十三の一 大姐の二胡

文字数 2,393文字

 なにかを頭にぶつけられて目が覚める。

 血の色の明かりは消えていた。音慣らしのように、弦楽器の音はまだ続いている。
 すぐ横にリュックサックが転がっていた。これを投げつけられたのか。

「全部持っていろ」

 少女の声とともに、赤色の野球帽が回転しながら俺の前に着地する……。
 頭がぼんやりする。起きたことがリアルに感じられない。人が死んだことさえ現実感がない。なのに式神達の消滅を思いだして震える。当たり前だ。ここは現実の世界でないのだから。いまの俺は、隣りあわせた世界の住人なのだから。
 リュックサックを抱えて起きあがる。背のあたる部分に、ドロシーの汗と石鹸をかすかに感じる。あっちの世界の香りだ。もう一度だけ嗅ぎなおしてしまう。

「棒を返すから、扇を返せ」
 思玲の声がする。シノを抱きしめるドロシーに指揮棒を突きだしていた。
「戦いは終わってない。泣きたいのならば、香港に帰ってから泣け」

 俺の横では、リクトが弱弱しげな声をだしている。その頭をさすってやる。

「ドーンも無事だがね」フサフサの声がした。「こりごりだ。哲人。護符があるならもう呼ぶな。いますぐ私をマチに帰せ!」
 彼女はしゃがみこみ、まだカラスを抱いていた。

「人の目に見える異形どもを人の世界に行かせられるか」
 樹上から声がした。ドングリの木(そう呼んでいた)の高い枝に、おかっぱ頭の女性が腰かけていた。弦を右手にして三味線のような楽器を抱えている。
「だが不憫な連中でもある」

 女性が二階建ての屋根ほどの高さから飛び降りる。両足で動作なく着地する。
 小柄で少しずんぐりした体形。母親と同じほど、五十歳ぐらいだろうか。黒髪に赤いシャツ、黒色のパンツ。この人も魔道士だろうけど……、それよりあいつらだ。

「使い魔は!」
 俺は思玲に聞く。奴らだけは抹殺してやる。

「うるさい。取り込み中だ」
 即座ににらみかえされる。扇をポーチにしまいながら「師傅さえも一目置いた者が来た。逃げられるものは、逃げるに決まっている」

 声をひそめて言う。……俺は女性をあらためて見る。夏の虫は鳴きなおしていた。

「お別れは済んだか」
 女性がドロシー達に言う。 

「沈大姐、お手をわずらわせ面目ございません」
 思玲がそそくさと女性にかしずく。「シノ。アンディから離れてくれ」

 ドロシーが沈大姐と呼ばれた女性をにらみながら、シノをうながす。
 女性が楽器を弦で引く。切なげなメロディーが奏でられる。アンディの体が青い炎に包まれていく。

「大姐の二胡で弔われるとは。異国での無念の死といえ、この男も報われるでしょう」

 思玲はひたすら低姿勢だ。真夜中の山奥でなければ、小学生が先生に媚びへつらうように見えるかも。

「灯」掃射音とともに、お天宮さんはまた眠りから覚まされる。

「上海に送られて報われるはずない!」
 ドロシーが空に機銃をかまえたまま沈大姐をにらむ。
「何用だ! 龍はここにいない!」

「お前こそ何度も何度も眩しいのだよ」
 フサフサがやってきた。気絶したカラスを俺に押しつけて「ハラペコ、いつまで寝ているのだい!」

 黒猫を蹴っ飛ばす。……六回転して動かないのを見て、思玲の顔がひきつる。

「ははは。その猫の言うとおりだ。露泥無(ロウニィウー)、でかい口を叩いておいて情けない」

 沈大姐が二胡をかき鳴らす。腕のなかでドーンが跳ねおき、露泥無と呼ばれたハラペコも飛びおきる。
 大姐がドロシーをにらむ。

「お嬢ちゃんも粋がるな。私は、政府からもこの国からも頼まれていない。先々代が百年以上も前に受けた依頼の始末に来ただけだ」

「俺は平気だから、服に入れるなよ」
 俺の胸もとでカラスがもぞもぞ動く。

 ドーンは寝たふりを続けやがるが、カラスとリュックを抱えるなんて、いまの体には大荷物だ。
 上海って言ったよな。思玲の言動からして、かなりの力をもつ魔道士なのだろう。……百年前といえば大正明治辺りか。どんな依頼のためにここへ現れて、俺達を救ってくれたのだ。
 この人は俺の視線に気づく。

「宵になってから見物させてもらったがね。お前が一番面白かった」
 この人は笑っているけど目は笑っていない。
「あの劉昇を倒したのは、やはり死にぞこないの爺さんではなかったな」

 劉昇? 思玲の師匠のことだよな。その人は俺達をかばって死んで、思玲はその仇討ちのためにこの世界に来た。もはや夢物語などと思わないけど……。

「大姐には関係ございませんので、憶測なさらぬように」

 思玲が即座に言う。……深読みすれば、俺がその人を倒したとでも?
 俺は手もとのカラスを見る――。俺にも寝たふりしやがった。

「王思玲、きつい目をしてもかわいいだけだ。――あんたらを助けたために、私は妖魔を消滅させる機会を逸してしまった」
 沈大姐の目は笑わない。
「あんたら全員を殺した奴らを追跡して、日の出を待ち処分できるはずだった」

 あの姿を見せない使い魔のことか。

「それが百年以上前の依頼なのですか?」
 俺は尋ねる。思玲の顔がひくつく。

「あんたが口をだすとはね。本当に面白い子だ」
 大姐の目がかすかに笑う。
「封印された使い魔が復活したら消す。西洋の国から安い金で引き受けた依頼のために、私らは見張りを東京に送りつづけた。……この式神が当番となり数年で封印は解かれた」

 視線の集中を受けた黒猫がよろよろと四肢をあげる。

「台湾の連中は妖魔の思い通りに使われた」
 猫が思玲を見あげる。「内輪もめにつけこまれた」

 なんの話か、俺はなにも知らない。ドーンは薄目を開けて、すぐに閉じるだけだ。シノはアンディが消えた前でしゃがんだままなのに、誰も寄り添ってあげられない。

「そんなことはどうでもいい。その時にでくわした首領が、受けついだ使命を果たすだけだ。だけど、しくじってしまった。分かるか、王思玲」
 沈大姐が少女を見おろす。
「落とし前をつけてもらわないとな」




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