二十四の二 差しだすものあり
文字数 3,358文字
ケヤキの幹の反対側まで回りこむ。俺を抱えた思玲が声をひそめる。
「ここまでは、この木のおかげでたやすい。ここからが難しい」
「あれ? 座敷わらしまで消えやがった。分散して追いますか?」
当然のように小鬼に気づかれる。
「追えるのはお前と私だけだろ……。ここはうっとうしいな。私の感がまったく冴えない。奴らに地の利を感じるぞ」
大ケヤキの反対側から峻計の声がする。
「この老いぼれの木のせいだな。こいつをまず消すか」
思玲のこめかみに汗が伝わる。扇をひろげた。
「やめましょうよ。人が集まりますよ思玲が空港を強行突破した騒ぎの二の舞ですよ。老祖師が来られるまでは、騒ぎを大きくすべきじゃないですよ」
小鬼の醒めた声。
「そうか? 俺は峻計さんに賛成だな」
鬼達がやんやと喝采する。
「北七 」
小鬼が、人間の発音でわざとらしく吐き捨てる。
「馬鹿ってスラングだ」思玲が小声で言う。「……とてもでないが無理だ」
そりゃそうだ。とても逃げられそうにない――。ズシンと、ケヤキが揺れる。思玲がびくりとする。
「次は口だけの役立たずに当てる。青龍を探しにいきな。見つけるまで顔を見せるな」
「はいはい。しびれさせておきますから、扇を振りまわさないでください。あきらめないでくださいよ」
低い空に、去っていく小鬼が見えた。
「神経を逆なでさせる奴だ。老祖師のお気に入りでなければ躾けてやったのに」
ケヤキの横を歩く気配。まず蝶の刺繍が入った赤色の背高いヒールが見えた。そこからすらりとした足が伸びて……、幾多の蝶が花に舞う模様。そして俺達を見おろすあいつと目が合う。
峻計はおぞましい笑みを浮かべても、きれいなままだった。
「あなたの結界を見るのも最後なのに、もっと素敵なものにしてほしかったわ。破りがいもない」
結界の向こうで峻計が黒羽扇をかかげる。
「我、たとえ身が滅しようとも護るべき者なおもあり」
思玲が目を閉じる。唱えはじめる。
「祓うこと叶わずとも邪を妨ぐ力を授けたまえ」
俺を片手に抱えたまま扇をはらう。
「舞いおさむるも叶わずは、我が心足らぬほど護るべき者多きゆえ」
次の瞬間、俺達は水晶の中に閉じこもる。峻計が発した黒い光がはじき返される。ケヤキを背にかすめるほどの距離に張られた、はね返しの結界。
「瞬時にかい。半面だけといえ硬い」
思玲が妖艶に笑う。
「見せてくれたお礼に、虫食いの木と一緒に消してやる。悠長に結界を削る暇もないしね」
峻計も呪文を唱えだす。まがまがしい気配に包まれる。
「生きとしものすべてを溶かすつもりだ。箱だけが残る。……これまでかもな」
思玲の腕から力が抜ける。扇をじっと見つめる。
「無理だろうが、ここから逃げよう。この木まで巻き添えになりますよ」
今も大ケヤキは俺と思玲を包んでくれている。異形の争いに巻きこみたくない。
「さっき見ただろ。黒羽扇は我が術を手玉にする。……これほどの樹だ。万象を受けいれる」
俺を脇にずらし、思玲は結界を扇でなぞる。内側からかすかにひびが入る。俺を見つめる。
「あいつが術をだした瞬間、亀裂に護符を押しつけろ。私はかまえているので、なんとしてでも結界を消せ」
彼女はあきらめてなどいなかった。扇をおのれの顔の前へと持ちあげる。「世話になったな」と扇へと唇をつける。かまえた小刀の前にかざし、また呪文をつぶやきだす。
「我、人を救うために差しだすものあり――」
思玲の清らかな声をかき消すように、おぞましい声が聞こえる。
「今の人の世に抗いしもの、なおも多し。我もその一片なれば」
峻計の呪文が高まっていく。「ゆえに闇を求むる!」
目を見ひらき黒羽扇をたくし上げる。
……いまだよな。俺は這うように体を動かし、きらめく結界に木札を押しこむ――。押しかえされる。弱った護符ではとても無理だ。
上空から黒い結界ともいうべきものが、ケヤキと俺達を包もうとしている。峻計は自然の理に反したことをしでかすつもりだ。昨夜思玲がしたことよりも、はるかに凄まじいことを……暗黒が降ってきたじゃないか!
仕上がりに満足したかのように、あいつはほくそ笑む。
「はやく消せ!」
怒鳴る思玲は外だけを見ている。
彼女まで消されてたまるか。自分の力も注ぎこめ!
ふいに護符を中心に、空中の亀裂が四方へとひろがる。小さな結界が崩れていく。
峻計が俺達を見おろし口を開けて笑った。俺達がいぶりだされるのを待ちかまえていた。黒羽扇を振りかざそうとしたとき、大ケヤキの枝葉が大きく揺れる。小鳥達が一斉に飛びたつ。あいつの気が一瞬それる。
「これは我が心!」
思玲が叫びながら、小刀で扇を切り裂く。扇の破片が光を帯び、前方へと飛ぶ。
峻計が黒羽扇を斜め十字に振りかざす。銀色の破片達が術により叩き落とされる。それでも残りが次々と峻計に突き刺さる。
あいつの黒羽扇を持つ手がだらりと下がる。
「逃げるぞ。巻きこまれる」
思玲が俺の手を引く。弱った体では肩が抜けそうだけど、目の前まで闇が降りてきた。俺と思玲は転がるように暗黒から抜けでる。
体中に扇の破片を受けた峻計がいる。両手を下げて仁王立ちして笑う。
「覚悟のうえよね。もう楽には死なせないよ」
「だまれ! これは我が体!」
思玲が小刀を投げる。峻計の眉間に突き刺さり、金色に燃えはじめる。
あいつはもはや身動きできないのか。燃える刀を受けながら、それでも俺達へと残忍な笑みを向ける。
思玲が立ちあがる。
「これは……、積年の恨み!」
ショルダーバッグを投げる。あいつの足もとで、術を吹きだしながら溶けていく。
術のつむじ風が峻計を包む。思玲が俺を引きずり駆け抜ける。
鬼達は呆気にとられているだけだ。
「あいつは螺旋の光をたやすく避ける。白露扇 を犠牲にするしかなかった。だが扇と護刀をじかに喰らおうが、あいつならば夜を待たずに回復する」
思玲が荒い息で言う。
「本気で怒らせてしまったぞ。哲人もむごく殺されるかもな。……あいつの隙をとらえたのに無念極まりない」
手持ちの武器をすべて使って時間稼ぎだけ? 割にあわない。
「あいつは何者ですか?」
「楊偉天の式神、いや片腕だ。みずからの羽根と引き換えに底知れぬ力を得た大鴉だ。飛ぶことを捨て、人の目にさらされ、人の手足をまとった化け物だ」
体中がまだ鈍痛に襲われている。宙に浮かぶように引きずられながら、俺は振り返る。
人の目に見えない闇は霧散していた。誰に気づかれることもなく、大ケヤキはあとかたもなく消えた。枝葉の中にいた小鳥達がみんな逃げていてくれたらと願う。
***
思玲は校内の大通りで立ちどまる。
当たり前だけど、太陽は昨日の今ごろと同じ位置にある。夕立のおかげであの暑さはなさそうだ。人通りは皆無。すぐそばのカフェテラスも無人だ。あの場所を見ても、懐かしいなんて思わない。
「ドーン達は大丈夫ですか?」
弱弱しく声かける。体はまったく癒されない。
「あいつが私を追うかぎりは平気だろ。私達のが山火事の中の松ぼっくりだ」
思玲が行き先を探るように周囲を見わたす。
「あいつにかかれば、私など刈られるのを待つ痩せた稲穂にすぎないからな」
覚悟を決めたように歩きだす。俺から手を放す。
「どこへ行くのですか?」
浮かびながら尋ねる。自力でなんとか前へ進む。
「不確かではあるが、すぐそばに護符を清められそうな場所がある。ここから先は哲人と木札が頼みだからな」
近くに清らかな場所? 思いあたらない。
「聖域とも言えるだろう。図書館だ」
目ざす場所を聞いて、俺は宙で立ちどまってしまう。
「思玲、あそこには……」
「分かっている。使い魔を封じこむほどに清らかなものがあるはずだ。使わぬ手はない」
思玲は立ちどまらない。振り向きもせずにずんずんと歩く。「だが充分に気を張っていろ。決して耳を傾けるな。魂を奪われるぞ」
それでも俺は立ちどまったままだ。……悪あがきだ。扇を切り裂いたのも、魔物の巣窟にいくのも、滝つぼに沈められてもがいているだけだ。
「はやくしろ。黒羽扇の光が飛んでくるぞ」
急かされて、気力をしぼり空中を進む。さらなる深みに嵌まる気がしてならないまま。
西に傾きだした太陽に照らされながら、丸腰の彼女の影を追いかける。
次回「弱い二人が向かうのは」
「ここまでは、この木のおかげでたやすい。ここからが難しい」
「あれ? 座敷わらしまで消えやがった。分散して追いますか?」
当然のように小鬼に気づかれる。
「追えるのはお前と私だけだろ……。ここはうっとうしいな。私の感がまったく冴えない。奴らに地の利を感じるぞ」
大ケヤキの反対側から峻計の声がする。
「この老いぼれの木のせいだな。こいつをまず消すか」
思玲のこめかみに汗が伝わる。扇をひろげた。
「やめましょうよ。人が集まりますよ思玲が空港を強行突破した騒ぎの二の舞ですよ。老祖師が来られるまでは、騒ぎを大きくすべきじゃないですよ」
小鬼の醒めた声。
「そうか? 俺は峻計さんに賛成だな」
鬼達がやんやと喝采する。
「
小鬼が、人間の発音でわざとらしく吐き捨てる。
「馬鹿ってスラングだ」思玲が小声で言う。「……とてもでないが無理だ」
そりゃそうだ。とても逃げられそうにない――。ズシンと、ケヤキが揺れる。思玲がびくりとする。
「次は口だけの役立たずに当てる。青龍を探しにいきな。見つけるまで顔を見せるな」
「はいはい。しびれさせておきますから、扇を振りまわさないでください。あきらめないでくださいよ」
低い空に、去っていく小鬼が見えた。
「神経を逆なでさせる奴だ。老祖師のお気に入りでなければ躾けてやったのに」
ケヤキの横を歩く気配。まず蝶の刺繍が入った赤色の背高いヒールが見えた。そこからすらりとした足が伸びて……、幾多の蝶が花に舞う模様。そして俺達を見おろすあいつと目が合う。
峻計はおぞましい笑みを浮かべても、きれいなままだった。
「あなたの結界を見るのも最後なのに、もっと素敵なものにしてほしかったわ。破りがいもない」
結界の向こうで峻計が黒羽扇をかかげる。
「我、たとえ身が滅しようとも護るべき者なおもあり」
思玲が目を閉じる。唱えはじめる。
「祓うこと叶わずとも邪を妨ぐ力を授けたまえ」
俺を片手に抱えたまま扇をはらう。
「舞いおさむるも叶わずは、我が心足らぬほど護るべき者多きゆえ」
次の瞬間、俺達は水晶の中に閉じこもる。峻計が発した黒い光がはじき返される。ケヤキを背にかすめるほどの距離に張られた、はね返しの結界。
「瞬時にかい。半面だけといえ硬い」
思玲が妖艶に笑う。
「見せてくれたお礼に、虫食いの木と一緒に消してやる。悠長に結界を削る暇もないしね」
峻計も呪文を唱えだす。まがまがしい気配に包まれる。
「生きとしものすべてを溶かすつもりだ。箱だけが残る。……これまでかもな」
思玲の腕から力が抜ける。扇をじっと見つめる。
「無理だろうが、ここから逃げよう。この木まで巻き添えになりますよ」
今も大ケヤキは俺と思玲を包んでくれている。異形の争いに巻きこみたくない。
「さっき見ただろ。黒羽扇は我が術を手玉にする。……これほどの樹だ。万象を受けいれる」
俺を脇にずらし、思玲は結界を扇でなぞる。内側からかすかにひびが入る。俺を見つめる。
「あいつが術をだした瞬間、亀裂に護符を押しつけろ。私はかまえているので、なんとしてでも結界を消せ」
彼女はあきらめてなどいなかった。扇をおのれの顔の前へと持ちあげる。「世話になったな」と扇へと唇をつける。かまえた小刀の前にかざし、また呪文をつぶやきだす。
「我、人を救うために差しだすものあり――」
思玲の清らかな声をかき消すように、おぞましい声が聞こえる。
「今の人の世に抗いしもの、なおも多し。我もその一片なれば」
峻計の呪文が高まっていく。「ゆえに闇を求むる!」
目を見ひらき黒羽扇をたくし上げる。
……いまだよな。俺は這うように体を動かし、きらめく結界に木札を押しこむ――。押しかえされる。弱った護符ではとても無理だ。
上空から黒い結界ともいうべきものが、ケヤキと俺達を包もうとしている。峻計は自然の理に反したことをしでかすつもりだ。昨夜思玲がしたことよりも、はるかに凄まじいことを……暗黒が降ってきたじゃないか!
仕上がりに満足したかのように、あいつはほくそ笑む。
「はやく消せ!」
怒鳴る思玲は外だけを見ている。
彼女まで消されてたまるか。自分の力も注ぎこめ!
ふいに護符を中心に、空中の亀裂が四方へとひろがる。小さな結界が崩れていく。
峻計が俺達を見おろし口を開けて笑った。俺達がいぶりだされるのを待ちかまえていた。黒羽扇を振りかざそうとしたとき、大ケヤキの枝葉が大きく揺れる。小鳥達が一斉に飛びたつ。あいつの気が一瞬それる。
「これは我が心!」
思玲が叫びながら、小刀で扇を切り裂く。扇の破片が光を帯び、前方へと飛ぶ。
峻計が黒羽扇を斜め十字に振りかざす。銀色の破片達が術により叩き落とされる。それでも残りが次々と峻計に突き刺さる。
あいつの黒羽扇を持つ手がだらりと下がる。
「逃げるぞ。巻きこまれる」
思玲が俺の手を引く。弱った体では肩が抜けそうだけど、目の前まで闇が降りてきた。俺と思玲は転がるように暗黒から抜けでる。
体中に扇の破片を受けた峻計がいる。両手を下げて仁王立ちして笑う。
「覚悟のうえよね。もう楽には死なせないよ」
「だまれ! これは我が体!」
思玲が小刀を投げる。峻計の眉間に突き刺さり、金色に燃えはじめる。
あいつはもはや身動きできないのか。燃える刀を受けながら、それでも俺達へと残忍な笑みを向ける。
思玲が立ちあがる。
「これは……、積年の恨み!」
ショルダーバッグを投げる。あいつの足もとで、術を吹きだしながら溶けていく。
術のつむじ風が峻計を包む。思玲が俺を引きずり駆け抜ける。
鬼達は呆気にとられているだけだ。
「あいつは螺旋の光をたやすく避ける。
思玲が荒い息で言う。
「本気で怒らせてしまったぞ。哲人もむごく殺されるかもな。……あいつの隙をとらえたのに無念極まりない」
手持ちの武器をすべて使って時間稼ぎだけ? 割にあわない。
「あいつは何者ですか?」
「楊偉天の式神、いや片腕だ。みずからの羽根と引き換えに底知れぬ力を得た大鴉だ。飛ぶことを捨て、人の目にさらされ、人の手足をまとった化け物だ」
体中がまだ鈍痛に襲われている。宙に浮かぶように引きずられながら、俺は振り返る。
人の目に見えない闇は霧散していた。誰に気づかれることもなく、大ケヤキはあとかたもなく消えた。枝葉の中にいた小鳥達がみんな逃げていてくれたらと願う。
***
思玲は校内の大通りで立ちどまる。
当たり前だけど、太陽は昨日の今ごろと同じ位置にある。夕立のおかげであの暑さはなさそうだ。人通りは皆無。すぐそばのカフェテラスも無人だ。あの場所を見ても、懐かしいなんて思わない。
「ドーン達は大丈夫ですか?」
弱弱しく声かける。体はまったく癒されない。
「あいつが私を追うかぎりは平気だろ。私達のが山火事の中の松ぼっくりだ」
思玲が行き先を探るように周囲を見わたす。
「あいつにかかれば、私など刈られるのを待つ痩せた稲穂にすぎないからな」
覚悟を決めたように歩きだす。俺から手を放す。
「どこへ行くのですか?」
浮かびながら尋ねる。自力でなんとか前へ進む。
「不確かではあるが、すぐそばに護符を清められそうな場所がある。ここから先は哲人と木札が頼みだからな」
近くに清らかな場所? 思いあたらない。
「聖域とも言えるだろう。図書館だ」
目ざす場所を聞いて、俺は宙で立ちどまってしまう。
「思玲、あそこには……」
「分かっている。使い魔を封じこむほどに清らかなものがあるはずだ。使わぬ手はない」
思玲は立ちどまらない。振り向きもせずにずんずんと歩く。「だが充分に気を張っていろ。決して耳を傾けるな。魂を奪われるぞ」
それでも俺は立ちどまったままだ。……悪あがきだ。扇を切り裂いたのも、魔物の巣窟にいくのも、滝つぼに沈められてもがいているだけだ。
「はやくしろ。黒羽扇の光が飛んでくるぞ」
急かされて、気力をしぼり空中を進む。さらなる深みに嵌まる気がしてならないまま。
西に傾きだした太陽に照らされながら、丸腰の彼女の影を追いかける。
次回「弱い二人が向かうのは」