囚われた男
文字数 2,801文字
4.3-tune
――もう充分に守ってくれたから。哲人さんがそう言ってくれた。あの人はなんであんなに素敵なの? 琥珀もそう思うよね
――分かったから、もう少し声を小さくして。触ろうとしないで。どうせ無理なんだから。
見張りの奴らに緊張感はない。なぜにこうなったと張麗豪は思う。よりによって王思玲の手に落ちるとは。しかも、あの寺のあの地下牢に戻される。いや、戻ることなく殺されるか。どちらにしても私は終わりだ。熱傷を受けた全身が痛い。
――な、ななに? この魔物は?
――サ、サキトガだ! 貉、主を呼べ
――ギギギ、殲が来るまえに全員食い殺せるぜ。はやく呼べよ。そこからカウントダウンを始めるからな。沈が現れるのは337秒後だから、俺は237秒後に逃げる
闇の向こうがうるさい。それ以上に下から漂う臭気が耐えがたい。思玲め……。
闇が冷気を帯びる。
――僕は完全なる闇と化した。貴様の牙も爪も届かない。琥珀とドロシーを食い殺せばいい。大姐が来るまで、僕がカウントダウンしてやる。330,329……
――だったら俺が逃げるまで、225,224……。天珠があろうが、この俺には分かるんだよ。お前はまだ沈栄桂を呼んでない
沈大姐……。楊老師がおそれた者は、昇とあの女だけ。魔物のいやしい声が続く。
――つぎはキリ番だからな。残念ながら殺す相手は決まっている。闇がもう少し深まるまで、梓群ちゃんをいじめて時間つぶしをするだけ
――黙れ! 我々は香港魔道団。貴様の声など二度と届かぬ。私は、さっきの私よりはるかに強くなった。滅べ!
――かゆいね~。パパやママのことを言われても平気なの? もっと大事な人ができたの? もうすぐ死ぬ人間を?
こいつは使い魔だ。なぜにおぞましい西洋の妖魔が関わっている。鏡の導きは失せたのか? 老師は何をなされている。
――哲人さんに手をだしたら、私はお前を許さない……。助けにいく
――ドロシー、落ち着けよ。こいつの言葉にとらわれるな
――梓群ちゃん、小鬼はやっぱりドライだね。心配するのは思玲の身だけ。黒貉、呼ぶのを躊躇するなよ。新月だしこの図体だ。たやすく逃げられるから
――僕に妖魔の声は届かない。だが、いまのメンバーではサキトガに勝てない。近くにいるのは傷ついたケビンだけ。僕だけ逃げてもいいが、どちらかが犠牲になり時間稼ぎをするのならば、沈大姐を呼ぼ
――灯!
――ぐえっ
――二度と上海を呼ぶな! 私がこいつを倒す
こいつらは何をやっているんだ? 妖魔に弄ばれている。
――な、なんで僕に光をあてる。……落ち着こう。扇をひろげるな
――ドロシーやめろ。敵はサキトガだ。
――夏梓群、異形が怯えだしたぜ。ママもお前の力を知ったとき、怯えただろうな。なまじおぞましき力の存在を知っていたからな。なにも知らずにお前を授かったパパが震えだしたのはいつだ?
――黙れ! 聞こえない!
――お前はパパの慄く目しか覚えていない
――黙って……。やっぱり哲人さんのところに行く。琥珀、天珠を貸して
この娘は本当に魔道士か? 心が弱すぎる。傀儡の術にさえかかりそうだ。
――我が主の名にかけて渡さない。ここで張を見張る。僕達の使命だ
――嫌だ。私はあの人のところに行く。……守るから守ってもらう
――ドロシー。沈大姐を呼んだ。だからもう大丈夫だ
――さてと、そろそろ日没だ。哲人さんにお別れが言えず残念だったね。すぐに会わせてあげるけど
巨大な羽音……。姿を見ずにいられたのは幸いだ。
――琥珀。私は本気だよ。天珠がないと心をもっと見られる
――僕に扇を向けるな。絶対に天珠は渡さない。ぐえっ、……貉、受けとれ
――借りた魔道具で、その人の式神を傷つけるとは……。僕は君をゆるさない。思玲と琥珀の名誉にかけて、ここを離れない。僕を傷つければ、張麗豪は丸見えになる。誰かが救いに来る
――だから? そうなる前に私が麗豪をやる。お願いだから渡して
手錠さえはずれたら、娘梁勲の孫だけなら倒せる。松本がいないのなら。
――大姐は呼んでいない。さっきのもブラフだ。だが傷ついたケビンをなおも起こそう。お前を成敗してもらうために
覆われていた闇が消えていく。
――天珠を飲むな。……ゆるせない、灯れ!
激しい明りに包まれる。……光の中で、あの娘が扇を手に見おろしていた。
「あなたを殺さないとならない」
おそらく二十歳になっていない。化粧を覚えれば、さぞ美人になるだろうな。
「そうしてくれ」麗豪は笑う。「私も捕囚になりたくない」
娘が扇を突きだす。……香港の構えからの台湾流の型。なぜにアレンジできる。この娘は天才か――え?
「滅べ」
躊躇なく生身の人に殺意を向けた。あらゆる意味で末恐ろしい……人外のごとき者……。
飛びだした煤竹色の光を、麗豪は背を向けて金属の手錠で受けとめる。年相応に芯のない光だ。それでも、おぞましいほどに強い……。
***
麗豪が目覚めると、娘はいなかった。地に落ちた夜鷹をかばいながら、琥珀がにらんでいる。こいつも至近で術を喰らったな。
「玲玲に手をだすな……」
覚悟を決めたものの声だ。こいつの扱いにこそ気を使う。……新月の夜が来る。小鬼でさえ恐ろしい存在になる。はやく逃げないとな。
麗豪は手錠を左右に引く。術を喰らい弱まった鎖がちぎれる。鞭をナイフのようにだし、体を厳重に縛った縄を切る。胸ポケットから真新しい眼鏡をだし、体をさする。ついで浮かびあがる。
人除けの術を浴びた不快感が抜けない。貫かれた足には包帯が巻かれてある。治ることはないだろう。
「思玲め」
林間をよろよろと飛ぶ。法董にくれてやろう。奴ならば、幼い玲玲でも喜んで手籠めにする。香港の娘は二人がかりで弄んでやるか。
峻計も思玲から傷を受けたな。しかも顔に。醜くなった面は、おそらく何十年と回復しない。ならば、あの魔物は用済みだ。あいつも法董にやろう。滅魔の輪でいたぶられながら……。処分するときは、私もご一緒するか。
あの娘がいた。透けた女と鴉もいる。どうせ林にもひそんでいる。
「小姐 。多謝 」
空から人の声をかけて、ちぎれた手錠を見せるだけにする。いまの体で手負いの獣と渡りあえない。娘の青ざめた顔を見られただけで充分だ。
飛んできた術を蜃気楼となり避ける。
飛び蛇が姿をさらした。法董の優秀な蛇だ。私を奴のもとに導いてくれる。……法董も傷を負ったと、蛇が伝える。あの若者の強いまなざしを心へ映像として伝える。
あの若者ならば、すすんで異形になるだろう。しかも新月だ。やはり老師がいないと勝ちめがない。法董とともに合流するしかない。
老師はどこだ? 異形どもしか知らない。連絡もない。あの飛び蛇ならば探しだせるかもしれないが……。
危惧するのはやめよう。偉大なる老師ならば、たとえ選ばれようが、死者の書の魅惑に囚われるはずないから。私も書に選ばれたい。
次回「この国の侍衛」
――もう充分に守ってくれたから。哲人さんがそう言ってくれた。あの人はなんであんなに素敵なの? 琥珀もそう思うよね
――分かったから、もう少し声を小さくして。触ろうとしないで。どうせ無理なんだから。
見張りの奴らに緊張感はない。なぜにこうなったと張麗豪は思う。よりによって王思玲の手に落ちるとは。しかも、あの寺のあの地下牢に戻される。いや、戻ることなく殺されるか。どちらにしても私は終わりだ。熱傷を受けた全身が痛い。
――な、ななに? この魔物は?
――サ、サキトガだ! 貉、主を呼べ
――ギギギ、殲が来るまえに全員食い殺せるぜ。はやく呼べよ。そこからカウントダウンを始めるからな。沈が現れるのは337秒後だから、俺は237秒後に逃げる
闇の向こうがうるさい。それ以上に下から漂う臭気が耐えがたい。思玲め……。
闇が冷気を帯びる。
――僕は完全なる闇と化した。貴様の牙も爪も届かない。琥珀とドロシーを食い殺せばいい。大姐が来るまで、僕がカウントダウンしてやる。330,329……
――だったら俺が逃げるまで、225,224……。天珠があろうが、この俺には分かるんだよ。お前はまだ沈栄桂を呼んでない
沈大姐……。楊老師がおそれた者は、昇とあの女だけ。魔物のいやしい声が続く。
――つぎはキリ番だからな。残念ながら殺す相手は決まっている。闇がもう少し深まるまで、梓群ちゃんをいじめて時間つぶしをするだけ
――黙れ! 我々は香港魔道団。貴様の声など二度と届かぬ。私は、さっきの私よりはるかに強くなった。滅べ!
――かゆいね~。パパやママのことを言われても平気なの? もっと大事な人ができたの? もうすぐ死ぬ人間を?
こいつは使い魔だ。なぜにおぞましい西洋の妖魔が関わっている。鏡の導きは失せたのか? 老師は何をなされている。
――哲人さんに手をだしたら、私はお前を許さない……。助けにいく
――ドロシー、落ち着けよ。こいつの言葉にとらわれるな
――梓群ちゃん、小鬼はやっぱりドライだね。心配するのは思玲の身だけ。黒貉、呼ぶのを躊躇するなよ。新月だしこの図体だ。たやすく逃げられるから
――僕に妖魔の声は届かない。だが、いまのメンバーではサキトガに勝てない。近くにいるのは傷ついたケビンだけ。僕だけ逃げてもいいが、どちらかが犠牲になり時間稼ぎをするのならば、沈大姐を呼ぼ
――灯!
――ぐえっ
――二度と上海を呼ぶな! 私がこいつを倒す
こいつらは何をやっているんだ? 妖魔に弄ばれている。
――な、なんで僕に光をあてる。……落ち着こう。扇をひろげるな
――ドロシーやめろ。敵はサキトガだ。
――夏梓群、異形が怯えだしたぜ。ママもお前の力を知ったとき、怯えただろうな。なまじおぞましき力の存在を知っていたからな。なにも知らずにお前を授かったパパが震えだしたのはいつだ?
――黙れ! 聞こえない!
――お前はパパの慄く目しか覚えていない
――黙って……。やっぱり哲人さんのところに行く。琥珀、天珠を貸して
この娘は本当に魔道士か? 心が弱すぎる。傀儡の術にさえかかりそうだ。
――我が主の名にかけて渡さない。ここで張を見張る。僕達の使命だ
――嫌だ。私はあの人のところに行く。……守るから守ってもらう
――ドロシー。沈大姐を呼んだ。だからもう大丈夫だ
――さてと、そろそろ日没だ。哲人さんにお別れが言えず残念だったね。すぐに会わせてあげるけど
巨大な羽音……。姿を見ずにいられたのは幸いだ。
――琥珀。私は本気だよ。天珠がないと心をもっと見られる
――僕に扇を向けるな。絶対に天珠は渡さない。ぐえっ、……貉、受けとれ
――借りた魔道具で、その人の式神を傷つけるとは……。僕は君をゆるさない。思玲と琥珀の名誉にかけて、ここを離れない。僕を傷つければ、張麗豪は丸見えになる。誰かが救いに来る
――だから? そうなる前に私が麗豪をやる。お願いだから渡して
手錠さえはずれたら、娘梁勲の孫だけなら倒せる。松本がいないのなら。
――大姐は呼んでいない。さっきのもブラフだ。だが傷ついたケビンをなおも起こそう。お前を成敗してもらうために
覆われていた闇が消えていく。
――天珠を飲むな。……ゆるせない、灯れ!
激しい明りに包まれる。……光の中で、あの娘が扇を手に見おろしていた。
「あなたを殺さないとならない」
おそらく二十歳になっていない。化粧を覚えれば、さぞ美人になるだろうな。
「そうしてくれ」麗豪は笑う。「私も捕囚になりたくない」
娘が扇を突きだす。……香港の構えからの台湾流の型。なぜにアレンジできる。この娘は天才か――え?
「滅べ」
躊躇なく生身の人に殺意を向けた。あらゆる意味で末恐ろしい……人外のごとき者……。
飛びだした煤竹色の光を、麗豪は背を向けて金属の手錠で受けとめる。年相応に芯のない光だ。それでも、おぞましいほどに強い……。
***
麗豪が目覚めると、娘はいなかった。地に落ちた夜鷹をかばいながら、琥珀がにらんでいる。こいつも至近で術を喰らったな。
「玲玲に手をだすな……」
覚悟を決めたものの声だ。こいつの扱いにこそ気を使う。……新月の夜が来る。小鬼でさえ恐ろしい存在になる。はやく逃げないとな。
麗豪は手錠を左右に引く。術を喰らい弱まった鎖がちぎれる。鞭をナイフのようにだし、体を厳重に縛った縄を切る。胸ポケットから真新しい眼鏡をだし、体をさする。ついで浮かびあがる。
人除けの術を浴びた不快感が抜けない。貫かれた足には包帯が巻かれてある。治ることはないだろう。
「思玲め」
林間をよろよろと飛ぶ。法董にくれてやろう。奴ならば、幼い玲玲でも喜んで手籠めにする。香港の娘は二人がかりで弄んでやるか。
峻計も思玲から傷を受けたな。しかも顔に。醜くなった面は、おそらく何十年と回復しない。ならば、あの魔物は用済みだ。あいつも法董にやろう。滅魔の輪でいたぶられながら……。処分するときは、私もご一緒するか。
あの娘がいた。透けた女と鴉もいる。どうせ林にもひそんでいる。
「
空から人の声をかけて、ちぎれた手錠を見せるだけにする。いまの体で手負いの獣と渡りあえない。娘の青ざめた顔を見られただけで充分だ。
飛んできた術を蜃気楼となり避ける。
飛び蛇が姿をさらした。法董の優秀な蛇だ。私を奴のもとに導いてくれる。……法董も傷を負ったと、蛇が伝える。あの若者の強いまなざしを心へ映像として伝える。
あの若者ならば、すすんで異形になるだろう。しかも新月だ。やはり老師がいないと勝ちめがない。法董とともに合流するしかない。
老師はどこだ? 異形どもしか知らない。連絡もない。あの飛び蛇ならば探しだせるかもしれないが……。
危惧するのはやめよう。偉大なる老師ならば、たとえ選ばれようが、死者の書の魅惑に囚われるはずないから。私も書に選ばれたい。
次回「この国の侍衛」