十七の二 昼下がりの追跡者

文字数 3,310文字

 顔が地面に近いなんて言い訳にならないさ。でも俺は暑さにまいっていた。思玲に引きずられて歩くだけだった。思玲はひたすら歩いた。俺はひたすら付いていった。
 瑞希ちゃんも辟易としていただろうが、顔にはださなかった。「頑張ろうね」と笑ってくれた。
 なんで瑞希ちゃんが猫なんかになった。なんで俺が狼にならなきゃならない。俺は弱い。自分の不幸を呪うだけだった。

「松本達は大丈夫か?」

 お前らをだしに休憩を目論んだが、「なにかあれば笛を鳴らす」と一蹴された。

 公園に入ってしばらくすると、「今度こそいるかもな」と思玲が言った。フリーマーケットで人だらけの中を、引っぱられてついていった。紐にもいい加減頭に来ていた。やる気がそげる……。俺は言い訳ばかりだな。

「いるね」

 瑞希ちゃんが横に来た。顔が緊張している。俺はなにも分からない。嗅ぎあつめても分からない。

「瑞希、感じられるのか?」

 立ちどまった思玲の声に、瑞希ちゃんが深くうなずいた。
 狩りの匂いがした。なのに思玲は自分だけ姿を消した。

「置いていくな!」

 俺は大騒ぎした。思玲が舌を打って現れた。

「ならばお前達は両脇に五歩だけ散って、さらに私の五歩あとに来い。人の歩幅でだからな」

 思玲は人が途絶えた瞬間に紐を離し、柵を越えてツツジをかき分けた。俺も紐に絡まった枝を引きちぎりつつ続いた。
 園内の歩道から見えない奥まで行けば、これはいるかもなと思った。でも近くのグラウンドから、鋭い金属バットの音と歓声が聞こえた。俺はちょっとだけそっちに目を向けた。視線のはずれに、黒くてでかい影が見えた。あの化けカラスは、注意をそらした俺でなく思玲に飛びかかった。
 この人間は何本タバコを吸うつもりだ。

 *

 中年のおじさんは、スマホを切ると深々とため息をついた。また一本タバコに火をつけたあとに電話をかける。頭をへこへこと下げながら、必死に喋りだす。

 *

 あいつの電話が終わろうと、最後まで話してやるよ。
 思玲はあれに押し倒された。俺は見ているだけだ。あれの爪が思玲の胸を切り裂いた。血がにじみ出てシャツを染めた。俺は茫然と見るだけだ。思玲が扇を振るったが、あれは押し殺した呻きをあげるだけだった。あれの爪が思玲の眼鏡を砕いた。俺はまだ見ているだけだ。思玲は首もとの爪を両手で抑えながら俺に目を向けた。俺は怯えて見ているだけだった。
 あのカラスはおぞましかった。折れ曲がったくちばしが救いのない生き物に見えて、俺はただ見つめるだけだった。
 瑞希ちゃんが駆けだしたのも、見ているだけだったんだよ! 小さい猫が馬鹿でかいカラスに飛びかかった。あれが首を振るだけで、猫は宙に飛んだ。

「貴様への恨みはさらに深い」

 あれが吠えて白猫に飛びかかった。瑞希ちゃんは悲鳴を一度だけあげた。俺はようやく駆けだした。すべてが終わってから、ようやくだ。
 気づくと、あれはいなくなっていた。白猫が横たわり、思玲が這いながらそこへと向かった。
 俺の口の中でカラスの片足は消えていった。でも、その味というか匂いはしっかりと刻んだ。俺はあれの去ったあとを追った。落ちるそばから消えていく、おぞましい血を追った――。

 ***

 人間はうす暗い場所に残っている。青ざめた顔で電話をかけようとして、途中でやめる。それをくり返す。俺達と同じぐらいに、どん底に嵌まっているのだろうか?
 俺達以下なんてあり得ない。思玲も傷を負っていたのか。

「俺だって川田と同じだよ。昨夜も、思玲と横根に助けられただけだ」
 なぐさめにも狼は黙ったままだ。人間だけを見る。
「……ドーンの様子を見てくる。じっとしていろよ」

 暗くてもこんなところは落ち着かない。俺はビルに挟まれた隙間を浮かびあがる。屋上にでれば太陽に溶かされそうだ。夜になるまで……、人に戻るまで耐えるしかない。
 カラスが道沿いから現れる。ひと通り伝える。

「川田は一人でも行く」
「カッ、哲人で駄目ならお手上げだな」
 ドーンが隣ビルの日かげに降りる。

「思玲には頼んでおいたけど……」
 横根が無事になったら笛を鳴らすようにお願いはした。草鈴の音を聞かずじまいになりそうな気がしてやまない。

「腹をくくるか」
 ドーンがぼそりと言う。正午のチャイムが流れてくる。

「川田に付き合うのかよ」
「あいつの現実逃避にね。俺らにだって必要じゃね」

 ドーンが投げやりにカカッと笑う。
 こいつの指摘とおりかも。残された時間はどれくらいだ? 心のどこかで、その時計が無為に進むのを恐れている。まんま妖怪みたいにうごめいているのも、時計から目を背けているにすぎないかも。
 そのためなんかに川田に牙をむきだしてもらいたくない。それに、流範も人だったと思玲が言った。俺達と同じで異形に堕ちた人だ。川田に殺させるわけにはいかないと、やくざなカラスを殺した俺は切に願う。

「リードを引っぱってでも連れて帰る」

 俺は薄暗く湿った下へと降りる。人間も川田も見あたらないことに気づく。

「もう外だ」ドーンがガーガーと俺を呼ぶ。

 俺はビルの隙間の三階あたりから表通りにでる。太陽にこづかれる。でも夕立の兆しだろうか、空気が変わりだした。風が吹きぬける。流範の起こした風を思いだす。

「哲人、こっちだ!」

 低空のドーンは鳴き声混じりだ。急激に灰色へ化した空の下では、道行く人も気にしない。
 遠ざかる狼は、ガーガー、バタバタ、フワフワとうるさい背後へ振り返る。

「きれいな飛びかただな。この先の十字路を見てきてくれ」
「マジで警察が多いからな。いずれ追いつめられるって」

 ドーンは川田の頼みを聞く。点滅信号から四方に目を光らせる。

「じきに大雨が来るよな? そしたら人間はいなくなる」
 そう笑い、川田がまた歩きだす。獲物への照準がぶれないような足どりで。

「横根が待っているんだよ」
 俺はリードをつかみ引っぱる。狼は微動だにしない。

「雨水で臭い血の匂いも流されるといいな。もうじき俺にはお役御免だからな」

 切願も聞き流されて、俺は風船のように後ろに浮かぶだけだ。

「カーッ、ヤバい。警察だらけだ。やっぱり戻ろうぜ」

 信号機の上でドーンが叫ぶ。ドーンの嘘は嘘まるだしだ。川田は信じる。

「……突破するぞ!」

 黒い狼が走りだす。リードの先の俺は宙に浮かんで引っぱられる。
 声にならない叫びをあげるドーンの下を、狼が駆け抜ける。急停車した原付に俺が衝突する。屈んだヘルメットにはじき飛ばされる。人の作った堅物だ。めちゃくちゃに痛いが、リードから手を離さない。
 川田は背後に気も向けない。獲物を追うことに喜びを感じているかのようだ。このまま人としての心が消えてしまうかも。そんな不安がよぎる。

 脇道に入り、川田は歩みをゆるめる。いよいよ空がわめきだす。暗く重たげな雲に、太陽は消えてくれた。

「あれは体を引きずって、ここに逃げた。追いつめたな」

 狼が新築中の一軒家の前で立ちどまる。
 人の侵入を拒むために黄色いゲートで囲まれている。立ち入り禁止の看板が色あせている。片隅には資材が乱雑に積み重なり、東京のくせにコオロギが鳴く。反対側には背高い雑草が生い茂る。
 工事が中断されて日にちがたった、わけありな匂い。異形が喜んでひそみそうな場所だ。
 風が強く吹く。空が暗くなる。人は誰も歩いていない。

「もしかして、俺ヤバくね?」
 ドーンがアスファルトに降りる。
「大雨と雷のなかで飛ばないほうがいいかも。ゴウオンも消えたっぽいし」

 空の片隅が光る。しばらくして雷鳴がどよめく。風が音をたてて通り過ぎて、昨夜の流範をまた思いだす。
 本物の流範はこの家にいる。同類の気配が漂ってくる。あの大カラスは息をひそめている。

「ドーンは避難したほうがいいかもな」
 狼がカラスをちらりと見て言う。「向かいのカーポートで待っていろ。松本、行くぞ」

 気温が急激に落ちていく。夕立の前兆だけではない。建つ前から廃墟と化した家からの、追いつめられた異形のためでもあるだろう。
 ここまで来たらどうにもならない。一刻も早くけりをつけるだけだ。
 雷が近づく。鈴の音はまだ聞こえない。




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