雲の上の払暁

文字数 3,012文字

5-tuneⅡ 四神獣達のシフトアップ
0.5-tune


 すべてが疎ましい。杖を濡らす朝露さえも。

「老祖師、さきほどの大燕は?」

 こいつの声こそが疎ましい。
 楊偉天は参謀を気取る式神へと顔を向ける。雲海の只中で姿が見えぬのが、まだ救いだ。

「返事を渡す間もなく去った」
 おそらくは封じられた思玲を求めて。
「いまだ伝令が足りない。竹林の捕らえた飛び蛇は使えぬものばかりだ。お前も捕らえにいきなさい」
 なぜに、こいつに頼らざるを得ないのだ。

「そのようなことには流範をお使いください。私めには過ぎたる役目です」
 霧の向こうから笑いが漏れる。
「それよりも書面の内容は? まさか(チャン)様からでは?」

「お前に教える必要はない」楊偉天はきっぱりと言う。「儂は報告を聞くだけだ」

 下から聞こえる小鳥のさえずりさえ疎ましい。

「……蛮龍は高千穂に向かいました。そこでまた眠りにつきました」
 霧中に浮かぶ黒い影が答える。
「大台ケ原で網を仕掛けたのは、やはり福建(フーチェン)の者どもでした。厦門(シャーマン)(チェン)泉州(クアンゾウ)(タオ)。名だたる者が返り討ちにあいましたが、蛮龍はとどめを刺しませんでした」

 やさしい龍だ。なおも人の心が残っている。おそらく四玉の蒼光をすべて受け入れぬ限り。それか儂を食らうまでは。楊偉天をつつむ霧が薄らいでいく。
 影は話しつづける。

「陶の話が事実ならば、奴の式神は食われることなく殺されたそうで。……ふふ。よどみを浴びさせてもらいましたので、紛れもない事実でしょう。あの山はさらに枯れ果てましょう」

 聞きたくもないことまで伝える。……あの龍はもはや異形を餌と選ばぬのか。

上海(シャンハイ)は見かけたか? 鏡に陰りが差した」

 龍を封じるためか、儂を殺すためかは知らない。それとも四玉に関わったものを根絶やしにするためにか。

沈大姐(シンダーヂェ)の一派ですか? 彼らは大陸の切り札。この国の利に使うなど、あの国の政府が認めるはずございません」
 白霧が流れだしたなかで影が答える。

 この異形はなにも分かっていない。国同士の駆け引きに――、こいつらより歪んだ人の駆け引きなどに気づくはずもない。所詮、人を殺める手段にしか知恵の働かぬ魔物だ。

「連中の動向は?」最大の気がかりを聞く。

「流範によれば、魔道団の本隊は台湾に向かったようです。……奴らは龍に興味ないようでして、あくまでも我々が狙いかと」

 誰のせいでそうなったのだ。上海と香港、その両方に狙われるとは……。追われ逃れた七十年も昔を思いだしてしまう。
 儂は焦っているのか。失態の数々も焦りゆえか。齢が百を越えたゆえの焦りか?

「いずれ面前に現れる。覚悟しておくのだな」
 楊偉天は告げる。こいつを奴らに差しだしてもいい。

「だからこそ、私はこの姿に戻りました」

 霧が晴れる。漆黒のチャイナドレスをまとった峻計の姿があらわになる。妖艶な笑みを主へと向ける。
 霧は下へと降りていき、荒々しい戸隠山を雲海に浮かばせる。

「先ほどの言付けは麗豪(リハオ)からだ」
 事実を告げねばならぬほどに追いつめられている。

「やはり……。あの方は存命でしたのですね」

「お前は張とは関わるな!」
 楊偉天が杖をかかげる。胸もとの鏡が朝日を照らす。峻計は笑みを凍らせ後ずさる。
「麗豪は使命をまっとうした。近々合流する。だがお前は決して奴に近寄るではない」

 楊偉天は静かに杖をおろす。
 琥珀よ。
 張麗豪(チャンリハオ)が戻れば、この大鴉も処分できる。できれば、その前に消し去りたい。だが、あまりにも配下がすくない。龍の動向を抑えるだけで、大陸からの魔道士どもを追い払うだけで精一杯だ。
 霧が去り、両脇の切り立った断崖の底まで見える。龍はこの山には来ない。あの娘の魂が儂を避けているのだから。すべてが疎ましい。

「飛び蛇はもういい。お前は大燕を追いなさい。その先に四玉がある」
 そこに蒼光の残りかすもあるはずだ。

「……もし、そこにあの若者がいたら、処遇はお任せいただけますよね」

 峻計が媚びるように笑う。
 こいつの頭には逆恨みしかない。

「好きにしなさい。だが、まずは四玉だ」

 あの朝から半月を過ぎたかと、楊は思う。人の世に戻ったものは、儂の記憶から消える。そいつがなにをして生き延び、なにをして峻計を怒らせたのか、さらには儂の邪魔もしたのか。記憶にないのだからもはやどうでもいい。しかし報いは受けるようだ。こんな執念深い魔物に憑りつかれるとは、自業自得とはいえ悲運な者だ。
 人としてむごく殺されるよりは、抗わずに消えていればよかったのに。

 *

 長身の男が蟻の塔渡りを臆することなくやってきた。大きな荷物を片手で背負う。こいつかと、楊偉天は更に暗たんとなる。

「峻計さん、のろくて申し訳ない。二本足には慣れたのにな」

 大男がずた袋を山道に落とす。黄土色の作務衣を着た隻腕の男だ。刈りこんだ髪の下で、ごつごつとした細長い面の凶相が落ちくぼんだ目で笑う。

土壁(ツーピー)、お疲れさま」
 峻計が男に笑いかけ、楊偉天に顔を向ける。
「こいつが持ってきたものこそ、福建最強の魔道士である陳でございます。陶は生きて捕らえることは叶いませんでしたが」

 峻計が小刀を宙にかざし、袋が縦に裂ける。縛られた血みどろの男が転がりでる。
 楊偉天ですら狼狽する。

「なんてことを……。儂は陳に恨みなどない。何十年も会っていない」

 楊の声へと、満身創痍の初老の男がうつろな目を向ける。その頭を峻計がハイヒールで踏み、楊偉天へと笑みを向ける。

「使い魔をおびきだす餌にしようかと。これほどの男ならば、奴らも干渉せずにはいられぬでしょう」

 生け贄かと、楊偉天は考える。あの憎々しき梟と蝙蝠を呼びだし抹消する……。いや、儂はまだ堕ちていない。この齢にして、なおも純然たる探求者だ。そう思われ続けたい。

「醜悪なことを口にするな。妖魔などと関与しない」

 陳に弁明するように、楊偉天は人の声で言う。
 あの島に追放されたおのれを、もう一度認めさせる。そのために、青龍とともに凱旋する。誰も儂に異端の目を向けなくなる……。楊は鏡をさする。
 またも京都へ向かうしかないか。我が盾となる禍々しい式神を手にするために。こいつらを頼らずに済むように。

「楊……、私を殺せ」
 屈強であった大陸の魔道士があえぐ。
「義で動くも蛮龍に傷すら与えず、化け物どもに囚われた。貴様に人の心がまだあるのならば、貴様の手で私を殺せ」

「峻計、この男を処分しなさい」
 楊偉天は命じる。これ以上、こいつの前で術を繰りだしたくない。

「ならば土壁と戦わせましょう。この男の雷術をぜひ見たいです。あの男の地を這う雷は見損ねましたので」

 峻計が小刀をかざす。
 峻計の手の動きに合わせて、陳を縛った荒縄が切れる。

「峻計さん。しっかり見ていてくれよ。あんたがあの術を使えたら、空をいく異形も怖くない」

 土壁の残された手に槍があらわれる。人の手のような真紅の刃先の五叉槍が。
 火焔嶽(かえんだけ)……。おぞましすぎる魔道具だ。

「楊大翁。なぜにそこまで堕ちた。貴様も魔物とともに地獄で呪われるがいい」

 陳がよろめきながら立ちあがり、絶壁へと身をひるがえす。
 ……自死を選ぶか。誰もこいつらに弄ばれて死にたくはない。

ズドン……

 残響が奥深い山にこだまする。陳の体は黒い光とともにはじき消える。

「処分いたしました」

 その声に楊偉天は振りかえる。対の黒羽扇を交差させた峻計が誇らしげに笑っていた。




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