龍に関わるものども

文字数 2,967文字

 知らぬ間に、若い男が閉ざされたドアによりかかっていた。その手には武骨な段平の剣。

「たくみ君!」桜井が悲鳴じみた声をあげる。

「これはこれは」沈桂英がほくそ笑む。「敵の力量を読めぬ坊やが来てくれたよ。しかも一人でだ」

「それはお互い様だろ」
 藤川匠も涼しげに笑う。「相手の力が読めないところはともかく」

 つまり峻計も貪もいない。上海不夜会のほかのメンバーも。
 琥珀は狭い部屋にいるもの達を見る。
 逃げ道をふさがれた九郎はビビっている。風より早かろうと、こいつは窓ガラスさえ割れない。露泥無は闇となり桜井夏奈へにじり寄る。桜井は藤川匠を見つめている。ドロシーは、おそらく術で寝かされている。……ここで戦いが始まれば半数は死ぬな。

「夏奈こっちにおいで。その中国人は夏奈を龍にして国に連れて帰るつもりだ。叶わなければ、ここで命を奪う気だ」

「桜井信じるな。そいつは邪悪だ」
 沈大姐が言う。「こいつの手下の龍は東京で人殺し中だ。松本や横根を消すためだけに」

 沈栄桂は配下の式神と遠隔で心を通じ合わせられる。琥珀は露泥無から聞いている。

「ほんとなの?」桜井の顔色が変わった。

「その人が言うのならば事実だろ」
 大魔導師だった者は顔色を変えない。
「貪の判断を僕は否定しない。一万の人を生かすために十の命を犠牲にする。それは認める」

「……松本君ならばそんな言葉を口にしない」
 桜井は藤川匠から目をそらさない。「たくみ君は変わった。もとに戻ろうよ」

「変わったのは夏奈だけどな。猛きフロレ・エスタスが復活するには、やっぱり松本は邪魔ってことだ。ようやく貪も認めてくれた」

「なかなか楽しい話を聞かせてくれるじゃないかい。だけど私の心を揺さぶるほどでない」
 沈大姐が一歩前に歩む。
「だから教えてくれ。龍を従えて、お前は何をしたい?」

「陳腐なことだよ。そのために命が果ててもいい」
 藤川匠もドアから体をどかす。
「この世界を守るために、ははは、そこで眠る不死身の魔女を殺す。二度と蘇らせないためには、こいつより強い龍が必要だ」

「ざけんな!」

 二十歳前後の娘の怒鳴り声に、琥珀は震えてしまう。桜井夏奈が眠るドロシーへと覆いかぶさる。

「たしかにこいつは悪だ。倒される悪だ。でも悪しき心はまだ育ってない。しかもだ。そんなの松本君が消してくれる」

 誰もが桜井を見てしまう。彼女は藤川へと必死な眼差しだ。

「たくみ君だって分かっているよね? いまのままならば、私のがずっとワルだ。いまの、この子のがずっと善だよ。たくみ君よりもずっとずっとずっと。……喧嘩別ればかりの私が、松本君のおかげでドロシーちゃんとも仲直りできた。ほんとうは松本君なんかこの子に譲って、私はたくみ君をみんなと仲直りさせるつもりだった」

 おおきな瞳。やっぱりこの子こそかわいいな。琥珀は言葉と表情に惹きつけられる――。その眼差しが変わった。弱者が怯えてひれ伏す眼差し。

「でも気が変わった。やっぱりあんたは長野の腐ったヤンキーだ。それ以下だ。人を生かすとか殺すとか言ってんじゃねえ! ここから私は、誰も信じない。二人ともここから出ていけ。二人ともだ。ペンギンもスライムも小鬼もだ!
……松本君だけにはすがる。だから……だから、魔女でもいいからドロシーちゃん起きろ! 早くしないと思玲に奪われるぞ! あの人だって、松本哲人が大好きだからな!!!!!」

「うわあ」

 二人を包もうとしていた闇である露泥無が後ずさる。
 窓に雨が叩きつける。雷が聞こえた。九月の静かな雨が豹変する。

「……思玲が?」ドロシーが目を開ける。「ダーリン違った哲人さんを?」

 雷が近くに落ちる。

「素敵すぎる若い王姐。そんな気がしていた。だったら私も行く。……再び影添大社へ行ってやる。ついでに蹴りをつけてやる」
「思玲を蹴っちゃだめだよ。ははは」

 龍を倒すべきものが立ち上がる。龍であったものが手を添える。

「たしかに龍だ。生身の人が、私の術を罵声だけで破りやがった」
 沈栄桂が真顔で桜井を値踏みする。

「感心するところが違う。たしかに魔女だろ? こいつは夏奈の叫びだけで、おばさんの術を破った」

 そう笑い、藤川匠が剣を掲げる。部屋が青白く照らされる。

「沈大姐……藤川匠……。夏奈さん、逃げよう」
「乱入しないの?」
「強い人間を二人相手なんて無理。悪しき異形ならやってやるけど」

 ドロシーが負け惜しみみたいにつぶやく。
 桜井夏奈は微笑む。

「意外に臆病でやっぱり妹みたい。かわいい」
 ドロシーにまた手を差し伸べる。
「幽霊みたいなのが六体、そばに来ている。臆病な連中だけど私なら呼べる。お姉ちゃんが呼んでやる。魂をあげると言えばいいだけだ。ほんとにやるはずねーけど、ははは」

「私だって呼べる」
 ドロシーがぼそり言う。桜井の手を握りかえす。

 雨は弱まらない。気温が下がる。中庭へと車が戻った音がした。
 琥珀は桜井を口を開けてみていた。
 こいつは気が強いなんてものじゃない。心が感情なきほどに強すぎる。桜井ちゃんこそ、もはや人でないかも。

 沈栄桂がふっと息を漏らす。藤川匠を見つめる。
「因果応報。楊偉天が死んで白虎が野放しになった。もっと面倒ごとが起きる。
不死身の魔女らしき、ははははは面白すぎだよ、香港娘の命などどうでもいいが、私は何もせずに立ち去る。……殺しやしないから、お前はついてきな。一対一で遊んでやる」

 藤川匠は首肯する。
「勝ったものが龍を手にするってわけだ。ここで戦えば、魔女に取り込まれたフロレ・エスタスがマジで怒る。僕の手にも負えなくなる」

「私んちでタイマンなど当たり前だろ……もう私はフロレ・エスタスじゃない。たくみ君もゼ・カン・ユ様じゃない」

「ぼ、僕は非力だ。戦いで大姐の力になれない。だ、だから同行する。……いざとなったら、あれは僕が守ります」

 猫に戻った露泥無の言葉を聞いているのは僕だけだ。……窮地を脱せるかも。お互いに潰しあってくれ。
 でも伝えないといけない。僕は式神なのだから。

「どちらも聞け」
 琥珀は勇気を絞りだす。恐ろしすぎる祓いの者二人をにらむ。
「ドロシーに手をだすな。桜井夏奈にもだ。我が主が認めない。松本哲人が刺客になる」

 二人が琥珀を見る。

「届いたよ」沈大姐が素っ気なく言う。「強い魂だ」

「僕には届かない」
 藤川匠は感情を消す。
「いまの夏奈はあの美しき龍ではない。でも夏奈を奪いあう悪しきものどもを順に消し去れば、まだフロレ・エスタスに戻れる。その最後の機会の手始めが、このおばさんってわけだ。――お望みの場所に付き合う。でもその前に、腰の引けた手下に頼まれたことを済ます」

 藤川匠がいきなり琥珀へ剣を向ける。殺気を見せないままで。

「小鬼だけは消滅させてくれだとさ。魂を幾つも持つ異形。たしかにお前はこの世に留まるべきでない。魔女や峻計みたいに戻ってくることも赦さない」

 そうか、あの草鈴の音は、強大なものの悪意が、草鈴の所有者へ向けられていることを教えたんだ。小鬼はいまさら気づく。
 蒼白な光が飛んでくる。油断した、逃げろ、どこに? スマホ、生もの、間に合うはずな、思玲様、もう守れない、哲人頼む、思玲、俊宏、……玲玲、私は君を娘

 月神の剣の一振りで、琥珀は瞬時に消滅する。




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