十の四 魔犬 

文字数 2,336文字

 柴犬などではない。中型の猟犬だ。でも奴にちがいない。

「リクト!」

 俺は中空をキックステップする。犬種まで変わった子犬へと飛びかかる。リクトの片目が光る。牙を離し、俺へと跳ねる。灰色の羽毛が幾多も舞う。
 くっ、リクトの牙が俺の肩に食いこむ。ともに地面に落ちて転がる。リクトが牙を離す。……地に伏した俺の首へ向けて躊躇した。
 視界の隅で、ドロシーが俺達に銃口を向けていた。まとめて撃とうとして、彼女もためらう。手負いの獣が感づく。

「ドロシー、逃げろ!」

 俺は叫び、リクトの尾をつかむ。そのまま背中を抱えようとして跳ね飛ばされる。ドロシーとリクトのあいだに、ぬめった足が地面から伸びる。

ウォーン

 猟犬が喜びの声をあげた。体に張りついた吸盤から食い荒らそうとする。たまらず足は地面に逃れる。かすれ始めた明かりの下で、銀色の糸が網目状にひろがる。手負いの獣へと落ちる。がんじがらめになったリクトが地上で暴れる。

(ミィエ)

 ドロシーの声。掃射音とともに煤竹色の光がリクトへと乱れ飛ぶ。灰風が首を伸ばし、リクトへとくちばしを降ろす。

「やめろー!」

 俺は大タカのくちばしへと体当たりする――。タコの足が猟犬と化したリクトを締めつけていた。

「やめ……」

 リクトがタコの足もクモの糸も払いのけやがった。弾倉へと呪文をこめるドロシーへ突進する。

「やめろ!」

 俺はドロシーの前に飛びこむ。リクトに押されてドロシーとともに倒れこむ。
「うっ」と、胸をつぶされたドロシーが苦悶する。俺はのしかかるリクトのあごを下から押しかえす。

「……素早いな」手負いの獣がつぶやく。

「リクト! 俺だよ、松本だよ!」必死に声かける。「アパートで何度もご飯あげただろ! トイレの掃除もほとんど俺がしてやっただろ。リクトはいい子だっただろ」

 俺の問いかけにも、牙からよだれを垂らすだけだ。こいつは頑固だ。

「灰風、こいつらを食べて。切り裂いて!」シノが叫ぶ。

「だめ! 殺すのは手負いの獣だけ」
 ドロシーが俺の下で荒い息で言う。

「やめろ! リクトを殺すな!」

 猟犬の首を押さえながら、俺も叫ぶ――。
 リクトから力が抜けた。次の瞬間には灰風の首もとに牙を差しこむ。大タカの悲鳴がまた響きわたる。
 手負いの獣は灰風のとまどいの気配にすら反応しやがった。なんて奴だ。

「リクト、やめろ!」

 俺は大タカの首にぶらさがるリクトの首を両手で引っ張る……。いったい俺は誰の味方だ。
 俺に首を絞められたリクトの鼻息が荒くなる。ようやく牙が離れる。俺と一緒に落ちる――。すぐに駆けだし、淡い光と深い闇の境界で向きを戻す。ドロシーの作った明かりは薄暮ほどに弱まっていた。

「これ以上狩りの邪魔をするなら」
 その淡い闇にすら、リクトの眼光がひとつ輝く。「松本といえどもゆるさない」
 猟犬が闇にまぎれる。

「ドロシー、あれを使って! 喚問には私も立ち会う。私が証人になるから!」
 大タコの足に守られながら、シノが叫ぶ。

「スマホは王姐に奪われた」
 俺の前に這いながら、ドロシーが言う。

 シノが自分のスマホをバッグから取りだす。五本のうごめく赤い氷柱に守られながら、操作をはじめる。

「つながった。でも、あのパスワードなんて覚えてない」
「HECK! NOTRY UNIONSONG GO!」

 ドロシーが叫ぶ。シノがスマホをまた操作する。画面を手にかざす。なにかをつまみ、タコの吸盤につける。その足は地面へともぐる。
 とてつもなく、いやな予感がした。

「リクト、逃げろ! こっちへ来るな!」

 叫ぶ俺を土蛸の足が払いのける。地面から生えたぬめる足が、ドロシーになにかを授ける。彼女がその覆いをはずし、顔が白く照らされる。悪寒がした……。
 ドロシーは紅色の口もとでそれに吐息をかけて、火縄銃みたいに銃口から詰める。

「八ちゃん、そいつを押さえていて。玉はひとつだけだから」

 シノの声とともに、立ちあがった俺に銀色の糸が吹きかかる。足でこづかれ、地面にころがる。……上空から照らす明かりはさらに薄らいでいく。ドロシーが凛と立つ。

「邪悪なる魔物よ。我々こそが香港魔道団」
 声高らかに宣する彼女の背後を、大タコの足が守る。
「貴様は地の底に帰らねばならない。姿を現せ!」

 彼女が唇を舐める。またも泣いていた。銀糸にからまれながら俺はもがく。
 リクトは正面から現れた。真っ向勝負な奴だ――。ドロシーが銃をかまえる。

白銀弾(パイインタン)

 彼女がつぶやく。俺は地面であがく。川田を守らないと――。

 俺がクモの糸を突き破った瞬間、ドロシーが引き金を引く。
 目がくらみ怯えが走る。俺はすべて跳ねかえす。異形の目にはおぞましい白銀の光は黒色の猟犬へと向かい、灰色の壁に突き当たる。

「灰風ちゃん!」

 ドロシーが銃を投げ捨て大タカへと駆け寄る。白銀色の玉を受けた大タカの翼が消えていく。灰風の垂れた首へと、彼女はしがみつこうとしてするりと滑る。

「ドロシーさん。あの犬を消していたら、誰もがそいつに殺されました」
 大タカの体も溶けていく。
「私はすでに飛べぬ体でした。みなを守って死んだとだけお伝えください。……お祈りいただきありがとうございました。そいつらを恨まぬように」

 灰風は首から先だけの存在となる。くちばしから黒い液を吐く。それを身に受けても、ドロシーは泣きながら見上げる。大タカが俺に目を向ける。

「松本哲人、どうか彼女達もお守りください」

 灰風が消える。ドロシーがひれ伏し嗚咽する。

「松本」
 手負いの獣は俺のかたわらにいた。
「タカでなく、お前が俺を守ったのだろ。やっぱり俺のボスは松本しかいないな」

 片目の猟犬が俺の手の甲を舐める。明かりは途絶え、杉林はまた暗闇に支配される。




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