五の一 マッハ2.2
文字数 3,175文字
酒臭い。
目覚めたら麻卦執務室長の寝顔が真横にあった。
「うわああ!」
声をだしてのけぞってしまう。「この野郎!」
こいつだけはゆるせない……何に?
「松本が最初に目覚めたか。また紅天の勝ちか」
異形の声がした。……それよりも。
「朱地よ嘆くな。本来なら雅が最初に決まっていたけど、あの方はこいつに強めに術をかけたわけだ」
「血海、遊びは終わりだ。もう黙れ」
俺はぼんやりと見る。赤色の肌の三メートルも背丈がありそうな軍服の鬼達が、知的な目で俺を見ていた。
それよりも、ここは空の上じゃないか! このつるつるな鱗肌には覚えがある。上海の式神の殲の上だ。
「お、お前らは?」
言いながら周囲を見る。
満天の星空。いびきをかいて寝ている執務室長。うずくまり目をつぶる蒼い狼。三体の赤い鬼。くの字で眠る思玲……邪気なき寝顔で黒猫を抱えている……。
「俺はなぜここにいる? どこへ連れていくつもりだ!」
パーシーというイングリッシュネームの閭さんと深圳で別れてから、記憶が飛んでいる。つまり、ろくでもないことが起きたに決まっている。
俺は立ちあがる。高速で移動していると感じる。なのに風がない。結界に包まれている。
「みんな起きろ!」叫びながら手に独鈷杵をだす。
「憤怒の気をださないでくれ。俺達は味方だ。ぐひひ」
紅天と呼ばれた眼鏡をかけた赤鬼が言う。
「だがオブサーバーだ。監視役だ。げひひひひ」
ツノが飛びでたベレー帽をかぶった赤鬼が笑う。こいつは血海。
「俺達は不夜会の式神だ。従わないとぐへ……」
軍服に赤いネクタイをした朱地という名の赤鬼が、孔雀色の螺旋を受けて吹っ飛ぶ。結界を突き破り夜空に消える。
「この野郎! マッハ2.2で外に弾きだされたら俺達でも…………」
怒鳴る血海も螺旋を受けて闇に消える。悲鳴さえ聞こえない。
螺旋の光が開けた結界の穴から凍える風が飛びこむ。すぐに塞がれる。
「ここはどこだ?」
思玲は上半身だけを起こして、七葉扇と小刀を構えていた。よろめきに耐えて立ちあがる。
のこった眼鏡の鬼へと聞く。
「こいつは貉のハラペコか? 貴様らは上海か?」
足もとで寝たままの黒猫を蹴っ飛ばす。
「ふぎゃ!」露泥無が結界にぶつかり悲鳴を上げる。「なんだ? なんだ?」
眼鏡の女の子の姿になる。
「王思玲。滅茶苦茶すぎるぞ。貴様の脳みそは十二磈ていどか?」
眼鏡鬼の紅天も立ち上がる。
「まずは話を聞くのが道理だろ。露泥無! 間に合わないにしてもだ、殲にあいつらを拾いに戻るように頼め。こいつは俺達の声を聞いてくれなグエ!」
紅天へと蒼い雌狼が飛びかかる。首を噛むなり引きちぎる。赤鬼が溶けて消えていく……。
なにが起きたかわからぬうちに、翼竜の背中にいるのは俺、思玲、雅、なぜに露泥無、まだいびきをかいている麻卦さんだけになる。
「あの鬼達はデニー様の庶務……賢いけどでかいだけ」
露泥無である女の子は茫然としている。
「倒すなんて許される行為じゃない。ともにいた僕さえ罰せられる……なぜに僕は松本達と殲の上にいる?」
「それはこっちのセリフだ」
問答無用で鬼達を消し去った思玲が額の汗をぬぐう。
「上海へ連れていくつもりじゃないだろな? 殲、答えろ。鱗肌に穴を開けるぞ」
――私は大姐としか言葉は交わさない
重低音の声がずしりと腹に響く。
「ならばオープンホールだ」
思玲が扇と小刀を持ち、亮相の姿勢をかまえる。
――開けられるはずなく、身を守るためならば反撃しろと命ぜられている。なので扇をおろせ。あと五分で目的地だ。
「ぼ、僕は大姐じきじきに監視を任されている。どこに行くのか答える義務が殲にはある。僕には何があったか知る義務がある」
露泥無が足もとへと言う。
――私は飛行機代わりだ。答える命 を受けてない。お前たちを降ろしたら上海に戻るだけだ
ならば行き先は日本……。重低音の声が足もとからまた響く。
――これ以上の答えを求めるならば、公平を保つためにデニー様の式神を倒した償いを与えないとならない。だから静かにしていろ。ちびで頭でっかちで生意気な黒貉め、食ってやるぞ
「お、落ちつけよ。到着まで黙っている」
言いながら女の子が溶けていく。完全なる闇と化す。
「この姿を食べても腹の足しにならな……静かにする」
「絶対に台湾行きの便ではないな。雅も座れ」
思玲が鱗へとあぐらをかく。
「参謀長ってのは“緑眼のデニー”って奴だよな? なぜにそいつの式神がいたのか、倒した言い訳をどうするか、そもそも何があったのか、これから何があるのか、デブジャパニーズ親父はいつまで寝ているのか、ハラペコ答えろ」
「大姐がデニー様に殲を貸した。香港を出し抜くためにだ」
闇が答える。
「だけど僕も、深圳の工事現場で昼寝をしたあとの記憶がない。おそらくデニー様に記憶を消された。思玲達もだな。だからみんな気を失っていた」
非常に嫌な気分になった。
酒を飲まされ過ぎて(半分は自発的)、意識を失ったことがあるけど……なんのために俺達の記憶を奪った? そもそも俺はデニーって人と会っているのか? ドロシーと挨拶は済ませられたのか? 閭さんとは? 他にも何か忘れている気がする……六体の揺らぐ影。
「思玲。六魄はいるかな」いなくてもいいけど尋ねてみる。
「あん? ……そういえば、なんかいたな。ここにはおらぬ」
思玲が断言する。「このジャパニーズは服の腹が燃えて火傷しているじゃないか。術の光を受けたみたいだな」
「私も何も覚えていない。申し訳ございません」
雅が四肢を上げる。「麻卦を起こしましょうか?」
「牙でか? やさしくな」
「俺が起こすよ。用心棒だし」
起きてくださいと、麻卦さんの頬をやさしく叩く。手がするりと滑る。
「はいはい。あなた様がご所望なら……」
それでも麻卦さんが寝ぼけた目を開ける。
すぐに括目する。
「くそ台湾女め!」
俺をふわりと払いのけるなり、両手に扇が現れる。
「蹴りをつけてやる……ここはどこだ? 俺は何に怒っている? 腹がいてぇ」
火傷した太鼓腹を抱える。……おそらく消された記憶の中で、麻卦さんと思玲さんは喧嘩した。魔道具を使うほどのだ。何があったんだ?
「おなかの傷は思玲ではないかもしれません。記憶を改ざんされているかも」
そうではないと思うけど、諍 いを収めるために言う。
「麻卦さんも何も覚えてないようですね」
それから現状を彼に説明する。露泥無は闇になったまま声も気配も発しない。
「連中はなんでもありだからな。魔道士ってのはな、その国とそっくりになるんだよ」
そう言って麻卦さんが扇で腹をさする。でっかい絆創膏が服の上から貼られる。
「大蔵司みたいに傷は治せないけどな、俺は日本人だから奴らよりは賢い。技能に秀でている。『印』と『伝』、なにが起きたか知っているか」
「はい」と手にする扇が答えた。
「小耳を貸してください」ともう一つの扇も言う。
「式神を封じているのか……」
思玲が尊敬のまなざしを麻卦さんに向ける。大鹿と言っていたな。
「封印だ。そんで、こいつらの記憶を消し損ねたってことだ」
麻卦さんが扇を左右の耳に当てる。その顔が赤くなり青くなり俺を見て思玲をにらみ、しばらくしてがははと大笑いする。
「なるほどな。俺が思玲ちゃんにセクハラして、やり返された。大騒ぎにデニーが怒って追いだされた。それだけのことだとさ」
その手から扇が消える。
「思玲ちゃん、ごめんね。俺が全部悪かった」
「扇を向けさせるとは、どんな行為をしたのだ?」
思玲はにらみ返す。また七葉扇が現れそうだ。
「酔っぱらって抱きついて尻をさすったみたいだな。恥ずかしい」
それから麻卦さんは俺を見る。「日本にはどれくらいでつく?」
「もうすぐです」
俺が答えると同時に、殲が速度を緩めるのを感じた。
次回「人と異形と大人と子ども」
目覚めたら麻卦執務室長の寝顔が真横にあった。
「うわああ!」
声をだしてのけぞってしまう。「この野郎!」
こいつだけはゆるせない……何に?
「松本が最初に目覚めたか。また紅天の勝ちか」
異形の声がした。……それよりも。
「朱地よ嘆くな。本来なら雅が最初に決まっていたけど、あの方はこいつに強めに術をかけたわけだ」
「血海、遊びは終わりだ。もう黙れ」
俺はぼんやりと見る。赤色の肌の三メートルも背丈がありそうな軍服の鬼達が、知的な目で俺を見ていた。
それよりも、ここは空の上じゃないか! このつるつるな鱗肌には覚えがある。上海の式神の殲の上だ。
「お、お前らは?」
言いながら周囲を見る。
満天の星空。いびきをかいて寝ている執務室長。うずくまり目をつぶる蒼い狼。三体の赤い鬼。くの字で眠る思玲……邪気なき寝顔で黒猫を抱えている……。
「俺はなぜここにいる? どこへ連れていくつもりだ!」
パーシーというイングリッシュネームの閭さんと深圳で別れてから、記憶が飛んでいる。つまり、ろくでもないことが起きたに決まっている。
俺は立ちあがる。高速で移動していると感じる。なのに風がない。結界に包まれている。
「みんな起きろ!」叫びながら手に独鈷杵をだす。
「憤怒の気をださないでくれ。俺達は味方だ。ぐひひ」
紅天と呼ばれた眼鏡をかけた赤鬼が言う。
「だがオブサーバーだ。監視役だ。げひひひひ」
ツノが飛びでたベレー帽をかぶった赤鬼が笑う。こいつは血海。
「俺達は不夜会の式神だ。従わないとぐへ……」
軍服に赤いネクタイをした朱地という名の赤鬼が、孔雀色の螺旋を受けて吹っ飛ぶ。結界を突き破り夜空に消える。
「この野郎! マッハ2.2で外に弾きだされたら俺達でも…………」
怒鳴る血海も螺旋を受けて闇に消える。悲鳴さえ聞こえない。
螺旋の光が開けた結界の穴から凍える風が飛びこむ。すぐに塞がれる。
「ここはどこだ?」
思玲は上半身だけを起こして、七葉扇と小刀を構えていた。よろめきに耐えて立ちあがる。
のこった眼鏡の鬼へと聞く。
「こいつは貉のハラペコか? 貴様らは上海か?」
足もとで寝たままの黒猫を蹴っ飛ばす。
「ふぎゃ!」露泥無が結界にぶつかり悲鳴を上げる。「なんだ? なんだ?」
眼鏡の女の子の姿になる。
「王思玲。滅茶苦茶すぎるぞ。貴様の脳みそは十二磈ていどか?」
眼鏡鬼の紅天も立ち上がる。
「まずは話を聞くのが道理だろ。露泥無! 間に合わないにしてもだ、殲にあいつらを拾いに戻るように頼め。こいつは俺達の声を聞いてくれなグエ!」
紅天へと蒼い雌狼が飛びかかる。首を噛むなり引きちぎる。赤鬼が溶けて消えていく……。
なにが起きたかわからぬうちに、翼竜の背中にいるのは俺、思玲、雅、なぜに露泥無、まだいびきをかいている麻卦さんだけになる。
「あの鬼達はデニー様の庶務……賢いけどでかいだけ」
露泥無である女の子は茫然としている。
「倒すなんて許される行為じゃない。ともにいた僕さえ罰せられる……なぜに僕は松本達と殲の上にいる?」
「それはこっちのセリフだ」
問答無用で鬼達を消し去った思玲が額の汗をぬぐう。
「上海へ連れていくつもりじゃないだろな? 殲、答えろ。鱗肌に穴を開けるぞ」
――私は大姐としか言葉は交わさない
重低音の声がずしりと腹に響く。
「ならばオープンホールだ」
思玲が扇と小刀を持ち、亮相の姿勢をかまえる。
――開けられるはずなく、身を守るためならば反撃しろと命ぜられている。なので扇をおろせ。あと五分で目的地だ。
「ぼ、僕は大姐じきじきに監視を任されている。どこに行くのか答える義務が殲にはある。僕には何があったか知る義務がある」
露泥無が足もとへと言う。
――私は飛行機代わりだ。答える
ならば行き先は日本……。重低音の声が足もとからまた響く。
――これ以上の答えを求めるならば、公平を保つためにデニー様の式神を倒した償いを与えないとならない。だから静かにしていろ。ちびで頭でっかちで生意気な黒貉め、食ってやるぞ
「お、落ちつけよ。到着まで黙っている」
言いながら女の子が溶けていく。完全なる闇と化す。
「この姿を食べても腹の足しにならな……静かにする」
「絶対に台湾行きの便ではないな。雅も座れ」
思玲が鱗へとあぐらをかく。
「参謀長ってのは“緑眼のデニー”って奴だよな? なぜにそいつの式神がいたのか、倒した言い訳をどうするか、そもそも何があったのか、これから何があるのか、デブジャパニーズ親父はいつまで寝ているのか、ハラペコ答えろ」
「大姐がデニー様に殲を貸した。香港を出し抜くためにだ」
闇が答える。
「だけど僕も、深圳の工事現場で昼寝をしたあとの記憶がない。おそらくデニー様に記憶を消された。思玲達もだな。だからみんな気を失っていた」
非常に嫌な気分になった。
酒を飲まされ過ぎて(半分は自発的)、意識を失ったことがあるけど……なんのために俺達の記憶を奪った? そもそも俺はデニーって人と会っているのか? ドロシーと挨拶は済ませられたのか? 閭さんとは? 他にも何か忘れている気がする……六体の揺らぐ影。
「思玲。六魄はいるかな」いなくてもいいけど尋ねてみる。
「あん? ……そういえば、なんかいたな。ここにはおらぬ」
思玲が断言する。「このジャパニーズは服の腹が燃えて火傷しているじゃないか。術の光を受けたみたいだな」
「私も何も覚えていない。申し訳ございません」
雅が四肢を上げる。「麻卦を起こしましょうか?」
「牙でか? やさしくな」
「俺が起こすよ。用心棒だし」
起きてくださいと、麻卦さんの頬をやさしく叩く。手がするりと滑る。
「はいはい。あなた様がご所望なら……」
それでも麻卦さんが寝ぼけた目を開ける。
すぐに括目する。
「くそ台湾女め!」
俺をふわりと払いのけるなり、両手に扇が現れる。
「蹴りをつけてやる……ここはどこだ? 俺は何に怒っている? 腹がいてぇ」
火傷した太鼓腹を抱える。……おそらく消された記憶の中で、麻卦さんと思玲さんは喧嘩した。魔道具を使うほどのだ。何があったんだ?
「おなかの傷は思玲ではないかもしれません。記憶を改ざんされているかも」
そうではないと思うけど、
「麻卦さんも何も覚えてないようですね」
それから現状を彼に説明する。露泥無は闇になったまま声も気配も発しない。
「連中はなんでもありだからな。魔道士ってのはな、その国とそっくりになるんだよ」
そう言って麻卦さんが扇で腹をさする。でっかい絆創膏が服の上から貼られる。
「大蔵司みたいに傷は治せないけどな、俺は日本人だから奴らよりは賢い。技能に秀でている。『印』と『伝』、なにが起きたか知っているか」
「はい」と手にする扇が答えた。
「小耳を貸してください」ともう一つの扇も言う。
「式神を封じているのか……」
思玲が尊敬のまなざしを麻卦さんに向ける。大鹿と言っていたな。
「封印だ。そんで、こいつらの記憶を消し損ねたってことだ」
麻卦さんが扇を左右の耳に当てる。その顔が赤くなり青くなり俺を見て思玲をにらみ、しばらくしてがははと大笑いする。
「なるほどな。俺が思玲ちゃんにセクハラして、やり返された。大騒ぎにデニーが怒って追いだされた。それだけのことだとさ」
その手から扇が消える。
「思玲ちゃん、ごめんね。俺が全部悪かった」
「扇を向けさせるとは、どんな行為をしたのだ?」
思玲はにらみ返す。また七葉扇が現れそうだ。
「酔っぱらって抱きついて尻をさすったみたいだな。恥ずかしい」
それから麻卦さんは俺を見る。「日本にはどれくらいでつく?」
「もうすぐです」
俺が答えると同時に、殲が速度を緩めるのを感じた。
次回「人と異形と大人と子ども」