四十の二 フルムーン前夜祭
文字数 5,281文字
4-tune
「俺様は満月系なのに心を読めるぜ。それが前夜に空にいれば、こんなこともできる」
遠く離れた貪の声が、脳みそにダイレクトで飛びこんでくる。
「クソみたいな天珠は役に立たない。ドロシー大好き、ドロシー怖い。夏梓群一色のお前の心はすべて読めるぜ、ゲヒゲヒゲヒ」
これは惑わしだ。ただ単に心の声を遠く飛ばせるだけで、俺の思いを推測して心理攻撃を仕掛けているだけだ。
そう思いたい。そうでなければ絶対に勝てない。だとしても、はったりならば勝てる。
「ドロシーが賢者の石を持っている。じきに合流する。そしたらお前は終わりだ」
じつは行方不明なんて心に浮かべない……浮かんでいるよな。
「間抜けの松本と違い、私の心は読まれない。心にも強固な結界を張っているからだ。満月前夜ともなれば、私に乗るものの心にさえな」
俺を乗せる殲がドヤ声で言う。
「だったら俺はリスクを負わないぜ。松本が封じる天珠を持ってなくてもな。蛇がいなけりゃ追えないだろ、ゲヒゲヒヒ」
その巨体が消える。
「デニー様がつけた印が気付かれていない」
殲が低重音でほくそ笑む。「追跡再開だ」
俺達は姿隠しの結界に閉ざされる。……あれ?
「護符の発動が弱い」
「ああ。最初と同じだ。私の結界が破壊されない」
だったら、さきほどの激しい発動は貪に対してでない……?
「殲が俺の心にしてくれた結界も、お天狗さんに壊されない」
「私は満月だろうとそんなことはできない。つまり大嘘だ。私も松本も貪もな」
つまり……貪もブラフで、俺が奴を封じられるかを確認する惑わしだったのか。
スクランブル発進しただろう軍用機が見えた。貪にやられなくてよかったな。俺の心も。
「作戦はあるのか?」
殲が尋ねてくる。……撤退する気が皆無ならば。
「貪に接近する。そして波動で俺を貪へ飛ばす。火伏せの護符を押しつける」
「それだけで倒すのは不可能だろ。私相手でも無理だ」
軍用機は陸へ飛び去る。聞いてはいたけど、この国は人がいないと思うほど真っ暗だな。
前夜祭のごとく晴れた異国の夜空。満ちる間際の月は黄色い。その模様もはっきりと見える。見えない貪が見えるはずなく、俺と殲を待ちかまえているか知りようない。
だけど貪は臆病だ。臆病な俺との勝負さえ避ける。
「貪はなんで恐れられる?」
逃げてばかりの龍を追いながら尋ねる。強いから? 知恵があるから? 足りない気がする。
「たっぷり人を喰ったから」
殲が答える。「よみがえるたびに人をたらふく食べたから。しかも人の目にさらされた姿で昼間から襲う。藤川匠に従わなければ、何百人も喰われたかもな」
殲は日中に町を襲った。橋を壊し、炎をまき散らし、たやすく二十人近くを殺した。行方不明者には食べられた人もいるかもしれない……。
峻計は藤川匠を裏切った。貪は自分を部外者と言っていた。
人の命をはかるなんて、俺にはできない。そうだとしても、ドロシーを救うのと同じぐらい大事なことは、いつ野放しになるか分からぬ邪龍を倒すこと。明日の夜には復活するなら、また明日も殺せばいい。
それを避けたいならば。
「貪の心臓を喰えば、奴はもう復活しない」
「ああ。だがそいつも猛毒で死ぬ。もしくは龍の力を得る」
意外に賢い翼竜さんも、老大大と同意見……ではない。龍の力?
「それがあれば、川田は人に戻れる?」
「分からない。俺、違った私ならば勧めない」
翼竜も龍だとして、それの意見は尊重すべきかも。もしくは川田より強い誰かが試す。俺は辞退するけど、そのためには。
「策はあるか?」
「私は頭でっかちの貉でない…………龍との戦い方を露泥無に尋ねたことがある。それならばうまくいくかもしれない」
**デニー**
小柄な彼女は私を支えることできず、しゃがみこんでしまう。早くここを逃れたいのに。
「あなたに癒しをします。なので目を閉じてください」
くりっとした瞳。清純な顔立ち。日本アニメから飛びでたような横根瑞希がまっすぐに見つめてくる。
「それがどういうものか知っているか?」
私の問いに、彼女は目をそらす。それでもおぞましい魔道具を握りしめながら、忌むべき声を飛ばしてくる。
「……松本君はドロシーから受けて、人として受けた傷が全快しました。あの人にできるならば、私にもできます。痛みを消すだけなんかでないです」
夏梓群への対抗心――むしろ敵対心に近いものが、言葉からにじみでている。
人が他の者の傷を治す。それは究極の妖術だ。あの子にはできるのか……。この子にできるはずがない。だが痛みを忘れさせるぐらいはたやすいだろう。
「それを頂戴するのは、歩けなくなってからだ。まずはここをでよう」
私は自力で立ち上がる。銀丹を惜しみなく使ったのだから、ただの人でない私なら生き延びる。病院に向かいたい願望を抑えてみせる。言えるのは、ここにいてはいけない。いずれ騒ぎになる。なによりこのフロアは穢れすぎた。
彼女は気づかないけど、気を失った人にまぎれて、峻計に殺された骸 が五体ある。そんな場所には百鬼が集う……ほら見ろ。影がにじりよってきた。
「ひっ」
「気を張っていろ」
私は横根瑞希を抱き寄せる。
「あら、パーティは終わっちゃったの?」
影が実体化していく。人の姿になる。
「息子が解放されたみたいだから、わざわざ冥界から来たのに。我が子とひさしぶりに交わるためにね」
カールがかった長いブロンズヘアに青い瞳。赤いドレス。三十代ぐらいの白人女性だ。背丈が190センチ近いのに、華奢に思わせる佇まいの美女。その肌は青白いなんてものじゃない、透けるほどだ。唇だけが赤い。
「……英語? 外国人の霊?」
横根が小声で聞いてくる。
「西洋の死人 だ。生きた人の血を求めるおぞましい化け物だ」
またも私の失態だ。致命的判断ミスだ。
白人女がホールの匂いを嗅ぐ。
「……息子は消されたようね。地上にでるのは久しぶりだけど、いつの世にも力ある祓いの者はいる。私はそんな化け物の相手はしない。冥界に帰ってひっそりと過ごすわ。そこそこ強い力を持つあなた達の血と肉をいただいてから」
女吸血鬼が口をあけて笑い、犬歯がむき出しになる。
「私の眷属と一緒にね」
また影が床から浮かび上がり、ただれた皮膚の飛竜が具現する。馬ほどの体で顔は雄鶏――こいつはコカトリスではないか。
「デ、デニーさんは戦ってはいけない」
横根瑞希が私に抱えられながら必死に言う。
「わ、私が守るから、絶対に」
私達は清純な結界に包まれる。
**松本哲人**
俺はお天狗さんの木札を握っている。怒りを込めれば武器になる。でも強いものには効果が薄い。おそらく貪にも。それでいて神聖な護符を穢してしまう。
ぐだぐだ考えていられるか。
「分かった。それで行こう」
弱まるまで押しつければいい。もしくは白虎のときみたいに殴ればいい。峻計のときみたいに何度も何度も。
「ではマッハ2.2まで速度をあげる。デニー様のつけた印にたどり着くのは十秒後だ。松本は俺の鼻先に来い。喰っちまわないけどな」
俺は殲の頭上を這い、その先端へと向かう。こいつは意外に口(くちばし?)が小さいので、まさに鼻先にぶら下がる感じ。
「十、九、八……」
即座にカウントダウンを始めやがる。くしゃみするなよ。
いまから俺は、露泥無の描いた作戦通りに、こいつの波動で空高くをロケット弾のように飛ぶ。そして貪に体当たりして、木札をぶつける。それは陽動で……俺はなんでこんなことをする?
真下の暗闇は海じゃないよな。陸地だよな。海なら俺は貪にしがみつけないと海底まで沈む。
「五、四、三……」
やめろよ。秒読みを止めてくれ。……ドロシー。
ドロシー助けて。ドロシーお願い。ドロシードロシードロシードロシー!
「ドロシー!!!!!」
「一、零」
結界が消え、マッハ2・2が引き起こす風をまともに受ける。同時に殲が口を広げ、お天狗さんの木札が発動する。
猛烈な向かい風を貫く波動とともに、俺は翼竜から離れる。……遠くに大陸が見えた。海岸だけが明るい。
**デニー**
二本脚のコカトリスが私達へ紫毒を吐く。日本生まれの矮小種だろうと、即死レベルの猛毒だ。結界がひび割れただけで、私と横根瑞希は終わりだ。
「知恵足らずめ。跳ね返されて、私のドレスが汚れただろ」
女吸血鬼がコカトリスへ鞭をうならせる。人の目に見える醜い雄鶏の異形が悲鳴をあげる。
こいつらは冥界に封じられていたのだろう。それが現れるとは、人と異形の世界のバランスが崩れだしたのかもしれない。藤川匠という存在だけで?
「私はグルメじゃないから、あっちで寝ている人で充分満足。お前にも肉を食わせてやる」
吸血鬼とコカトリスが人々へ向かおうとする。
「や、やめて!」
横根が叫んだ。
「止まれ! ボケ、カス、スカ、デッパ、デブ、ハゲ、止まれ!」
なんて下品な語彙だ。おかげで吸血鬼が邪鬼の形相で振り向いた。女の姿の異形は誇り高いものが多い。
「私がデブだと? 出っ歯はお前達だろ。……殺してから四つに裂いてやる」
女吸血鬼が鞭をしならせる。
「まずは結界を砕いてやる。そしたらヅゥネはくちばしを突っ込め。毒をたっぷり吐いてやれ」
コカトリスが鬨をあげて答える。
つまり私達の勝ちだ。
「ヅゥネというのか。名の意は伝わらぬが、ニョロ子よりましだ」
私は結界越しにコカトリスの目を見つめる。
「もとの主を殺せなど言わぬから心配するな。毒をたっぷりとかけてやれ。まわりに漏れないようにだぞ」
いきなりコカトリスが、主人であった女吸血鬼の顔をくわえて持ちあげる。くちばしからは、悲鳴も毒も漏れてこない。
数秒で、吸血鬼の四肢が垂れる。
「こいつらは、こんなことで死なない。灰になろうが復活する。だが、今夜は封じるまでもない」
固唾を飲む横根瑞希へ告げる。
「君は結界をはずせ。ヅゥネはくちばしが疲れただろ。そいつを落とせ」
主人だった女吸血鬼がどさりと落とされる。
私は、毒の仕業で紫色に変色した白人女の姿へと扇をはらう。一度だけ痙攣する。
横根へと顔を向ける。
「記憶消しの術は、気を失わすことに応用できる。ほかにもアレンジ可能な術はある。分かるか?」
「はい? い、いいえ」
「弔いの祈りだ。死人であるこいつにかけてやれ」
私は立ちあがる。脇腹を抑えるのを我慢する。
コカトリスは棒立ちしている。こいつは忌むべき異形だ。いままでならば無抵抗のまま処分していた。いまの私には、人の目に見えるこいつを倒す術 がない。吸血鬼にしてもだ。だが彼女ならば、無抵抗の死人を完全に消滅できる。
「……分かりました」
横根瑞希が私を見上げたあと、床を這うように進む。白目をむいて倒れたままの人の姿をした異形へ、胸もとの珊瑚を当てる。
「私には憎むべきものがいます……。許せないものもいます。……そいつが苦しみ消えるのを見届けます。消え去るものが、なおも私達の怒りや悲しみを引きずらぬように」
清純な祈りを浴びて、意識なき吸血鬼がもだえだす。
横根瑞希は感情を混ぜることなく祈りを繰りかえす。
「私には憎むものがいます。それ以上に守りたい人達がいます。彼らに災いが届かぬように、敵であったものが苦しみ消えるのを見届けます。その魂が地の底へ引きずられぬように……」
「や、やめろ……」
白人女性の姿をした死人が、断末魔となり眼球をむき出しにする。長い爪が生えた手を横根に向けながら、かすんでいく。
「もう復活できない。息子と会えないのは仕方ないことだ」
私は日本のコンビニで買った140円もするライターで煙草に火をつける。
「横根君。私に癒しは不要だ。私も溶けるかもしれない」
くすりと笑う。それだけでうめきたいほど脇腹が痛む。
**松本哲人**
俺はミサイルだ。俺は硬い甲羅の玄武だ。俺は木札を前へと伸ばす。
貪は見えない。デニーのつけたマーキングだって分からない。でもお天狗さんは怒っている。じきに衝突する禍々しき存在へ
ドゴオオオン
いきなり衝撃。
俺は貪の結界を突き破る。火伏せの護符を持つ腕が折れるほどに、激しく何かに衝突する。
だけど痛くない。折れてない。
「ぐぎゃああああ!!!」
貪が悲鳴をあげる。その醜悪な姿があらわになっていく。……ジャンボ機さえ子どもに見える。闇空の貪は、まるで暗黒の天の川だ。
俺は貪へとしがみつく。護符を握る手で殴りつける。
「これは俺達の心だ!」
「松本哲人め……」
貪は悲鳴を飲みこむ。
「俺様は明の時代に魔道士どもと何度も戦った。だからお前の狙いは、心が読めずとも分かる。身を挺して俺様の口に飛びこむのか? それとも、お前が囮になり、貧相な翼竜が波動を俺の口へぶち込むのか?
そんで心臓を食べるのか? 死ぬぞ」
……後者だ。
貪は百戦錬磨だ。すべてお見通しだ。でも肝は食わない。
「浅知恵だ。そんなお前と踊ってやるぜ」
貪がみるみるしぼんでいく……人の姿にまで小さくなる。
俺は夜空で褐色肌の男と抱きあっていた。護符は発動している。
次回「ダンスパートナー」
「俺様は満月系なのに心を読めるぜ。それが前夜に空にいれば、こんなこともできる」
遠く離れた貪の声が、脳みそにダイレクトで飛びこんでくる。
「クソみたいな天珠は役に立たない。ドロシー大好き、ドロシー怖い。夏梓群一色のお前の心はすべて読めるぜ、ゲヒゲヒゲヒ」
これは惑わしだ。ただ単に心の声を遠く飛ばせるだけで、俺の思いを推測して心理攻撃を仕掛けているだけだ。
そう思いたい。そうでなければ絶対に勝てない。だとしても、はったりならば勝てる。
「ドロシーが賢者の石を持っている。じきに合流する。そしたらお前は終わりだ」
じつは行方不明なんて心に浮かべない……浮かんでいるよな。
「間抜けの松本と違い、私の心は読まれない。心にも強固な結界を張っているからだ。満月前夜ともなれば、私に乗るものの心にさえな」
俺を乗せる殲がドヤ声で言う。
「だったら俺はリスクを負わないぜ。松本が封じる天珠を持ってなくてもな。蛇がいなけりゃ追えないだろ、ゲヒゲヒヒ」
その巨体が消える。
「デニー様がつけた印が気付かれていない」
殲が低重音でほくそ笑む。「追跡再開だ」
俺達は姿隠しの結界に閉ざされる。……あれ?
「護符の発動が弱い」
「ああ。最初と同じだ。私の結界が破壊されない」
だったら、さきほどの激しい発動は貪に対してでない……?
「殲が俺の心にしてくれた結界も、お天狗さんに壊されない」
「私は満月だろうとそんなことはできない。つまり大嘘だ。私も松本も貪もな」
つまり……貪もブラフで、俺が奴を封じられるかを確認する惑わしだったのか。
スクランブル発進しただろう軍用機が見えた。貪にやられなくてよかったな。俺の心も。
「作戦はあるのか?」
殲が尋ねてくる。……撤退する気が皆無ならば。
「貪に接近する。そして波動で俺を貪へ飛ばす。火伏せの護符を押しつける」
「それだけで倒すのは不可能だろ。私相手でも無理だ」
軍用機は陸へ飛び去る。聞いてはいたけど、この国は人がいないと思うほど真っ暗だな。
前夜祭のごとく晴れた異国の夜空。満ちる間際の月は黄色い。その模様もはっきりと見える。見えない貪が見えるはずなく、俺と殲を待ちかまえているか知りようない。
だけど貪は臆病だ。臆病な俺との勝負さえ避ける。
「貪はなんで恐れられる?」
逃げてばかりの龍を追いながら尋ねる。強いから? 知恵があるから? 足りない気がする。
「たっぷり人を喰ったから」
殲が答える。「よみがえるたびに人をたらふく食べたから。しかも人の目にさらされた姿で昼間から襲う。藤川匠に従わなければ、何百人も喰われたかもな」
殲は日中に町を襲った。橋を壊し、炎をまき散らし、たやすく二十人近くを殺した。行方不明者には食べられた人もいるかもしれない……。
峻計は藤川匠を裏切った。貪は自分を部外者と言っていた。
人の命をはかるなんて、俺にはできない。そうだとしても、ドロシーを救うのと同じぐらい大事なことは、いつ野放しになるか分からぬ邪龍を倒すこと。明日の夜には復活するなら、また明日も殺せばいい。
それを避けたいならば。
「貪の心臓を喰えば、奴はもう復活しない」
「ああ。だがそいつも猛毒で死ぬ。もしくは龍の力を得る」
意外に賢い翼竜さんも、老大大と同意見……ではない。龍の力?
「それがあれば、川田は人に戻れる?」
「分からない。俺、違った私ならば勧めない」
翼竜も龍だとして、それの意見は尊重すべきかも。もしくは川田より強い誰かが試す。俺は辞退するけど、そのためには。
「策はあるか?」
「私は頭でっかちの貉でない…………龍との戦い方を露泥無に尋ねたことがある。それならばうまくいくかもしれない」
**デニー**
小柄な彼女は私を支えることできず、しゃがみこんでしまう。早くここを逃れたいのに。
「あなたに癒しをします。なので目を閉じてください」
くりっとした瞳。清純な顔立ち。日本アニメから飛びでたような横根瑞希がまっすぐに見つめてくる。
「それがどういうものか知っているか?」
私の問いに、彼女は目をそらす。それでもおぞましい魔道具を握りしめながら、忌むべき声を飛ばしてくる。
「……松本君はドロシーから受けて、人として受けた傷が全快しました。あの人にできるならば、私にもできます。痛みを消すだけなんかでないです」
夏梓群への対抗心――むしろ敵対心に近いものが、言葉からにじみでている。
人が他の者の傷を治す。それは究極の妖術だ。あの子にはできるのか……。この子にできるはずがない。だが痛みを忘れさせるぐらいはたやすいだろう。
「それを頂戴するのは、歩けなくなってからだ。まずはここをでよう」
私は自力で立ち上がる。銀丹を惜しみなく使ったのだから、ただの人でない私なら生き延びる。病院に向かいたい願望を抑えてみせる。言えるのは、ここにいてはいけない。いずれ騒ぎになる。なによりこのフロアは穢れすぎた。
彼女は気づかないけど、気を失った人にまぎれて、峻計に殺された
「ひっ」
「気を張っていろ」
私は横根瑞希を抱き寄せる。
「あら、パーティは終わっちゃったの?」
影が実体化していく。人の姿になる。
「息子が解放されたみたいだから、わざわざ冥界から来たのに。我が子とひさしぶりに交わるためにね」
カールがかった長いブロンズヘアに青い瞳。赤いドレス。三十代ぐらいの白人女性だ。背丈が190センチ近いのに、華奢に思わせる佇まいの美女。その肌は青白いなんてものじゃない、透けるほどだ。唇だけが赤い。
「……英語? 外国人の霊?」
横根が小声で聞いてくる。
「西洋の
またも私の失態だ。致命的判断ミスだ。
白人女がホールの匂いを嗅ぐ。
「……息子は消されたようね。地上にでるのは久しぶりだけど、いつの世にも力ある祓いの者はいる。私はそんな化け物の相手はしない。冥界に帰ってひっそりと過ごすわ。そこそこ強い力を持つあなた達の血と肉をいただいてから」
女吸血鬼が口をあけて笑い、犬歯がむき出しになる。
「私の眷属と一緒にね」
また影が床から浮かび上がり、ただれた皮膚の飛竜が具現する。馬ほどの体で顔は雄鶏――こいつはコカトリスではないか。
「デ、デニーさんは戦ってはいけない」
横根瑞希が私に抱えられながら必死に言う。
「わ、私が守るから、絶対に」
私達は清純な結界に包まれる。
**松本哲人**
俺はお天狗さんの木札を握っている。怒りを込めれば武器になる。でも強いものには効果が薄い。おそらく貪にも。それでいて神聖な護符を穢してしまう。
ぐだぐだ考えていられるか。
「分かった。それで行こう」
弱まるまで押しつければいい。もしくは白虎のときみたいに殴ればいい。峻計のときみたいに何度も何度も。
「ではマッハ2.2まで速度をあげる。デニー様のつけた印にたどり着くのは十秒後だ。松本は俺の鼻先に来い。喰っちまわないけどな」
俺は殲の頭上を這い、その先端へと向かう。こいつは意外に口(くちばし?)が小さいので、まさに鼻先にぶら下がる感じ。
「十、九、八……」
即座にカウントダウンを始めやがる。くしゃみするなよ。
いまから俺は、露泥無の描いた作戦通りに、こいつの波動で空高くをロケット弾のように飛ぶ。そして貪に体当たりして、木札をぶつける。それは陽動で……俺はなんでこんなことをする?
真下の暗闇は海じゃないよな。陸地だよな。海なら俺は貪にしがみつけないと海底まで沈む。
「五、四、三……」
やめろよ。秒読みを止めてくれ。……ドロシー。
ドロシー助けて。ドロシーお願い。ドロシードロシードロシードロシー!
「ドロシー!!!!!」
「一、零」
結界が消え、マッハ2・2が引き起こす風をまともに受ける。同時に殲が口を広げ、お天狗さんの木札が発動する。
猛烈な向かい風を貫く波動とともに、俺は翼竜から離れる。……遠くに大陸が見えた。海岸だけが明るい。
**デニー**
二本脚のコカトリスが私達へ紫毒を吐く。日本生まれの矮小種だろうと、即死レベルの猛毒だ。結界がひび割れただけで、私と横根瑞希は終わりだ。
「知恵足らずめ。跳ね返されて、私のドレスが汚れただろ」
女吸血鬼がコカトリスへ鞭をうならせる。人の目に見える醜い雄鶏の異形が悲鳴をあげる。
こいつらは冥界に封じられていたのだろう。それが現れるとは、人と異形の世界のバランスが崩れだしたのかもしれない。藤川匠という存在だけで?
「私はグルメじゃないから、あっちで寝ている人で充分満足。お前にも肉を食わせてやる」
吸血鬼とコカトリスが人々へ向かおうとする。
「や、やめて!」
横根が叫んだ。
「止まれ! ボケ、カス、スカ、デッパ、デブ、ハゲ、止まれ!」
なんて下品な語彙だ。おかげで吸血鬼が邪鬼の形相で振り向いた。女の姿の異形は誇り高いものが多い。
「私がデブだと? 出っ歯はお前達だろ。……殺してから四つに裂いてやる」
女吸血鬼が鞭をしならせる。
「まずは結界を砕いてやる。そしたらヅゥネはくちばしを突っ込め。毒をたっぷり吐いてやれ」
コカトリスが鬨をあげて答える。
つまり私達の勝ちだ。
「ヅゥネというのか。名の意は伝わらぬが、ニョロ子よりましだ」
私は結界越しにコカトリスの目を見つめる。
「もとの主を殺せなど言わぬから心配するな。毒をたっぷりとかけてやれ。まわりに漏れないようにだぞ」
いきなりコカトリスが、主人であった女吸血鬼の顔をくわえて持ちあげる。くちばしからは、悲鳴も毒も漏れてこない。
数秒で、吸血鬼の四肢が垂れる。
「こいつらは、こんなことで死なない。灰になろうが復活する。だが、今夜は封じるまでもない」
固唾を飲む横根瑞希へ告げる。
「君は結界をはずせ。ヅゥネはくちばしが疲れただろ。そいつを落とせ」
主人だった女吸血鬼がどさりと落とされる。
私は、毒の仕業で紫色に変色した白人女の姿へと扇をはらう。一度だけ痙攣する。
横根へと顔を向ける。
「記憶消しの術は、気を失わすことに応用できる。ほかにもアレンジ可能な術はある。分かるか?」
「はい? い、いいえ」
「弔いの祈りだ。死人であるこいつにかけてやれ」
私は立ちあがる。脇腹を抑えるのを我慢する。
コカトリスは棒立ちしている。こいつは忌むべき異形だ。いままでならば無抵抗のまま処分していた。いまの私には、人の目に見えるこいつを倒す
「……分かりました」
横根瑞希が私を見上げたあと、床を這うように進む。白目をむいて倒れたままの人の姿をした異形へ、胸もとの珊瑚を当てる。
「私には憎むべきものがいます……。許せないものもいます。……そいつが苦しみ消えるのを見届けます。消え去るものが、なおも私達の怒りや悲しみを引きずらぬように」
清純な祈りを浴びて、意識なき吸血鬼がもだえだす。
横根瑞希は感情を混ぜることなく祈りを繰りかえす。
「私には憎むものがいます。それ以上に守りたい人達がいます。彼らに災いが届かぬように、敵であったものが苦しみ消えるのを見届けます。その魂が地の底へ引きずられぬように……」
「や、やめろ……」
白人女性の姿をした死人が、断末魔となり眼球をむき出しにする。長い爪が生えた手を横根に向けながら、かすんでいく。
「もう復活できない。息子と会えないのは仕方ないことだ」
私は日本のコンビニで買った140円もするライターで煙草に火をつける。
「横根君。私に癒しは不要だ。私も溶けるかもしれない」
くすりと笑う。それだけでうめきたいほど脇腹が痛む。
**松本哲人**
俺はミサイルだ。俺は硬い甲羅の玄武だ。俺は木札を前へと伸ばす。
貪は見えない。デニーのつけたマーキングだって分からない。でもお天狗さんは怒っている。じきに衝突する禍々しき存在へ
ドゴオオオン
いきなり衝撃。
俺は貪の結界を突き破る。火伏せの護符を持つ腕が折れるほどに、激しく何かに衝突する。
だけど痛くない。折れてない。
「ぐぎゃああああ!!!」
貪が悲鳴をあげる。その醜悪な姿があらわになっていく。……ジャンボ機さえ子どもに見える。闇空の貪は、まるで暗黒の天の川だ。
俺は貪へとしがみつく。護符を握る手で殴りつける。
「これは俺達の心だ!」
「松本哲人め……」
貪は悲鳴を飲みこむ。
「俺様は明の時代に魔道士どもと何度も戦った。だからお前の狙いは、心が読めずとも分かる。身を挺して俺様の口に飛びこむのか? それとも、お前が囮になり、貧相な翼竜が波動を俺の口へぶち込むのか?
そんで心臓を食べるのか? 死ぬぞ」
……後者だ。
貪は百戦錬磨だ。すべてお見通しだ。でも肝は食わない。
「浅知恵だ。そんなお前と踊ってやるぜ」
貪がみるみるしぼんでいく……人の姿にまで小さくなる。
俺は夜空で褐色肌の男と抱きあっていた。護符は発動している。
次回「ダンスパートナー」