぞのために、老祖師がお一人犠牲になられてな」
入口から大声がした。
「お前ら、あの扇には気をつけ……んだ? 四神くずれだけかよ」
川田が告げたとおり、焔暁が戻ってきた。俺は師傅の亡骸を踏みつけた大カラスをにらむ。
こいつは終わりだ。
「まだ生きていたのか。護符の代わりに剣か? おもしれえ」
俺を見て、俺の剣を見て、焔暁が笑う。戦いへのうずきをこらえきれぬように、階段口から飛びたつ。
「明王の端くれから燃やしてやるぜ」
燃える足を俺に向ける。
俺は師傅がかかげた剣からほとばしった光を思いだす。俺も剣を天にかざす。
おのれさえも眩しい。
月神の剣から光があふれる。光が屋上を蒼天と照らす。上空の雷雲さえもかき消そうとする。
……こんなにも、剣は俺を待っていた。
「くそっ」と、俺の目前で対の炎が逃れる。俺は剣を右手に跳躍する。心と剣が一体だ。中空を薙ぎ、地へと降りる。
「くそう……」
焔暁がよたよたと落ちかけ、かろうじて浮かぶ。剣の光がおさまった屋上に、燃える足がふたつ、くすぶりながら転がる。
「ま、松本君、それだよ」横根がつぶやく。「それで箱を壊せばよかったんだ」
……どのみち怯えた俺では無理だったよ。箱へと剣を向ける。
ウワン、ウワン……
かかげただけだ。それだけで透明の四つの玉が怯えだす。俺は箱に飛びつき、あわててふたをする。
四玉の怯えはなおもやまない。おそらく開けると同時に俺達は人に戻る。
『なんで閉じるんだよ!』
桜井が怒声をあげる。彼女が俺から飛びでようとする。
まだだろ。川田もドーンもいないだろ。五人で囲むのだろ!
「ああ」
白猫が黒雲を見上げる。
峻計が落ちてくる。続いて川田とドーンも。
「ドーン、どこだ?」
子犬だけがよろよろと立ちあがる。後ろ足が砕けたのか腰から崩れる。
「俺を助けても意味がないだろ!」
それでもなおも吠える。
「はやくしないと!」
横根が緋色の布をくわえて引きずる。
『はやくだせ!』
桜井が暴れる。俺は抑えることしかできない。俺は確信している。桜井が俺の力を破ったときに、青龍が具現する。
「ドーンはどこだ!」
川田が叫ぶ。ふいに低くかまえ、一陣の風に飛ばされる。
「また大老師が死なれちまったぞ」流範の声がとどろく。「お前への預かりものだ!」
大カラスが目前に現れて、くちばしを開く。朱色の光が見える。とっさに腹だけを守る。馬鹿、青龍は狙わないだろ――
ズドウン
すべてが朱赤に染まる。
俺の顔、焼けただれたかも……。
俺は妖怪だ。まだ耐える。残った目で大カラスを探す。むき出しの屋上はこいつらに利がある。
風はどこだ? どこから吹く?
グワサリ
加減されたような背後からの一撃。……それでも背骨、砕けたよな。意識がうすれ、腹をかばう手が垂れかける――。
「叫ぶな。お前がどれだけ好きか、誘って断られたのも分かった。だから静かにしろ」
川田はうんざりしていた。
「近所迷惑だ。……でも、あれはそこまでかな」
うるさい。お前だって酔っぱらいだ。どうせ彼女を調子よくてサークルに半分も顔をださない適当女と思っていて、几帳面で女好きな俺では釣り合わないと思っているのだろ。
でも二人だけの小さな思い出があるんだよ。テラスから覗きこんでいた桜井、真顔で言いかえしてきた桜井、ハイタッチをやり直した桜井……。
……まだ終わってないだろ。人だった友を思いだすなよ。好きだった子を思いだすなよ。
今だけに、この屋上だけに意識を向けろよ、俺。
次回「足掻けよ俺」