十八の三 六日前
文字数 3,653文字
「左側運転に慣れてきた」と思玲が言う。
たしかに乗っていて違和感がない。大蔵司のノロノロ運転やドロシーの速度違反より圧倒的にまともだ。
「そこを右折すると公園があります。そこから歩いて十数分で到着です」
「もしもし瑞希? あと十分ぐらいで到着だよ」
俺が思玲に指示して、大蔵司が横根に伝える。
夕方六時過ぎ。公園入口は施錠されていた。思玲が小刀で鍵だけ破壊するのを咎めない。先だけを思え。
大型四駆を駐車場に停めて姿隠しをかける。異形である俺は、四人の美女を俺の部屋へ案内する。見劣りしないくらいかわいい女子と、カラスと獣人が待つ部屋へだ。
「京は哲人と並んで歩いてくれ。白虎が攻撃しづらいように密着してくれ」
「思玲の頼みじゃ仕方ないね」
大蔵司の肩が触れて、ふわりと滑る。俺は彼女とだけ接せられない。
「だから思玲さんはその人と並んで歩くんすね」
隊列の真ん中を歩く夏奈が人の声で言う。「私と一緒のが安全ぽいのに。ははは」
「それ以上喧嘩を売るのはやめてくださいね」
淡いピンクのパジャマのドロシーが松葉杖で後を追う。
***
ドアを開けると、まず川田が寝転がったままでドロシーを見た。くんくんと鼻を鳴らしたような……。俺をチラリと見て背を向ける。
「お帰り……て言うか、夏奈ちゃんは哲人が見えている? 俺の声聞こえている?」
即座に俺の頭にとまったドーンが言う。
「ははは、まじで和戸君だし。まだカラスだし。めっちゃうける。ははははは」
夏奈は腹を抱えて笑う。
「子犬の川田君を覚えているよ、狼だった川田君も。猫だった瑞希ちゃんも」
「俺はお前が龍だったのを覚えている。でかいだけで弱かった」
川田がむっつりと人の声で言う。「松本。こいつはまた臭くなった」
俺は背筋が寒くなるだけ。
「き、気のせいだよ。そんなこと言っちゃ駄目だよ」
立ったままの横根が慌てて言い「夏奈ちゃん、お帰り。松本君もいるよね? ……ドロシー、ナイス、ツー、シー、ユー、アゲイン」
「オウ、ミズキー、アイム、グラッド、ツー、シー、ユー、ツー」
横根とドロシーが人の言葉を交わし、握手も交わす。ドロシーはパジャマで急ぎ手を拭く。横根がちらりと見ていた。
「狭い部屋だし長居は無用だが、シャワーを浴びたいものはここで済ませ」
人の部屋で思玲が仕切りだす。
「哲人、着替えを借りるぞ。ドロシーも寝間着を着替えたほうがいいかもな。瑞希に借りるか?」
きょとんとしたままの横根へと、思玲が再度人の言葉で面倒くさげに説明する。
「夏奈ちゃんの着替えを預かっている。そっちの方がサイズがぴったりだと思うよ」
こじれた人間関係を知らない横根がにこやかに言う。
「……桜井、貸してやってくれるか?」
思玲の頼みに、
「やだね」
夏奈は人の言葉で拒否する。
「私もやだ」
ドロシーも人の言葉で告げる。
「ドロシーの日本語かわいい。そりゃ喋るようになるよな」
大蔵司は楽しそうだ。「瑞希とのツーショットよきだね」
大蔵司は異形の言葉だけだから、横根にだけ伝わらない。そんなことを気にもせず、横根とドーンが俺をちらり見た。夏奈とドロシーが喧嘩状態と気づいたのだろう。その原因を俺の取り合いと勘違いしているみたいだ。もっとずっと深刻かもしれないのに。
「勝手にしろ」
思玲がクローゼットをひろげて、俺のシャツとジーンズを無造作に選ぶ。覗くなよと、半壊したユニットバスに行く。
「私はシャワー借りるね」
夏奈が自分の荷物を持って続く。
「わあ! 順番だろ。出ていけ」
「待つの嫌いだし、ははは」
「私達も一緒にシャワー浴びようか?」
「その冗談はもうやめてください。ドロシー服をどうぞ。伝わったかな?」
「サンキュー、ミズキ。ドウチェドウチェ」
ドロシーが横根の服を指でつまむ。おそるおそる匂いを嗅ぎ、俺へと振り向く。
「石鹸の香りだけ。着替えるから男子は出て」
*
妖怪だろうと深呼吸する。さすがに大人数で息が詰まった。緊張からも解放された。
アパートの駐輪所で、台湾で何があったかを二人に説明する。川田は聞いているか分からないけど、ドーンはカッと鳴き声で相槌を打った。
「つまり夏奈ちゃんは台湾に行って深みに嵌まった。さすが思玲の作戦だ、カカカ……それよりも哲人だよな。天珠があるから虎に見えないにしても。瑞希ちゃんの珊瑚もあるか」
「どちらも悪しきものから隠すから、白虎には意味ないらしい」
四神獣の奴らは聖獣と呼ばれている。東京で高級外国車を破壊しようが聖なる所業らしい。
「この群れを襲えるはずない。俺でも無理だ」
川田は話を聞いていた。「もっと怖いのは剣を持った人間だ。あの男は、でかい猫も従えるかもな」
あの男であるアイドル系容姿の藤川匠よりも、俺はデニーを思いだす。彼も人の式神を従えられると六魄が言っていた。その二人が狙うのは。
「やっぱり桜井夏奈が一番大事だ。守りながら、みんなが人に戻る」
「松本もさらに臭くなったな」
やっぱり川田は人の話を聞かない。顔をしかめて、「また何か腹に隠しただろ。みんなで小便かけて匂いを消すぞ」
思いだしてしまった。青いスティック棒(杖と言うには小さすぎる)。ただの人を忌むべき世界に連れていく棒――やっぱり杖のがかっこいいな。
毒食わば皿までだ。横根もこっちに連れ込もう。でも青色を誰の血で消す? 大蔵司? 俺?
俺の血は青に負けてかすんだ。大蔵司の血は強すぎて杖が壊れそう(マジで)。ならば川田。有り得るけど、せいぜい俺の血ぐらいだろう。ならばドロシー……。
もう一つの“花咲き誇る夏”の血。
龍を倒すべき者。それが事実ならば、彼女の血は青色に勝る。
「ちょっと待っていて」
「念のため瑞希ちゃんから笛をもらっといて」
ドーンが川田の頭に移動する。俺は一人で戻る。
夏奈がいないうちだ。ドロシーと横根がいる今こそ試さないとならない。俺は異形であろうがドアを開けられる。
ドロシーがパンツだけで着替えていた。大蔵司がにやにや眺めていた。
赤面したドロシーが、支えにした松葉杖の石突きを俺に向ける。
「出ていって!」
紅色の光に包まれて、俺はフェンスを越えて吹っ飛ばされる。
「自分の女にやられたな。俺は加勢しないぜ」
転がる俺を川田が隻眼で見おろす。
「異形で良かったね、カカカ。ていうかさ、大事なのはやっぱり川田だよ。満月が近づいたのに進展してなくね?」
「全員が大事だよ」
そう言って俺は立ちあがる。埃をはらう真似をして階段まで歩く。言の葉を加えなくてもドロシーの術は強烈だ。ドアが無事でよかった。フェンスが少し曲がったけど。
「ごめんなさい。大丈夫よね」
部屋のドアから、ドロシーが顔だけ覗かせる。
「うん。急いで服を着て、横根と一緒に外へ来て」
お詫びに杖に血を垂らして。言いやすくなった。
*
横根の服を借りたドロシーは胸もともきつそうだが、ノーブラではなくなった。俺の頼みにちょっと顔を青ざめる。
「血を垂らすのは平気だけど、瑞希さんも連れてくるの? 夏奈さんは、その杖でおかしくなった」
ドロシーの危惧は当然だ。でも川田は(小便で)匂いを消せと言った。捨てろとも噛み砕くとも言わなかった。
「何の話をしているの? 松本君が浮かんだ青い棒を持っているんだよね? 川田君教えてよ」
横根の心に異形の言葉は届かない。俺は見えない。
「松本が杖を握っている。それを瑞希がつかむ」
川田が人の言葉で告げる。みなが言葉の続きをしばらく待つ。
「私が説明する。その杖に私の血を垂らす。瑞希さんはそれを握れば、ドーン君の声が聞こえる。哲人さんが見える。……また人の世界から立ち去る」
ドロシーが横根と目を合わせずに言う。
「罠があるかもしれない。だから私は持たない。違った、持てない」
暗くなったアパート前。横根はドロシーに問う。
「それを握れば、あなたは私を好きになれるの?」
ドロシーは目を逸らしたままうつむくだけ。
横根は答えを待っていたけど、川田とカラスへ強くうなずく。
「こっちを向いて。私だけ中途半端だと迷惑になるだけ」
「わかった……。剃刀ぐらいに術を鋭くする。この程度もできない魔道士のが多い」
ドロシーがおのれの左人差し指で、右手のくすり指をなぞる。血がにじみ出る。
「思玲はできた。自分の髪を切った。……そんなでやめるなよ。全然足りない。もっと深く」
俺の言葉に、ドロシーがびくりとする。おのれの左手首を強くなぞる。顔が痛みでゆがみ、血が滴りだす。
横根の目には浮かんでいる杖へとそれを垂らす。青色にドロシーの血が上塗りされる。煙があがる。
逆鱗を感じた。
「何をしやがる。やめろ!」
夏奈の絶叫がした。
「急げ」と川田が仁王立ちする。俺達の盾になる。
俺は誰より川田を信じる。
「横根早く!」
俺は黒色となった忌むべき杖を横根の手へと押しつける。彼女は握る。
「松本君だ……」
横根が俺を見つめながら心へと言葉を発する。涙は浮かばない。またも強くうなずくだけ。
次回「忌むべき世界の八人」
たしかに乗っていて違和感がない。大蔵司のノロノロ運転やドロシーの速度違反より圧倒的にまともだ。
「そこを右折すると公園があります。そこから歩いて十数分で到着です」
「もしもし瑞希? あと十分ぐらいで到着だよ」
俺が思玲に指示して、大蔵司が横根に伝える。
夕方六時過ぎ。公園入口は施錠されていた。思玲が小刀で鍵だけ破壊するのを咎めない。先だけを思え。
大型四駆を駐車場に停めて姿隠しをかける。異形である俺は、四人の美女を俺の部屋へ案内する。見劣りしないくらいかわいい女子と、カラスと獣人が待つ部屋へだ。
「京は哲人と並んで歩いてくれ。白虎が攻撃しづらいように密着してくれ」
「思玲の頼みじゃ仕方ないね」
大蔵司の肩が触れて、ふわりと滑る。俺は彼女とだけ接せられない。
「だから思玲さんはその人と並んで歩くんすね」
隊列の真ん中を歩く夏奈が人の声で言う。「私と一緒のが安全ぽいのに。ははは」
「それ以上喧嘩を売るのはやめてくださいね」
淡いピンクのパジャマのドロシーが松葉杖で後を追う。
***
ドアを開けると、まず川田が寝転がったままでドロシーを見た。くんくんと鼻を鳴らしたような……。俺をチラリと見て背を向ける。
「お帰り……て言うか、夏奈ちゃんは哲人が見えている? 俺の声聞こえている?」
即座に俺の頭にとまったドーンが言う。
「ははは、まじで和戸君だし。まだカラスだし。めっちゃうける。ははははは」
夏奈は腹を抱えて笑う。
「子犬の川田君を覚えているよ、狼だった川田君も。猫だった瑞希ちゃんも」
「俺はお前が龍だったのを覚えている。でかいだけで弱かった」
川田がむっつりと人の声で言う。「松本。こいつはまた臭くなった」
俺は背筋が寒くなるだけ。
「き、気のせいだよ。そんなこと言っちゃ駄目だよ」
立ったままの横根が慌てて言い「夏奈ちゃん、お帰り。松本君もいるよね? ……ドロシー、ナイス、ツー、シー、ユー、アゲイン」
「オウ、ミズキー、アイム、グラッド、ツー、シー、ユー、ツー」
横根とドロシーが人の言葉を交わし、握手も交わす。ドロシーはパジャマで急ぎ手を拭く。横根がちらりと見ていた。
「狭い部屋だし長居は無用だが、シャワーを浴びたいものはここで済ませ」
人の部屋で思玲が仕切りだす。
「哲人、着替えを借りるぞ。ドロシーも寝間着を着替えたほうがいいかもな。瑞希に借りるか?」
きょとんとしたままの横根へと、思玲が再度人の言葉で面倒くさげに説明する。
「夏奈ちゃんの着替えを預かっている。そっちの方がサイズがぴったりだと思うよ」
こじれた人間関係を知らない横根がにこやかに言う。
「……桜井、貸してやってくれるか?」
思玲の頼みに、
「やだね」
夏奈は人の言葉で拒否する。
「私もやだ」
ドロシーも人の言葉で告げる。
「ドロシーの日本語かわいい。そりゃ喋るようになるよな」
大蔵司は楽しそうだ。「瑞希とのツーショットよきだね」
大蔵司は異形の言葉だけだから、横根にだけ伝わらない。そんなことを気にもせず、横根とドーンが俺をちらり見た。夏奈とドロシーが喧嘩状態と気づいたのだろう。その原因を俺の取り合いと勘違いしているみたいだ。もっとずっと深刻かもしれないのに。
「勝手にしろ」
思玲がクローゼットをひろげて、俺のシャツとジーンズを無造作に選ぶ。覗くなよと、半壊したユニットバスに行く。
「私はシャワー借りるね」
夏奈が自分の荷物を持って続く。
「わあ! 順番だろ。出ていけ」
「待つの嫌いだし、ははは」
「私達も一緒にシャワー浴びようか?」
「その冗談はもうやめてください。ドロシー服をどうぞ。伝わったかな?」
「サンキュー、ミズキ。ドウチェドウチェ」
ドロシーが横根の服を指でつまむ。おそるおそる匂いを嗅ぎ、俺へと振り向く。
「石鹸の香りだけ。着替えるから男子は出て」
*
妖怪だろうと深呼吸する。さすがに大人数で息が詰まった。緊張からも解放された。
アパートの駐輪所で、台湾で何があったかを二人に説明する。川田は聞いているか分からないけど、ドーンはカッと鳴き声で相槌を打った。
「つまり夏奈ちゃんは台湾に行って深みに嵌まった。さすが思玲の作戦だ、カカカ……それよりも哲人だよな。天珠があるから虎に見えないにしても。瑞希ちゃんの珊瑚もあるか」
「どちらも悪しきものから隠すから、白虎には意味ないらしい」
四神獣の奴らは聖獣と呼ばれている。東京で高級外国車を破壊しようが聖なる所業らしい。
「この群れを襲えるはずない。俺でも無理だ」
川田は話を聞いていた。「もっと怖いのは剣を持った人間だ。あの男は、でかい猫も従えるかもな」
あの男であるアイドル系容姿の藤川匠よりも、俺はデニーを思いだす。彼も人の式神を従えられると六魄が言っていた。その二人が狙うのは。
「やっぱり桜井夏奈が一番大事だ。守りながら、みんなが人に戻る」
「松本もさらに臭くなったな」
やっぱり川田は人の話を聞かない。顔をしかめて、「また何か腹に隠しただろ。みんなで小便かけて匂いを消すぞ」
思いだしてしまった。青いスティック棒(杖と言うには小さすぎる)。ただの人を忌むべき世界に連れていく棒――やっぱり杖のがかっこいいな。
毒食わば皿までだ。横根もこっちに連れ込もう。でも青色を誰の血で消す? 大蔵司? 俺?
俺の血は青に負けてかすんだ。大蔵司の血は強すぎて杖が壊れそう(マジで)。ならば川田。有り得るけど、せいぜい俺の血ぐらいだろう。ならばドロシー……。
もう一つの“花咲き誇る夏”の血。
龍を倒すべき者。それが事実ならば、彼女の血は青色に勝る。
「ちょっと待っていて」
「念のため瑞希ちゃんから笛をもらっといて」
ドーンが川田の頭に移動する。俺は一人で戻る。
夏奈がいないうちだ。ドロシーと横根がいる今こそ試さないとならない。俺は異形であろうがドアを開けられる。
ドロシーがパンツだけで着替えていた。大蔵司がにやにや眺めていた。
赤面したドロシーが、支えにした松葉杖の石突きを俺に向ける。
「出ていって!」
紅色の光に包まれて、俺はフェンスを越えて吹っ飛ばされる。
「自分の女にやられたな。俺は加勢しないぜ」
転がる俺を川田が隻眼で見おろす。
「異形で良かったね、カカカ。ていうかさ、大事なのはやっぱり川田だよ。満月が近づいたのに進展してなくね?」
「全員が大事だよ」
そう言って俺は立ちあがる。埃をはらう真似をして階段まで歩く。言の葉を加えなくてもドロシーの術は強烈だ。ドアが無事でよかった。フェンスが少し曲がったけど。
「ごめんなさい。大丈夫よね」
部屋のドアから、ドロシーが顔だけ覗かせる。
「うん。急いで服を着て、横根と一緒に外へ来て」
お詫びに杖に血を垂らして。言いやすくなった。
*
横根の服を借りたドロシーは胸もともきつそうだが、ノーブラではなくなった。俺の頼みにちょっと顔を青ざめる。
「血を垂らすのは平気だけど、瑞希さんも連れてくるの? 夏奈さんは、その杖でおかしくなった」
ドロシーの危惧は当然だ。でも川田は(小便で)匂いを消せと言った。捨てろとも噛み砕くとも言わなかった。
「何の話をしているの? 松本君が浮かんだ青い棒を持っているんだよね? 川田君教えてよ」
横根の心に異形の言葉は届かない。俺は見えない。
「松本が杖を握っている。それを瑞希がつかむ」
川田が人の言葉で告げる。みなが言葉の続きをしばらく待つ。
「私が説明する。その杖に私の血を垂らす。瑞希さんはそれを握れば、ドーン君の声が聞こえる。哲人さんが見える。……また人の世界から立ち去る」
ドロシーが横根と目を合わせずに言う。
「罠があるかもしれない。だから私は持たない。違った、持てない」
暗くなったアパート前。横根はドロシーに問う。
「それを握れば、あなたは私を好きになれるの?」
ドロシーは目を逸らしたままうつむくだけ。
横根は答えを待っていたけど、川田とカラスへ強くうなずく。
「こっちを向いて。私だけ中途半端だと迷惑になるだけ」
「わかった……。剃刀ぐらいに術を鋭くする。この程度もできない魔道士のが多い」
ドロシーがおのれの左人差し指で、右手のくすり指をなぞる。血がにじみ出る。
「思玲はできた。自分の髪を切った。……そんなでやめるなよ。全然足りない。もっと深く」
俺の言葉に、ドロシーがびくりとする。おのれの左手首を強くなぞる。顔が痛みでゆがみ、血が滴りだす。
横根の目には浮かんでいる杖へとそれを垂らす。青色にドロシーの血が上塗りされる。煙があがる。
逆鱗を感じた。
「何をしやがる。やめろ!」
夏奈の絶叫がした。
「急げ」と川田が仁王立ちする。俺達の盾になる。
俺は誰より川田を信じる。
「横根早く!」
俺は黒色となった忌むべき杖を横根の手へと押しつける。彼女は握る。
「松本君だ……」
横根が俺を見つめながら心へと言葉を発する。涙は浮かばない。またも強くうなずくだけ。
次回「忌むべき世界の八人」