三十の一 ドライブを楽しめる連中
文字数 1,959文字
以降の横根は、目をつぶり俺の手を握りしめている。九郎は黙ってハンドルを操作する。くちばしを開けられないのだから当然だ。
「京ちゃんが九郎と知り合いなのは、やっぱり報酬の受け渡し?」
「そう。お互いに使い走りだから。九ちゃんが来てくれて助かった」
大蔵司が琥珀に答える。
「今朝は余裕をもって出発したんだけどね。朝起きたら、まえから気になっていた神社がさらに気になって。それで寄り道したら高速を間違えたわけ」
ハンドルから手を離した大蔵司は楽しげだ。クライアントでないと知って、口調もカジュアルになっている。歩道を奇跡的な速度で走行されても平気みたいだ。彼女はアクセルだけを踏んでいる。俺達を詮索してこない。
しかしハンドル操作だけで、なぜ赤信号を無傷で通過できる。たまにくちばしを離しての指示も、ブレーキよりアクセルのが多い。
「もう少し速度を」なんて俺の声は届きやしない。
「香港人も日本人も台湾人も、見分けつくはずないよね。哲人君が一般人なんて分かるはずないし」
大蔵司は自分の話に専念している。
「魔道団の給与なんて知らないよね。私さあ、高卒で雑貨屋入って二か月でやめて、つてでモデルのバイトやったんだ。公園で高校ときの制服着せられていたら、この神社にスカウトされた。自分にエモい霊感あるの知っていたし、社保とか福利厚生問題なさげだから入社したけど、三年目で手取り十五万って安いと思わない? だってこれって技能職だし、社内に私以外に術使える人いなげだし。おそらく宮司も……。麻卦 執務室長は別だよ。
私は四月から主任になったけど、五千円あがった代わりに休日手当がなくなって、今日みたく休みの朝五時に当日出張の連絡が来て、ブラック過ぎね? しかもだよ、ガソリンが経費で落とせないってあり得る? 先方に請求するか歩いていけだって! ……ここんとこ月に休みが実質三日だし、朝八時始業で、サービス残業で夜の零時までだし。やめようかな」
大蔵司のうっぷんを聞いていれば、疾走する景色に意識を向けないですむ。
「京ちゃんならモデルを本業にできるよ。背丈は165ぐらい?」
応対は琥珀に任せよう。あいみょんがエンドレスに流れている。
***
「検問だ」
九郎がくちばしを離す。
「突破したらヘリが来るので脇道に入る。京、アクセルからどかせ」
「この車が目当て? 私には見えないや」
大蔵司が言う。エンジンブレーキがかかる。
「人の目に見えてからだとおせえんだよ。今度こそ蜂に追いつかれるかもな。覚悟しておけ」
九郎がまたハンドルをくわえるなり、時速70キロで畑道へ右折する。ガタガタ揺れるなか、ガソリンメーターを覗く。四分の一ぐらいになっていた。大峠市まで半分以上は近づいたから、単純計算なら間に合うはずだ。時計は12時48分だった。時間をおそろしいほど稼いだ。
「京ちゃん、本当に車にいれば大丈夫よね?」琥珀が念押しする。「奴らに複数刺されたら、人も異形も三十秒もたないよ」
昨夜の俺は、そんな奴らと追いかけっこしていたのか。振動に腰が浮くほどで、横根が俺の腕にしがみつく。
「ま、松本君、私はスマホを持ち歩いていたと思う」
彼女が揺れながら俺を見る。「あと、ロ、ロッカーの鍵も」
現実から逃れようとしている。スマホは藤川匠だ。鍵は俺に渡された。
「横根のカババンは川田の部屋の押し入れ奥にあるよ。テニス場から持っててきた」
彼女の手紙を思いだす……。あの手紙がなければ、俺はなにも知らない人間だった。
しょうだい寺のどこそ
いまさら一文を思いだす。中学生の俺が飛び降りた滝。そこに鎮められていた独鈷杵。後日聞いた話だと、聖大寺の住職はそれをまた滝に納めたらしい。
ロタマモが恐れたのは、俺が龍を呼ぶことでなく法具を手にすることだった。さきほど、お寺に限りになく近づいていた。でも滝はなお遠かった。ましてや今ははるかに離れていく。
かなちゃんにだけつたえる。あいつが言ったこと
そんな文章があった。
窮鼠のロタマモも言いかけていたな。
『桜井夏奈はたとえ人に戻ったとしても……』
俺をまどわすためだとしても。
「うしろの黒雲は蜂かな?」
大蔵司がバックミラーでリップを塗りながら言う。振りかえると、黒い靄がざわめいていやがる。あの羽音が聞こえてきそうだ。
「チッ、砂利道をぶっ飛ばしてやらあ。京、踏んでくれ」
やめてくれ。
「いや。ここは人も狸も目視できない。台輔を停めるよ。わざと刺されよう」
急ブレーキに誰もがつんのめる。琥珀がフロントガラスに激突する。ツノが当たり、ガラスが蜘蛛の巣状にひび割れる。
「琥珀 ちゃん、じきに治るから請求しないよ」
彼女は致命的な破損を気にしない。この車も異形だから直るのか。そういえば、琥珀の服も回復しつつある。
次回「陰陽士の結界」
「京ちゃんが九郎と知り合いなのは、やっぱり報酬の受け渡し?」
「そう。お互いに使い走りだから。九ちゃんが来てくれて助かった」
大蔵司が琥珀に答える。
「今朝は余裕をもって出発したんだけどね。朝起きたら、まえから気になっていた神社がさらに気になって。それで寄り道したら高速を間違えたわけ」
ハンドルから手を離した大蔵司は楽しげだ。クライアントでないと知って、口調もカジュアルになっている。歩道を奇跡的な速度で走行されても平気みたいだ。彼女はアクセルだけを踏んでいる。俺達を詮索してこない。
しかしハンドル操作だけで、なぜ赤信号を無傷で通過できる。たまにくちばしを離しての指示も、ブレーキよりアクセルのが多い。
「もう少し速度を」なんて俺の声は届きやしない。
「香港人も日本人も台湾人も、見分けつくはずないよね。哲人君が一般人なんて分かるはずないし」
大蔵司は自分の話に専念している。
「魔道団の給与なんて知らないよね。私さあ、高卒で雑貨屋入って二か月でやめて、つてでモデルのバイトやったんだ。公園で高校ときの制服着せられていたら、この神社にスカウトされた。自分にエモい霊感あるの知っていたし、社保とか福利厚生問題なさげだから入社したけど、三年目で手取り十五万って安いと思わない? だってこれって技能職だし、社内に私以外に術使える人いなげだし。おそらく宮司も……。
私は四月から主任になったけど、五千円あがった代わりに休日手当がなくなって、今日みたく休みの朝五時に当日出張の連絡が来て、ブラック過ぎね? しかもだよ、ガソリンが経費で落とせないってあり得る? 先方に請求するか歩いていけだって! ……ここんとこ月に休みが実質三日だし、朝八時始業で、サービス残業で夜の零時までだし。やめようかな」
大蔵司のうっぷんを聞いていれば、疾走する景色に意識を向けないですむ。
「京ちゃんならモデルを本業にできるよ。背丈は165ぐらい?」
応対は琥珀に任せよう。あいみょんがエンドレスに流れている。
***
「検問だ」
九郎がくちばしを離す。
「突破したらヘリが来るので脇道に入る。京、アクセルからどかせ」
「この車が目当て? 私には見えないや」
大蔵司が言う。エンジンブレーキがかかる。
「人の目に見えてからだとおせえんだよ。今度こそ蜂に追いつかれるかもな。覚悟しておけ」
九郎がまたハンドルをくわえるなり、時速70キロで畑道へ右折する。ガタガタ揺れるなか、ガソリンメーターを覗く。四分の一ぐらいになっていた。大峠市まで半分以上は近づいたから、単純計算なら間に合うはずだ。時計は12時48分だった。時間をおそろしいほど稼いだ。
「京ちゃん、本当に車にいれば大丈夫よね?」琥珀が念押しする。「奴らに複数刺されたら、人も異形も三十秒もたないよ」
昨夜の俺は、そんな奴らと追いかけっこしていたのか。振動に腰が浮くほどで、横根が俺の腕にしがみつく。
「ま、松本君、私はスマホを持ち歩いていたと思う」
彼女が揺れながら俺を見る。「あと、ロ、ロッカーの鍵も」
現実から逃れようとしている。スマホは藤川匠だ。鍵は俺に渡された。
「横根のカババンは川田の部屋の押し入れ奥にあるよ。テニス場から持っててきた」
彼女の手紙を思いだす……。あの手紙がなければ、俺はなにも知らない人間だった。
しょうだい寺のどこそ
いまさら一文を思いだす。中学生の俺が飛び降りた滝。そこに鎮められていた独鈷杵。後日聞いた話だと、聖大寺の住職はそれをまた滝に納めたらしい。
ロタマモが恐れたのは、俺が龍を呼ぶことでなく法具を手にすることだった。さきほど、お寺に限りになく近づいていた。でも滝はなお遠かった。ましてや今ははるかに離れていく。
かなちゃんにだけつたえる。あいつが言ったこと
そんな文章があった。
窮鼠のロタマモも言いかけていたな。
『桜井夏奈はたとえ人に戻ったとしても……』
俺をまどわすためだとしても。
「うしろの黒雲は蜂かな?」
大蔵司がバックミラーでリップを塗りながら言う。振りかえると、黒い靄がざわめいていやがる。あの羽音が聞こえてきそうだ。
「チッ、砂利道をぶっ飛ばしてやらあ。京、踏んでくれ」
やめてくれ。
「いや。ここは人も狸も目視できない。台輔を停めるよ。わざと刺されよう」
急ブレーキに誰もがつんのめる。琥珀がフロントガラスに激突する。ツノが当たり、ガラスが蜘蛛の巣状にひび割れる。
「
彼女は致命的な破損を気にしない。この車も異形だから直るのか。そういえば、琥珀の服も回復しつつある。
次回「陰陽士の結界」