二十八の二 座敷わらしと隻眼の狼
文字数 3,395文字
横根がコンビニに入る。黄玉は躊躇して入口で彼女を待つ。
やはり珊瑚の玉をいやがる程度の悪鬼だ。俺だって鬼を馬鹿になどできない。ただでさえ力がないのに、店舗の明かりに照らされた路上になど降りられない。
人の明かりを背に受けながら、鬼がしゃがみこむ。駆けてきた男性にぶつかりよろめく。開いた自動ドアからの冷気に身震いする。
俺も似たようなものだった。これを見越して、思玲は桜井とともに横根を守れと言ったのか。……思玲の思いつきでうまくいったことなど、昨日からあっただろうか。
それでも俺は懐から草鈴を取りだす。やっぱり俺は人でなしだ。
チリチリチリ、チルリリ……
思玲と桜井が幾度となく吹いた草鈴を奏でさせる。伝えたいことを込める。
『横根は人に戻った。でもまだ危険だ。川田はさらに危ない状況だ。桜井には逃げていてほしいけど、俺は川田も横根も守りたい。夏奈に助けてもらいたい』
どさくさにまぎれて下の名で呼ぶ。笛の音が聞こえたならば、彼女はなにがあろうと来る。一年ちょっと、ずっと夏奈を見てきた俺には分かる。問題は彼女が今どこにいるかだ。一番近いJRの駅でも、俺の笛の音はとても届きそうにない。
*
横根が店からでる。黄玉が手をついて立ちあがる。横根は早歩きですたすたと行く。尾行する鬼はあきらかに元気がない。
川田のアパートがあるT字路を車道の向かいに見る。人ごみのなか、俺も横根も鬼も無言で進む。横根はパチンコ屋の前のティッシュ配りを軽やかに避ける。鬼は歩調を合わせられず、店員と衝突してふわりとよろめく。パチンコ屋のドアが開き、あふれだした騒音に怯える。
こいつは人よりも弱っているな。俺と同じで消え去るさだめの異形だ……。
「喰らえ!」
卑怯だとか言っていられない。急降下して黄玉の背中を蹴っとばす。鬼はよろめきながらパチンコ屋に転がりこむ。
自動ドアが閉まり、鬼の絶叫が途絶える。
横根はなにも気づかず歩き続ける。俺は彼女の背後に高く浮かびながら、ちょくちょくと後ろを振り返る。峻計は現れない。また草鈴を吹く。思玲と行ったディスカウントストアも通り過ぎる。夏奈聞こえるかと、もう一度草鈴を吹く。
駅までもうすこし。あそこに入れば一安心かな。構内も電車も人の明かりだらけだから、ここから先は彼女と珊瑚に頑張ってもらうしかない。俺にだって人に戻るためにやるべきことがある……。現実逃避が終わってしまう。
*
駅前の広場にたどり着く。土曜の夜のざわめきの中で、指を鳴らす音が聞こえた。振り向くと、薄らいだ黄玉が這いつくばり人に踏まれ、恨めしそうに俺を見ていた。
鬼が俺の背後を見つめる。俺も顔を前に向ける。
あいつの衣装は変わっていた。黒いスキニーにマリンブルーな光沢のブラウス。踵の高い赤いヒールが不釣り合いだ。
急いでと、俺は草鈴をもう一度吹き懐にしまう。
あいつは横根の前に立ちふさがる。手を握られた横根が歩みをとめる。青ざめた俺を見て、人の明かりに照らされた桜の枝葉が笑う。
「誰かがガラスを割ったうえに、思玲が警報を作動させたわ。おかげで鬼と魔道士と人が入り混じっての大混乱。琥珀が死体を隠しておいたのが救いね」
あいつは小刀だけを握っていた。
「あなたの言ったとおり、自分の命より猫を守りたいそうよ。人の心はね」
あいつがまた指を鳴らす。大きな黒い狼が現れる。周囲から悲鳴があがる。
「手負いの獣がいるなら、俺は陰に行っていいか?」
鬼が体を引きずり、あいつのもとへと向かう。
「もうすこし見届けな。リクト、かかれ」
あいつは狼へと目を落とす。
あいつの企みが許せない。俺への残虐な仕返しに、川田に横根を襲わせる。俺は広場へと全力で降りる。
「……強い心だね」
峻計が顔をゆがませる。狼は横根へとうなり声をかけるだけだ。横根は蝋人形のように身動きしない。駅前にたむろする人間の好奇な目にさらされるだけだ。
「リクト、襲え!」峻計が狼をこづく。
俺は狼の顔に飛びつく。残された目をふさぐ。鼻を膝蹴りする。
「川田! 目を覚ませ。横根を襲う気か」
暴れる狼の顔で叫ぶ。
「横根! 目を覚ませ。はやく電車に乗れ!」
俺の呼び声にも、どちらも反応してくれない。狼は俺を振りはらおうとぐるぐる回る。人間は遠巻きに見ているだけだ。峻計は……、あいつは真横にいた。笑いながら小刀を振りかざす。
体に衝撃が走る。巻き添えで川田がうめく。
「耐えるのね。生意気な口をきくだけはあったね」
峻計が笑う。
しびれなど、俺はひたすら我慢する。あいつの真横で狼の顔にへばりつくだけだろうと――。あいつの手に黒羽扇が現れる。
殺される……。川田と一緒ならと観念しかける。でも、まだ横根がいる。
まだ消されない!
「そんなに憤慨しないでよ。惜しくなるじゃない。……だったら白虎の娘を舞わせてやる。貴様への見せしめにな」
あいつは横根へと体を向ける。その手を握る。
「瑞希、屋上へ行くよ。黄玉は壁でもよじ登ってこい」
あいつが駅ビルへと歩きだす。能面のような横根がそのあとをついていく。まわりの人間連中が二人に道を開ける。鬼がよろよろと起きあがる。
「川田、目を覚ませよ! 横根が殺される」
俺の怒声にも狼は吠えるだけだ。こいつは傀儡になっても頑固なままだ。首を上下に俺を振り落とそうとするので、しがみつくので精一杯だ。
俺の想像が間違いであるはずなく、横根は傀儡のまま飛びおりる。俺は服をひろげる動作をする。はらわれるが空中で体勢を取りなおす。狼の顔を服で覆う。これで駄目なら打つ手がない。
***
「松本、全裸で近すぎだ。……俺も素っ裸かよ。お互いのがぶつかりそうじゃないか」
俺の服に入ったときの状況を、川田は露骨に言う。
「俺の本当の声は聞こえているよな?」
「当たり前だ。あいつの術から逃げろ。横根が殺される」
「俺が瑞希ちゃんを噛むはずないだろ。でも、それ以外ならあの女の声に従うしかない。……狼は動きをとめているな。俺の意思で動かせるかもしれない。いや、動いてやる。だけど、もうすこし離れてくれ」
川田が顔をしかめる。俺だってそうしたいけど、
「それどころじゃないだろ! お前はじきに人に捕まるぞ。動けるならすぐに追え!」
「そのとおりだな」
俺と川田の魂を乗せて、狼の体が動きだす。川田の心が俺を経由して、乗っとられた異形の体を走らせる。
***
外へと意識を向ける。
狼は悲鳴をあげる人ごみをかき分ける。人の目には、顔半分がない巨大な黒い犬。目も鼻も覆われているのに、前が見えているかのようだ。
「屋内はやめろ! 屋上に間違いない。外から行け」
川田が注目を浴びるのはうまくないし、俺が人の光に照らされるのはもってのほかだ。
狼がUターンする。あらたな悲鳴が道を開ける。
*
狼は駅ビルの横を進み、そこにあるのが分かっていたかのように、非常階段を見つける。ドアノブを口でくわえ、顔をひねらす。引きちぎるかのようにドアを引っぱり、階段へと体をだす。狼は休むことなく駆けあがる。鉄を踏みつける音が打楽器のように鳴り響く。
屋上からの帰り道、川田は人から逃げられるのか。あとで心配するしかない。狼がすこし速度をゆるめる。
「人を追いはらう術がかかっているな。俺も人だから嫌なものだが、かまうものか」
川田がまた駆けだす。人除けの術に突入して、俺の人としての残滓が不快を感じる。……よほどの信念がないと、人間はあの術に入ってこられないな。それに、あいつはあそこから階段にでたということだ。まだ追いつける。
「片側の目が潰れて時間が経つにつれ、本能みたいなのが露骨に冴えだした。これが手負いの獣って奴かもな。目はまだ痛いけどな」
階段を数段おきに飛びながら、川田が言う。
「俺が術をかけられたのは、考えもなく飛びかかったからだと思っているだろ。でも俺は、他の人がやられるのを見るだけなんて二度としないからな」
俺は駆ける狼の顔を服で覆いながら、必死にしがみつくだけだ。川田への返事もままならない。でも同意見だ。俺だって傍観者にならない。
屋上への非常口は開いたままだ。夜空が見える。その先に横根のカバンが落ちている。狼は勢いを削がずに突っこんでいき、結界にはじき飛ばされる。
鼻さきにいた俺も、狼の体から吹っ飛ばされる。
次回「乙女の祈り、乙女の逆鱗」
やはり珊瑚の玉をいやがる程度の悪鬼だ。俺だって鬼を馬鹿になどできない。ただでさえ力がないのに、店舗の明かりに照らされた路上になど降りられない。
人の明かりを背に受けながら、鬼がしゃがみこむ。駆けてきた男性にぶつかりよろめく。開いた自動ドアからの冷気に身震いする。
俺も似たようなものだった。これを見越して、思玲は桜井とともに横根を守れと言ったのか。……思玲の思いつきでうまくいったことなど、昨日からあっただろうか。
それでも俺は懐から草鈴を取りだす。やっぱり俺は人でなしだ。
チリチリチリ、チルリリ……
思玲と桜井が幾度となく吹いた草鈴を奏でさせる。伝えたいことを込める。
『横根は人に戻った。でもまだ危険だ。川田はさらに危ない状況だ。桜井には逃げていてほしいけど、俺は川田も横根も守りたい。夏奈に助けてもらいたい』
どさくさにまぎれて下の名で呼ぶ。笛の音が聞こえたならば、彼女はなにがあろうと来る。一年ちょっと、ずっと夏奈を見てきた俺には分かる。問題は彼女が今どこにいるかだ。一番近いJRの駅でも、俺の笛の音はとても届きそうにない。
*
横根が店からでる。黄玉が手をついて立ちあがる。横根は早歩きですたすたと行く。尾行する鬼はあきらかに元気がない。
川田のアパートがあるT字路を車道の向かいに見る。人ごみのなか、俺も横根も鬼も無言で進む。横根はパチンコ屋の前のティッシュ配りを軽やかに避ける。鬼は歩調を合わせられず、店員と衝突してふわりとよろめく。パチンコ屋のドアが開き、あふれだした騒音に怯える。
こいつは人よりも弱っているな。俺と同じで消え去るさだめの異形だ……。
「喰らえ!」
卑怯だとか言っていられない。急降下して黄玉の背中を蹴っとばす。鬼はよろめきながらパチンコ屋に転がりこむ。
自動ドアが閉まり、鬼の絶叫が途絶える。
横根はなにも気づかず歩き続ける。俺は彼女の背後に高く浮かびながら、ちょくちょくと後ろを振り返る。峻計は現れない。また草鈴を吹く。思玲と行ったディスカウントストアも通り過ぎる。夏奈聞こえるかと、もう一度草鈴を吹く。
駅までもうすこし。あそこに入れば一安心かな。構内も電車も人の明かりだらけだから、ここから先は彼女と珊瑚に頑張ってもらうしかない。俺にだって人に戻るためにやるべきことがある……。現実逃避が終わってしまう。
*
駅前の広場にたどり着く。土曜の夜のざわめきの中で、指を鳴らす音が聞こえた。振り向くと、薄らいだ黄玉が這いつくばり人に踏まれ、恨めしそうに俺を見ていた。
鬼が俺の背後を見つめる。俺も顔を前に向ける。
あいつの衣装は変わっていた。黒いスキニーにマリンブルーな光沢のブラウス。踵の高い赤いヒールが不釣り合いだ。
急いでと、俺は草鈴をもう一度吹き懐にしまう。
あいつは横根の前に立ちふさがる。手を握られた横根が歩みをとめる。青ざめた俺を見て、人の明かりに照らされた桜の枝葉が笑う。
「誰かがガラスを割ったうえに、思玲が警報を作動させたわ。おかげで鬼と魔道士と人が入り混じっての大混乱。琥珀が死体を隠しておいたのが救いね」
あいつは小刀だけを握っていた。
「あなたの言ったとおり、自分の命より猫を守りたいそうよ。人の心はね」
あいつがまた指を鳴らす。大きな黒い狼が現れる。周囲から悲鳴があがる。
「手負いの獣がいるなら、俺は陰に行っていいか?」
鬼が体を引きずり、あいつのもとへと向かう。
「もうすこし見届けな。リクト、かかれ」
あいつは狼へと目を落とす。
あいつの企みが許せない。俺への残虐な仕返しに、川田に横根を襲わせる。俺は広場へと全力で降りる。
「……強い心だね」
峻計が顔をゆがませる。狼は横根へとうなり声をかけるだけだ。横根は蝋人形のように身動きしない。駅前にたむろする人間の好奇な目にさらされるだけだ。
「リクト、襲え!」峻計が狼をこづく。
俺は狼の顔に飛びつく。残された目をふさぐ。鼻を膝蹴りする。
「川田! 目を覚ませ。横根を襲う気か」
暴れる狼の顔で叫ぶ。
「横根! 目を覚ませ。はやく電車に乗れ!」
俺の呼び声にも、どちらも反応してくれない。狼は俺を振りはらおうとぐるぐる回る。人間は遠巻きに見ているだけだ。峻計は……、あいつは真横にいた。笑いながら小刀を振りかざす。
体に衝撃が走る。巻き添えで川田がうめく。
「耐えるのね。生意気な口をきくだけはあったね」
峻計が笑う。
しびれなど、俺はひたすら我慢する。あいつの真横で狼の顔にへばりつくだけだろうと――。あいつの手に黒羽扇が現れる。
殺される……。川田と一緒ならと観念しかける。でも、まだ横根がいる。
まだ消されない!
「そんなに憤慨しないでよ。惜しくなるじゃない。……だったら白虎の娘を舞わせてやる。貴様への見せしめにな」
あいつは横根へと体を向ける。その手を握る。
「瑞希、屋上へ行くよ。黄玉は壁でもよじ登ってこい」
あいつが駅ビルへと歩きだす。能面のような横根がそのあとをついていく。まわりの人間連中が二人に道を開ける。鬼がよろよろと起きあがる。
「川田、目を覚ませよ! 横根が殺される」
俺の怒声にも狼は吠えるだけだ。こいつは傀儡になっても頑固なままだ。首を上下に俺を振り落とそうとするので、しがみつくので精一杯だ。
俺の想像が間違いであるはずなく、横根は傀儡のまま飛びおりる。俺は服をひろげる動作をする。はらわれるが空中で体勢を取りなおす。狼の顔を服で覆う。これで駄目なら打つ手がない。
***
「松本、全裸で近すぎだ。……俺も素っ裸かよ。お互いのがぶつかりそうじゃないか」
俺の服に入ったときの状況を、川田は露骨に言う。
「俺の本当の声は聞こえているよな?」
「当たり前だ。あいつの術から逃げろ。横根が殺される」
「俺が瑞希ちゃんを噛むはずないだろ。でも、それ以外ならあの女の声に従うしかない。……狼は動きをとめているな。俺の意思で動かせるかもしれない。いや、動いてやる。だけど、もうすこし離れてくれ」
川田が顔をしかめる。俺だってそうしたいけど、
「それどころじゃないだろ! お前はじきに人に捕まるぞ。動けるならすぐに追え!」
「そのとおりだな」
俺と川田の魂を乗せて、狼の体が動きだす。川田の心が俺を経由して、乗っとられた異形の体を走らせる。
***
外へと意識を向ける。
狼は悲鳴をあげる人ごみをかき分ける。人の目には、顔半分がない巨大な黒い犬。目も鼻も覆われているのに、前が見えているかのようだ。
「屋内はやめろ! 屋上に間違いない。外から行け」
川田が注目を浴びるのはうまくないし、俺が人の光に照らされるのはもってのほかだ。
狼がUターンする。あらたな悲鳴が道を開ける。
*
狼は駅ビルの横を進み、そこにあるのが分かっていたかのように、非常階段を見つける。ドアノブを口でくわえ、顔をひねらす。引きちぎるかのようにドアを引っぱり、階段へと体をだす。狼は休むことなく駆けあがる。鉄を踏みつける音が打楽器のように鳴り響く。
屋上からの帰り道、川田は人から逃げられるのか。あとで心配するしかない。狼がすこし速度をゆるめる。
「人を追いはらう術がかかっているな。俺も人だから嫌なものだが、かまうものか」
川田がまた駆けだす。人除けの術に突入して、俺の人としての残滓が不快を感じる。……よほどの信念がないと、人間はあの術に入ってこられないな。それに、あいつはあそこから階段にでたということだ。まだ追いつける。
「片側の目が潰れて時間が経つにつれ、本能みたいなのが露骨に冴えだした。これが手負いの獣って奴かもな。目はまだ痛いけどな」
階段を数段おきに飛びながら、川田が言う。
「俺が術をかけられたのは、考えもなく飛びかかったからだと思っているだろ。でも俺は、他の人がやられるのを見るだけなんて二度としないからな」
俺は駆ける狼の顔を服で覆いながら、必死にしがみつくだけだ。川田への返事もままならない。でも同意見だ。俺だって傍観者にならない。
屋上への非常口は開いたままだ。夜空が見える。その先に横根のカバンが落ちている。狼は勢いを削がずに突っこんでいき、結界にはじき飛ばされる。
鼻さきにいた俺も、狼の体から吹っ飛ばされる。
次回「乙女の祈り、乙女の逆鱗」