十三の三 開封
文字数 2,851文字
「は、箱をですか?」
声がうわずってしまった。思玲へ目を向ける。……蒼白な顔と化した少女は俺へとちいさく首を横に振る。
「香港の娘は、仲間や式神の死を目前にして動揺しております。ご容赦ください」
沈へと頭を垂らす。
「私はあなたを信じています。その証に――、哲人、箱を見せてやれ」
あきらめの首振りかよ。……沈を信じていいのか俺には分からない。でも、横にはべるリクトは護符をくわえて静かなままだ。ドーンも不平をこぼさない。
俺は思玲へとうなずく。リュックをおろし、手を差しこむ。
「駄目!」ドロシーが叫ぶ。
そうだった。罠が……。なにも起きない。
「なんで?」
ドロシーが目を見開いている。
「術をかけた者と判断されただけだ。はやくしろ」
沈に急かされて、俺は緋色の布に覆われた箱を取りだす。リュックからだした瞬間、ずしりと重みが復活した。
「ぐえっ」
手で支えきれず腹の上に箱が落ちる。みぞおちにエルボーを喰らったみたい。
弦楽器の音がひとすじ聞こえた。俺の上で緋色のサテンがほどけていく。木箱が見えた。
「魔滅の術か」沈がぽつり言う。「誰にも敬われぬ老人がやりそうなことだ」
黒猫も箱を遠巻きに覗く。
「思玲は術の存在を知っていながら箱に触れました。異形になった者どもを救うため――」
「露泥無は黙れ。松本は箱も開けな」
俺は沈に命じられるまま木箱のふたをどかす。体を箱からずらして、重みから解放される。
「ははは。王思玲。あんたの体は内箱にある」
沈が少女に目を向ける。
「上手に壊せば大人に戻れるが、四つの卵はただのガラス玉になる。知っていたのだろ?」
思玲が「おお」と手を叩く。そんな単純なことだったのか。つまり俺達全員が人に戻るまで、思玲は大人に戻れない。術も使えない。もしくは思玲だけが……。
「内箱のふたもどかせ。重いだろ。木箱からだす必要はない」
沈がさらに命じる。俺は思玲を見る。彼女も俺を見ていた。互いに戸惑う。
「なんのためですか?」
俺が言う。この中には俺達の命に相応した玉がある。命をさらけだせるだろうか。
「玄武の光が残っているはずだ。それを見たい」
「大姐、ならば従えません」今度は思玲が言う。「こいつが完全な異形となるかもしれません」
沈大姐もリクトをちらりと見る。リクトがまた沈へとうなる。
「もう立派な異形だ」大姐が呆れる。「どうなるかなんて楊でも分からない。松本、開けろ」
抗えるはずない。俺は青錆びた箱も開ける。
想像していたとおりだ。深夜の森を赤く染める光にも負けずに、かすかに黒い玉とかすかなコバルトブルーの玉だけが光っていた。……弱った黒い光がふわふわと、リクトでなく俺に向かってきた。
近すぎる。避けようもなく眉間に当たる。
「思ったとおりだ。松本こそが玄武だ」沈大姐が笑う。「どうだ? 蘇ったか?」
蘇るってなにが? ……なにも起きてないよな。大姐へと首を横に振る。
「拍子抜けだ」沈大姐が憎々しげに言う。「私は草津の宿に帰る。あそこはよい湯だ。露泥無はこいつらを見張れ」
「え、フサフサ達に同行しろというのですか?」
黒猫が目もひげもひろげる。
「二度も言わせるな。……松本、もう一個玉が輝いていたな」
沈大姐が夜空を見あげる。
「妖魔どもは欲していたのだろ。――殲、待たせたな。帰るよ」
大姐が跳躍する。一瞬だけ巨大な影が見えて、闇に消える。
緊張の糸が切れたように、思玲が地面に倒れこむ。
*
「そういうわけで僕もご一緒する。よろしくな」
かすれていく赤い光のなかに、濃紺のつなぎのデニムをはいた見知らぬ女性が立っていた。黒髪をうしろに結んで眼鏡をかけた、地味めで華奢な同年代の女の子だ。
この子は心への声を放つが、いつのまに?
「ハラペコ、なんにでも変身できるのか? 本物の妖怪変化だ」
フサフサの驚嘆の声がする
この女の子は黒猫だったというのか? そんなはずない。ただの人間だ。妖怪である俺には分かる。
「だから露泥無と呼べよ」
女の子がハスキーボイスで答える。
「リーダーは思玲だろ。次はどこをめざすんだ? シノとドロシー、このたびは無念だったな。気をつけて帰れよ」
この女の子は、お寺にいたおばさんであり、ヨタカでもあり、黒猫だったというのか。どいつからも異形を感じたことはなかった。
「途中まで送るに決まっているだろ」
ドーンが頭上で言う。
「シノさん、ドロシーちゃん。俺達はもっと悲惨な目にあったぜ。でも耐えたから五人はまだ存在する。だから、もう少しだけ頑張るじゃん」
「……うるさい。わかっている」
カラスをにらみながら、ドロシーがシノを支えて立ちあがる。
「松本。俺は腹が減った」
手負いの獣がマイペースに声を発する。
「体がでかくなったから、餌もでかいのが欲しい。……あのタコうまかったな。足が一本ぐらい残っていないか?」
なんだか護符をしゃぶっているような。こいつに人の心があるはずない。シノがまた座りこむ。もはや彼女の目に覇気も生気もない。
ドロシーの目は怒りに燃えていた。俺とも目があい、凝視して、こらえきれぬ笑みが生まれる。
「君はいまのがずっとかわいいよ」
黒い光でなにか変わった? ……手の甲から腕へと鱗がびっしりと生えていた。頬をさする。鱗の感触……。
ドーンが前から覗きこみ、ガッと嫌悪の声を残して飛んでいく。
「私は前のがいいな」
大の字だった思玲が起きあがる。
「ハラペコ、次はいよいよお天狗さんだ。土着の火伏せを手にする。邪魔をせぬなら勝手に付いてこい。……ドロシー、麓まで送ってやるから、知っていることを道すがら教えてくれ」
ドロシーがうなずき、シノの手を握る。シノは立ちあがらない。
彼女達がリタイアしても、俺達は先に進むのだろう。なにも分からぬまま……。
俺は開けっ放しの箱を見る。フサフサに頼んで持ちあげないと(ドロシーの指揮棒よりはまだ安全だ)。リュックサックを返すのならば、今後は直接おなかに隠すしかない……けど。
沈大姐の言葉とおりに、なおも青い光だけが光っている。このかすかなブルーは、誰のもとにも飛ぼうとしない。龍を待ちかまえているのか? それとも……
「ハラペコはどこから俺達を見ていたんだ?」ドーンの声がする。
「ハラペコじゃないって。――今回はほぼ全部。前回は、思玲と哲人が使い魔を開放したあたりから空が白むあたりまで。使い魔どもが完全復活したから、報告のためにいったん上海へ戻った。この姿のパスポートがあるからね」
俺はなにも覚えていない。でもこの青色を見ていると。
「灯」
ドロシーがまた明かりを灯す。かすれていく赤い光と混ざりあう。
その下で、俺は玉に手を伸ばす。かざしてもコバルトブルーは揺らぎもしない。でも呼んでいる。
おそるおそる触れてみる。かすかなブルーが飛びだしてきた。指をつたい胸に飛びこみ、破裂する。玄武の光が押しだされたのを感じる。
蒼光は俺の頭を目ざす。たどりつき、脳みそを青色にかき乱す。あらゆる記憶が蘇る。
次回「波濤の先に」
声がうわずってしまった。思玲へ目を向ける。……蒼白な顔と化した少女は俺へとちいさく首を横に振る。
「香港の娘は、仲間や式神の死を目前にして動揺しております。ご容赦ください」
沈へと頭を垂らす。
「私はあなたを信じています。その証に――、哲人、箱を見せてやれ」
あきらめの首振りかよ。……沈を信じていいのか俺には分からない。でも、横にはべるリクトは護符をくわえて静かなままだ。ドーンも不平をこぼさない。
俺は思玲へとうなずく。リュックをおろし、手を差しこむ。
「駄目!」ドロシーが叫ぶ。
そうだった。罠が……。なにも起きない。
「なんで?」
ドロシーが目を見開いている。
「術をかけた者と判断されただけだ。はやくしろ」
沈に急かされて、俺は緋色の布に覆われた箱を取りだす。リュックからだした瞬間、ずしりと重みが復活した。
「ぐえっ」
手で支えきれず腹の上に箱が落ちる。みぞおちにエルボーを喰らったみたい。
弦楽器の音がひとすじ聞こえた。俺の上で緋色のサテンがほどけていく。木箱が見えた。
「魔滅の術か」沈がぽつり言う。「誰にも敬われぬ老人がやりそうなことだ」
黒猫も箱を遠巻きに覗く。
「思玲は術の存在を知っていながら箱に触れました。異形になった者どもを救うため――」
「露泥無は黙れ。松本は箱も開けな」
俺は沈に命じられるまま木箱のふたをどかす。体を箱からずらして、重みから解放される。
「ははは。王思玲。あんたの体は内箱にある」
沈が少女に目を向ける。
「上手に壊せば大人に戻れるが、四つの卵はただのガラス玉になる。知っていたのだろ?」
思玲が「おお」と手を叩く。そんな単純なことだったのか。つまり俺達全員が人に戻るまで、思玲は大人に戻れない。術も使えない。もしくは思玲だけが……。
「内箱のふたもどかせ。重いだろ。木箱からだす必要はない」
沈がさらに命じる。俺は思玲を見る。彼女も俺を見ていた。互いに戸惑う。
「なんのためですか?」
俺が言う。この中には俺達の命に相応した玉がある。命をさらけだせるだろうか。
「玄武の光が残っているはずだ。それを見たい」
「大姐、ならば従えません」今度は思玲が言う。「こいつが完全な異形となるかもしれません」
沈大姐もリクトをちらりと見る。リクトがまた沈へとうなる。
「もう立派な異形だ」大姐が呆れる。「どうなるかなんて楊でも分からない。松本、開けろ」
抗えるはずない。俺は青錆びた箱も開ける。
想像していたとおりだ。深夜の森を赤く染める光にも負けずに、かすかに黒い玉とかすかなコバルトブルーの玉だけが光っていた。……弱った黒い光がふわふわと、リクトでなく俺に向かってきた。
近すぎる。避けようもなく眉間に当たる。
「思ったとおりだ。松本こそが玄武だ」沈大姐が笑う。「どうだ? 蘇ったか?」
蘇るってなにが? ……なにも起きてないよな。大姐へと首を横に振る。
「拍子抜けだ」沈大姐が憎々しげに言う。「私は草津の宿に帰る。あそこはよい湯だ。露泥無はこいつらを見張れ」
「え、フサフサ達に同行しろというのですか?」
黒猫が目もひげもひろげる。
「二度も言わせるな。……松本、もう一個玉が輝いていたな」
沈大姐が夜空を見あげる。
「妖魔どもは欲していたのだろ。――殲、待たせたな。帰るよ」
大姐が跳躍する。一瞬だけ巨大な影が見えて、闇に消える。
緊張の糸が切れたように、思玲が地面に倒れこむ。
*
「そういうわけで僕もご一緒する。よろしくな」
かすれていく赤い光のなかに、濃紺のつなぎのデニムをはいた見知らぬ女性が立っていた。黒髪をうしろに結んで眼鏡をかけた、地味めで華奢な同年代の女の子だ。
この子は心への声を放つが、いつのまに?
「ハラペコ、なんにでも変身できるのか? 本物の妖怪変化だ」
フサフサの驚嘆の声がする
この女の子は黒猫だったというのか? そんなはずない。ただの人間だ。妖怪である俺には分かる。
「だから露泥無と呼べよ」
女の子がハスキーボイスで答える。
「リーダーは思玲だろ。次はどこをめざすんだ? シノとドロシー、このたびは無念だったな。気をつけて帰れよ」
この女の子は、お寺にいたおばさんであり、ヨタカでもあり、黒猫だったというのか。どいつからも異形を感じたことはなかった。
「途中まで送るに決まっているだろ」
ドーンが頭上で言う。
「シノさん、ドロシーちゃん。俺達はもっと悲惨な目にあったぜ。でも耐えたから五人はまだ存在する。だから、もう少しだけ頑張るじゃん」
「……うるさい。わかっている」
カラスをにらみながら、ドロシーがシノを支えて立ちあがる。
「松本。俺は腹が減った」
手負いの獣がマイペースに声を発する。
「体がでかくなったから、餌もでかいのが欲しい。……あのタコうまかったな。足が一本ぐらい残っていないか?」
なんだか護符をしゃぶっているような。こいつに人の心があるはずない。シノがまた座りこむ。もはや彼女の目に覇気も生気もない。
ドロシーの目は怒りに燃えていた。俺とも目があい、凝視して、こらえきれぬ笑みが生まれる。
「君はいまのがずっとかわいいよ」
黒い光でなにか変わった? ……手の甲から腕へと鱗がびっしりと生えていた。頬をさする。鱗の感触……。
ドーンが前から覗きこみ、ガッと嫌悪の声を残して飛んでいく。
「私は前のがいいな」
大の字だった思玲が起きあがる。
「ハラペコ、次はいよいよお天狗さんだ。土着の火伏せを手にする。邪魔をせぬなら勝手に付いてこい。……ドロシー、麓まで送ってやるから、知っていることを道すがら教えてくれ」
ドロシーがうなずき、シノの手を握る。シノは立ちあがらない。
彼女達がリタイアしても、俺達は先に進むのだろう。なにも分からぬまま……。
俺は開けっ放しの箱を見る。フサフサに頼んで持ちあげないと(ドロシーの指揮棒よりはまだ安全だ)。リュックサックを返すのならば、今後は直接おなかに隠すしかない……けど。
沈大姐の言葉とおりに、なおも青い光だけが光っている。このかすかなブルーは、誰のもとにも飛ぼうとしない。龍を待ちかまえているのか? それとも……
「ハラペコはどこから俺達を見ていたんだ?」ドーンの声がする。
「ハラペコじゃないって。――今回はほぼ全部。前回は、思玲と哲人が使い魔を開放したあたりから空が白むあたりまで。使い魔どもが完全復活したから、報告のためにいったん上海へ戻った。この姿のパスポートがあるからね」
俺はなにも覚えていない。でもこの青色を見ていると。
「灯」
ドロシーがまた明かりを灯す。かすれていく赤い光と混ざりあう。
その下で、俺は玉に手を伸ばす。かざしてもコバルトブルーは揺らぎもしない。でも呼んでいる。
おそるおそる触れてみる。かすかなブルーが飛びだしてきた。指をつたい胸に飛びこみ、破裂する。玄武の光が押しだされたのを感じる。
蒼光は俺の頭を目ざす。たどりつき、脳みそを青色にかき乱す。あらゆる記憶が蘇る。
次回「波濤の先に」