五の二 人と異形と大人と子ども
文字数 3,640文字
麻卦さんが詳細を教えてくれないまま、殲が翼を傾ける。東京の夜景が見えた。滑らかに高度を下げていく。
――人の時間で二十二時過ぎだ。お前達は川原に降ろす。黒貉、責任を果たさないと食っちまうからな
翼竜の重低音ヴォイスが響いたあとに、着地の衝撃が伝わる。雅以外の全員が鱗の上を転がり、土の上へと滑り落ちる。最後まで中空に浮かんでいた雅も飛び降りる。
「殲は去りました」雌狼が主へと教える。
「あいつは口が悪すぎる。ほんとに僕を食べられるはずないのに」
ぼやきながら、闇からオタっぽい眼鏡女子が浮かび上がる。
「松本と思玲。ここからどうするのだ? それと執務室長。僕まで巻き添えを食らってしまった」
車の音が遠い。ここは河川敷の野球グラウンドらしい。すぐ近くの高架は高速道路か。俺は立ちあがる。日本の夜だ。俺達の時間だ。
「お嬢ちゃんは誰だ? 気配は人だが、化けているならもっと美人にすべきでないか?」
麻卦さんも立ちあがり尻を払う。
「いきなり現れたのだから人であるはずない」
露泥無がむすっとした声を上げる。
「僕は雌(やはりそうだったのか)なので、あなたの発言はセクハラになる。あなたこそ、この国の狸の置物にそっくりだ」
「あん? 金玉だしてないだろ。生意気な異形に、玉袋より楽しいものを見せてやる」
麻卦さんが手のひらをひろげる。……冥紳の輪をだすつもりだ。
「執務室長、こいつは上海在住のチベット黒貉のハラペコで、一部からは露泥無と呼ばれている。やかましいから放置するのがベストだが」
思玲も立ちあがる。「まずは瑞希と桜井に会いたいので影添大社に行かせてもらう」
「俺は川田のアパートに行くよ。匿われていない二人こそ心配だから」
ポケットから天珠をだす。「日本に戻ったから、これで琥珀と連絡が取れる」
「よこせ」
当然のように思玲が手を伸ばす。渡すしかない。
「東京の夜に異形を呼ぶ魔道具を使うな。それとだな、何人 も社を夜に訪れるのは認められない。どちらも千年以上前から続く決まりだ。破ると、折坂が怒る」
「どっちにしろ俺は入れないですよね」
俺は執務室長に言う。異形は昼間だろうと影添大社に入れてもらえない。
「私もか? 影添大社ともっとも友好的な台湾魔道士だぞ」
陰ではぼろくそだった思玲が言うけど。
「折坂が怒るぞ」
同じセリフで済ませて、麻卦さんが周囲を見まわす。
「この広い土手は荒川だから足立区だ。社まで歩いたら一時間……埼玉側じゃないか。千住新橋を歩いて渡れるかよ。
俺は迎えを呼ぶ。お前達は“手負いの獣人”のもとに行くべきだろうな」
麻卦さんが夜空を見上げるので、俺まで見てしまう。懐かしく感じてしまう上弦の半月が浮かんでいた……。満月まであと八日か。
「折坂って、あの融通がきかなそうな獣人だよな」
思玲がそそくさと天珠をポケットにしまい「藤川匠の所在は分かっているのか?」
俺へと尋ねる。
「分かっていたら呑気に過ごしません」
高校生ぐらいの姿相手だから、どうも敬語がしっくりこない。子どもの思玲よりはましだけど。
「さらに生意気になっていないか? ところで麻卦さん。私の式神に大燕がいる。あの馬鹿は私が日本に戻ったことに気づく。なのに現れない。所在を知っているか?」
「ボランティアで運転してくれたぜ。大蔵司と温泉に寄ると言っていたが、さすがにもう帰っているよな」
「温泉? よその魔道士と?」
「俺達は魔道士じゃない。陰陽士だよ。で、あのペンギン燕は思玲ちゃんのものだったんだ。なんだか独立独歩な異形だったな」
「麻卦さん、俺達にも車をだしてもらえますか?」
思玲の怒りが増長する前に告げる。荒川の向こう側から川田の家まで歩くなど、時間が見当つかない。
「もちろんさ」と麻卦さんがスラックスの前ポケットからスマホをだす。術をかけてあるポケットか。あそこに死者の書もしまわれているのだろうか……。
「どうも嫌な感じがする」
華奢な女の子が俺の横で声を潜める。
「露泥無は何故に深圳にいたの?」
肝心なことを聞いていなかった。聞く時間もなかったけど。
「そりゃ前回と同じ任務のためさ」
つまり覗きか。「大姐からの命 を受けている。……大姐は独善的なところがあるので、デニー様の気苦労が増える。だから式神の僕への風当たりがきつい」
「藤川匠を見つけたら、大姐が来るのか?」
「もちろん。おそらくデニー様もだ」
俺達の記憶を消した張本人も現れるのか。思玲、麻卦さん、俺、雅が無抵抗にやられたのだから驚くほどに強いのだろう……。麻卦さんだけは何があったかを知っている。封じた鹿達から聞いている。
「陰陽士は異形を車や魔道具に封印するだろ? 具体的にどういうこと?」
「この状況でそれを尋ねることこそ松本だな。無機質のものに異形の魂を宿らせて異界の力を授ける。とくに変わったことではない」
充分に変わっているが、それを言いだせば俺が関わる全てがおかしい。いまの俺こそが。
「五分後に一台到着する。俺はタクシーで帰る。車道に出ようぜ。……上海の貉さんか。あんたの噂は聞いているよ。若いのにさぞ賢いのだろうね」
麻卦さんが電話を終わるなり歩きだす。
「明日は何時に顔をだせばいい?」
思玲が執務室長の横に並び尋ねる。
「陽が昇るなりどうぞ。松本君はダメだけどね」
「琥珀と九郎も中には入れないのですか?」
「もちろん。人以外は隣の公園までだ」
「なんだか瑞希と桜井が人質みたいだな」
思玲が車道へのコンクリート製の階段を登りながら言う。「それはさておき怪我を負わせて申し訳なかった」
「俺こそ悪かったな。ほんとうに悪かった」
麻卦さんはそう言うと、場所を指図するためにスマホでまた電話する。
俺はこの人にとりわけ悪意を持ってない。得体のしれぬ異形な俺とごく普通に接してくれた。
「僕は影添大社に忍びこむ。桜井と横根に告げることはあるか?」
横に並ぶ女の子が俺にだけ聞こえる声で言う。覗きのためにはリスクを問わないのか。
「思玲が戻ってきたと伝えて」
俺が女子二人と会ったところで言葉を交わせない。俺は彼女達に見えない存在。しかも片方には忘れられた存在。
「分かった」と、女の子はまた闇と化す。
思玲を取りもどすという、最初の仕事は終わった。ここから先の順番は、川田を人に戻す。ドーンを人に戻す。夏奈から龍の資質を抜かす。横根の削れた魂を戻す。そして俺が人に戻る……。思玲はどうするのだろう? その時が来たら彼女の望む道に付き合うに決まっている。
そのために邪魔になるものは手加減せずに対処してやる。藤川匠、峻計、土壁、貪。こいつらが現れる気がしてならない。そのために頼りになるのは――俺達よりはるかに強い魔道士達はいるけど……胸騒ぎしまくる。頼れるのは俺達五人と思玲だけに決まっている。でも、もう一人あげるとしたら……。
プ、プーとクラクションがして、今朝方乗ったピンク色のワンボックスカーがもたもた現れた。
*
「スーリンちゃんはやっぱり美人になったね。発育早すぎだけど」
運転席から降りた大蔵司がにっかり笑う。実情を知っていようが超常現象を容易く受け入れる。
「思玲と漢字で呼べ。それと私の式神を知らぬか?」
「それより俺を治療しろ。トラブルがあった」
「琥珀ちゃんは今日は見かけなかったな。九ちゃんは野暮用があるからスーリンちゃんに会えないって。そんで麻卦さん、その傷に邪を感じませんので治癒は無理です。どこで受けたのですか?」
「忘れた」
大蔵司は麻卦さんの太鼓腹を一瞥しただけだが、彼女には義憤の血の力があった。星がレジェンドの折坂さんといい、影添大社こそ侮りがたい。
「とにかくあの馬鹿どもは主である私を避けている。つまり大蔵司が運転するのか? ガラガラの駐車場でこすりかけたよな」
「ガソリン代だしてくれたら台輔に任せるよ」
「そうしてくれ。麻卦さん、龍退治の前金は?」
「治癒せぬ腹の火傷は気にしなくても、そちらは覚えているのか。大蔵司、金を渡してやれ」
「了解です。はい五百万円。台輔に運転させるならば、そこから二万円ちょうだい」
大蔵司が俺へと帯封された一万円札を五つ渡す……浄財じゃないか。でも。
「こんなにいらない。預けておく」
一束だけをシャツの中にしまう。
「松本君はそんな芸当ができたのか」
麻卦さんに感心される。
「ではこれを預かってくれ。社に入れるのを折坂が嫌がるから、見つかるとうるさい。というか絶対にばれるからな」
麻卦さんがポケットに手を突っ込む。死者の書が現れる――。
「南京に返していないのか。……高額品だよな? 哲人に持たせておくのが一番安全だ」
思玲は書を怖れない。
「はやく乗って。場所を台輔に教えてあげてね」
大蔵司に急かされて、思玲と雅が後部座席に乗りこむ。俺へと助手席が開く。死者の書を抱えて乗りこむ。
「あばよ」
背中を向けた麻卦さんが手を振り大通りへと歩く。
ピンクの車が動きだす。露泥無はいない。
次回「めくってはいけない」
――人の時間で二十二時過ぎだ。お前達は川原に降ろす。黒貉、責任を果たさないと食っちまうからな
翼竜の重低音ヴォイスが響いたあとに、着地の衝撃が伝わる。雅以外の全員が鱗の上を転がり、土の上へと滑り落ちる。最後まで中空に浮かんでいた雅も飛び降りる。
「殲は去りました」雌狼が主へと教える。
「あいつは口が悪すぎる。ほんとに僕を食べられるはずないのに」
ぼやきながら、闇からオタっぽい眼鏡女子が浮かび上がる。
「松本と思玲。ここからどうするのだ? それと執務室長。僕まで巻き添えを食らってしまった」
車の音が遠い。ここは河川敷の野球グラウンドらしい。すぐ近くの高架は高速道路か。俺は立ちあがる。日本の夜だ。俺達の時間だ。
「お嬢ちゃんは誰だ? 気配は人だが、化けているならもっと美人にすべきでないか?」
麻卦さんも立ちあがり尻を払う。
「いきなり現れたのだから人であるはずない」
露泥無がむすっとした声を上げる。
「僕は雌(やはりそうだったのか)なので、あなたの発言はセクハラになる。あなたこそ、この国の狸の置物にそっくりだ」
「あん? 金玉だしてないだろ。生意気な異形に、玉袋より楽しいものを見せてやる」
麻卦さんが手のひらをひろげる。……冥紳の輪をだすつもりだ。
「執務室長、こいつは上海在住のチベット黒貉のハラペコで、一部からは露泥無と呼ばれている。やかましいから放置するのがベストだが」
思玲も立ちあがる。「まずは瑞希と桜井に会いたいので影添大社に行かせてもらう」
「俺は川田のアパートに行くよ。匿われていない二人こそ心配だから」
ポケットから天珠をだす。「日本に戻ったから、これで琥珀と連絡が取れる」
「よこせ」
当然のように思玲が手を伸ばす。渡すしかない。
「東京の夜に異形を呼ぶ魔道具を使うな。それとだな、
「どっちにしろ俺は入れないですよね」
俺は執務室長に言う。異形は昼間だろうと影添大社に入れてもらえない。
「私もか? 影添大社ともっとも友好的な台湾魔道士だぞ」
陰ではぼろくそだった思玲が言うけど。
「折坂が怒るぞ」
同じセリフで済ませて、麻卦さんが周囲を見まわす。
「この広い土手は荒川だから足立区だ。社まで歩いたら一時間……埼玉側じゃないか。千住新橋を歩いて渡れるかよ。
俺は迎えを呼ぶ。お前達は“手負いの獣人”のもとに行くべきだろうな」
麻卦さんが夜空を見上げるので、俺まで見てしまう。懐かしく感じてしまう上弦の半月が浮かんでいた……。満月まであと八日か。
「折坂って、あの融通がきかなそうな獣人だよな」
思玲がそそくさと天珠をポケットにしまい「藤川匠の所在は分かっているのか?」
俺へと尋ねる。
「分かっていたら呑気に過ごしません」
高校生ぐらいの姿相手だから、どうも敬語がしっくりこない。子どもの思玲よりはましだけど。
「さらに生意気になっていないか? ところで麻卦さん。私の式神に大燕がいる。あの馬鹿は私が日本に戻ったことに気づく。なのに現れない。所在を知っているか?」
「ボランティアで運転してくれたぜ。大蔵司と温泉に寄ると言っていたが、さすがにもう帰っているよな」
「温泉? よその魔道士と?」
「俺達は魔道士じゃない。陰陽士だよ。で、あのペンギン燕は思玲ちゃんのものだったんだ。なんだか独立独歩な異形だったな」
「麻卦さん、俺達にも車をだしてもらえますか?」
思玲の怒りが増長する前に告げる。荒川の向こう側から川田の家まで歩くなど、時間が見当つかない。
「もちろんさ」と麻卦さんがスラックスの前ポケットからスマホをだす。術をかけてあるポケットか。あそこに死者の書もしまわれているのだろうか……。
「どうも嫌な感じがする」
華奢な女の子が俺の横で声を潜める。
「露泥無は何故に深圳にいたの?」
肝心なことを聞いていなかった。聞く時間もなかったけど。
「そりゃ前回と同じ任務のためさ」
つまり覗きか。「大姐からの
「藤川匠を見つけたら、大姐が来るのか?」
「もちろん。おそらくデニー様もだ」
俺達の記憶を消した張本人も現れるのか。思玲、麻卦さん、俺、雅が無抵抗にやられたのだから驚くほどに強いのだろう……。麻卦さんだけは何があったかを知っている。封じた鹿達から聞いている。
「陰陽士は異形を車や魔道具に封印するだろ? 具体的にどういうこと?」
「この状況でそれを尋ねることこそ松本だな。無機質のものに異形の魂を宿らせて異界の力を授ける。とくに変わったことではない」
充分に変わっているが、それを言いだせば俺が関わる全てがおかしい。いまの俺こそが。
「五分後に一台到着する。俺はタクシーで帰る。車道に出ようぜ。……上海の貉さんか。あんたの噂は聞いているよ。若いのにさぞ賢いのだろうね」
麻卦さんが電話を終わるなり歩きだす。
「明日は何時に顔をだせばいい?」
思玲が執務室長の横に並び尋ねる。
「陽が昇るなりどうぞ。松本君はダメだけどね」
「琥珀と九郎も中には入れないのですか?」
「もちろん。人以外は隣の公園までだ」
「なんだか瑞希と桜井が人質みたいだな」
思玲が車道へのコンクリート製の階段を登りながら言う。「それはさておき怪我を負わせて申し訳なかった」
「俺こそ悪かったな。ほんとうに悪かった」
麻卦さんはそう言うと、場所を指図するためにスマホでまた電話する。
俺はこの人にとりわけ悪意を持ってない。得体のしれぬ異形な俺とごく普通に接してくれた。
「僕は影添大社に忍びこむ。桜井と横根に告げることはあるか?」
横に並ぶ女の子が俺にだけ聞こえる声で言う。覗きのためにはリスクを問わないのか。
「思玲が戻ってきたと伝えて」
俺が女子二人と会ったところで言葉を交わせない。俺は彼女達に見えない存在。しかも片方には忘れられた存在。
「分かった」と、女の子はまた闇と化す。
思玲を取りもどすという、最初の仕事は終わった。ここから先の順番は、川田を人に戻す。ドーンを人に戻す。夏奈から龍の資質を抜かす。横根の削れた魂を戻す。そして俺が人に戻る……。思玲はどうするのだろう? その時が来たら彼女の望む道に付き合うに決まっている。
そのために邪魔になるものは手加減せずに対処してやる。藤川匠、峻計、土壁、貪。こいつらが現れる気がしてならない。そのために頼りになるのは――俺達よりはるかに強い魔道士達はいるけど……胸騒ぎしまくる。頼れるのは俺達五人と思玲だけに決まっている。でも、もう一人あげるとしたら……。
プ、プーとクラクションがして、今朝方乗ったピンク色のワンボックスカーがもたもた現れた。
*
「スーリンちゃんはやっぱり美人になったね。発育早すぎだけど」
運転席から降りた大蔵司がにっかり笑う。実情を知っていようが超常現象を容易く受け入れる。
「思玲と漢字で呼べ。それと私の式神を知らぬか?」
「それより俺を治療しろ。トラブルがあった」
「琥珀ちゃんは今日は見かけなかったな。九ちゃんは野暮用があるからスーリンちゃんに会えないって。そんで麻卦さん、その傷に邪を感じませんので治癒は無理です。どこで受けたのですか?」
「忘れた」
大蔵司は麻卦さんの太鼓腹を一瞥しただけだが、彼女には義憤の血の力があった。星がレジェンドの折坂さんといい、影添大社こそ侮りがたい。
「とにかくあの馬鹿どもは主である私を避けている。つまり大蔵司が運転するのか? ガラガラの駐車場でこすりかけたよな」
「ガソリン代だしてくれたら台輔に任せるよ」
「そうしてくれ。麻卦さん、龍退治の前金は?」
「治癒せぬ腹の火傷は気にしなくても、そちらは覚えているのか。大蔵司、金を渡してやれ」
「了解です。はい五百万円。台輔に運転させるならば、そこから二万円ちょうだい」
大蔵司が俺へと帯封された一万円札を五つ渡す……浄財じゃないか。でも。
「こんなにいらない。預けておく」
一束だけをシャツの中にしまう。
「松本君はそんな芸当ができたのか」
麻卦さんに感心される。
「ではこれを預かってくれ。社に入れるのを折坂が嫌がるから、見つかるとうるさい。というか絶対にばれるからな」
麻卦さんがポケットに手を突っ込む。死者の書が現れる――。
「南京に返していないのか。……高額品だよな? 哲人に持たせておくのが一番安全だ」
思玲は書を怖れない。
「はやく乗って。場所を台輔に教えてあげてね」
大蔵司に急かされて、思玲と雅が後部座席に乗りこむ。俺へと助手席が開く。死者の書を抱えて乗りこむ。
「あばよ」
背中を向けた麻卦さんが手を振り大通りへと歩く。
ピンクの車が動きだす。露泥無はいない。
次回「めくってはいけない」