十六の一 三角形の底辺

文字数 3,755文字

 夏奈は忌むべき杖をしっかり握って、倒れたままの俺にもたれて眠っている。この状況下で熟睡できる人はそういない。

 私、半月以上付き合ったことねー、ははは。

 そんな会話が聞こえたことがあったけど、男が逃げたと勘ぐってしまう。
 でも夏奈は温かい。吐息を感じる。ちょっと汗くさい。柔らかい……。

 ドロシーが登場する前に夏奈をどかさないとなんて思う自分がいるけど、このままでいたい自分が勝っている。夏奈の寝顔――。台湾のどこかで消滅しかけた異形であろうと至福だ。それなのに藤川匠め。

 俺は貴様に嫉妬している。悪の魔導師の生まれ変わりなどという中二病的存在であろうと、ここから先は女の奪い合いだ。夏奈を渡さない――。
 遠雷が聞こえた。空がみるみる曇りだした。台湾のスコールがやってきそう。異形な俺は平気だけど夏奈がびしょ濡れになる。

――そんなことを気にしなくていい

 空から聞こえた。……貪は心を読む。闇が象られていく。

「夏奈、起きて」

 俺は彼女を揺さぶる。弱りきった妖怪変化が立ち上がろうとする。なおも愛する人を守ろうとする。
 闇はどんどん具象化していく。生き物は何も鳴いてない。邪悪が呼ぶ雨と雷。
 樹冠から暗黒の巨大な龍が顔をのぞかせる――。でかい。でかすぎる。夏奈ぐらいでかい。
 俺は立ちあがれない。化け物のくせにすくんでしまう。

「松本哲人よ久しぶりだな。怯えてくれてありがとうよ。この木霊なき森こそ貴様に似合う。本心だぜゲヒヒ」
 貪が空鳴りのように笑う。
「土壁を殺したな。俺はあいつを好きだったぜ。弱いけど悪い奴じゃなかった」

「ひ、ひ……」

 俺の横でびしょ濡れの夏奈が腰を抜かしている。空を意味不明に指さしている。
 貪は空でとぐろを巻く。人の目に見える暗黒の巨大な渦が稲光に照らされる。

「忌みすべき素晴らしい世界にお戻りの“花咲き乱れる夏”よ、すでに心に俺もお戻りか。だが俺様を“もうひとつの龍”扱いはいただけないな。対等だ。ゲヒゲヒ」
「ひっ、ひい」
「桜井夏奈より龍のときのが見目よいぜ。だが美しき雌龍だろうと、俺様はお前に欲望を持たない。匠様に関係なく当初からな。何故だか分かるか? 松本哲人ならば分かるか?」

 俺はそんなことを考えない。俺は貪に殺される。夏奈は殺されない。藤川匠のもとへ連れていかれる。俺が思い浮かべるのはただ一つ。

「ここへ現れるだと? ゲヒヒ……あの娘が来るならば松本を急いで殺さないとな。その後では遅い」
 貪はなおも俺を笑う。「もう一人の“花咲き乱れる夏”が登場するならな」

 訳分からぬことを言うな。――思玲がようやく感づいたこと。俺はとっくに気づいていた。でもそれは、名前からの言葉遊びに過ぎないだろ。

「名の意は伝わらぬからな。俺様は部外者だから気づく。第三者に過ぎないお前もやがて知る。お前は敵対心を深める。俺は従い続けるかもな。
フロレ・エスタスよ、ともに匠様のもと……心に松本哲人がいるぞ」

「わ、わ、わ、私は」
 人である夏奈が龍へと言葉を発する。
「たくみ君のもとへまだ行かない。行ったら、お前達にみんなが殺される。だ、だから、さきにお前達を倒す!」

 人である夏奈が異形である俺に抱きつく。抱きしめる。

「松本君を殺させない!」

 幾重もの落雷が俺達を照らす。人の目に見える龍をも照らす。

「……この雷は俺様ではないぜ。お思いのとおり、俺達は単なる手先だ。嫉妬する必要ないのにな」
「心を読むな!」

 重なるような雷に照らされる。おびえきった俺は夏奈に抱かれるだけ。

「怒るなよ。資質があふれるぜ。……お前が光の破片を受けとらないならば、ここで松本哲人を殺せない。いまここで、俺など容易(たやす)く喰らう野蛮な化け物が復活してしまう」
 貪が闇に戻っていく。
「いまの俺様は手下だから報告する。青龍が放し飼いになりそうとな、ゲヒヒ」

 *

 妬みと愉悦。呪詛のごときを残して貪が消えた。スコールも去る。
 同時に淡い靄。鳥の声。何もなかったように朝が訪れた。
 夏奈はもう泣いていない。なおも俺を抱いていてくれる。山中で抱き合う


 でも俺は気配を感じとる。……これは術だ。とてつもないから分かる。

バキバキ、バキバキバキッ

 落雷のごとき音とともに森がなぎ倒される。風がすさぶり、二人の前へ何かが落ちる。……術が紅色にごうごうと渦巻く。俺は劉師傅を思いだす。
 この術の力は強烈で直視できない。

 術の竜巻がおさまっていく。薄紅色のパジャマ。肩までの黒髪。松葉杖を持ったドロシーが片膝を地につけていた。渦に舞っていた緋色の布が彼女の肩に降りる。
 急造されたミステリーサークルの中心で、ドロシーが顔をあげる。

「龍がいる。私には分かる」

 抱き合う二人へと、龍を倒すべき存在が言う。

「貪がいた。でも逃げた」
「私のことじゃね?」
 俺と夏奈の言葉が重なる。

 沈黙が漂う。というかマジで出没した。
 ドロシーが杖を手に立ち上がる。夏奈を見る。

「気のせいでした。そもそも私は、青龍も白猫も記憶として残っていない。あなたと同じで……夏奈さんは何で異形の言葉が聞こえて話せるのですか? 人でない哲人さんと触れ合えるのですか? ずるくないですか?」
「このちっこい杖のおかげ。松本君が私と抱き合いたいというから、台湾まで取りにきたの。冗談だし、ははは」

 また沈黙。ドロシーが松葉杖を脇に挟む。雨あがりの朝の匂いのなか、俺達へと歩む。

「そこをどいてください。私が哲人さんの傷を癒します」
「私が抱いたままでもよくね?」
「いいえ。邪魔です」
「これって中国語が普通に分かってすごくね。私の日本語も通じているし、ははは」

 ぶあさっと巨大な羽音が近づく。

「なんでドロシーちゃんが背中に乗っていたの? なんで高度二千メートルから飛び降りて平気なの?」

 風圧に続き、ミステリーサークルに幼いオオワシの風軍が降りてきた。
 機会だ。

「琥珀と九郎は?」

 俺は話題を逸らす。六魄の所在は聞かない。奴らは修羅場もどきに現れない。

「主がいるってそっちへ行ったよ。僕達も合流しろだって。行くはずないよね? 帰るよね?」

「王姐もいるの? 瑞希さんも? だったら珊瑚の祈りを受けるの? 私でなくて?」

 ドロシーがついに俺を見た。……状況を把握できず戸惑い気味だけど、憂いを隠した勝ち気な瞳。意味なくでかい(誉め言葉)夏奈の目と違う容姿……。
 夏奈も俺を見ていた。不機嫌な顔に変わり、ドロシーへ向ける。

「あんた声デカすぎ。人の声にチェンジしてくれない」

 ドロシーが夏奈を睨みかえしたぞ。

「そうします。私は哲人さんの甘いささやきを耳もとで何度も聞いたおかげで、こちらも堪能になりました」

 そんな覚えはないが、たどたどしく日本語で喋りだしたぞ。勝ち誇った笑み……。

「夏奈ありがとう。ドロシーも来てくれてありがとう」
 俺は夏奈の抱擁をどかして、よろよろと立ちあがる。「横根はいないけど、俺は平気だから祈りはいらない」
「薄らいでいるのに?」

 ドロシーに言われる。だとしても、二人を険悪にさせてはいけない。

「風軍に乗って思玲達のもとへ行こう」
「僕はタクシーじゃないよ。ドロシーちゃんを連れて香港へ帰る。主様はそれを望む」

(ぷう)。風軍だけ帰って」
 ドロシーが言う。「龍を端から倒すまで帰れない」

「端から?」
 ドロシーの言葉に夏奈が意味不明に反応した。
「端から?」

「なんで私が夏奈さんに睨まれないとならないの?」
 ドロシーが両手を広げるオーバーアクションで俺を見つめる。やっぱり海外の人だ。

「これが三角関係なの? 琥珀と九郎が言っていたよ」
 風軍が空から呑気に言う。

 異国の鳥が鳴きだした。遠くで猿も吠えている。……俺は台湾まで来て死にかけたあとに何をしているのだろう。

「三人で力を合わせる。その形こそが三角形だよ」
 我ながらうまいことを言ったと思うけど。

「あなたがてっぺんで私達を侍るの?」
 ドロシーのまなざしはきついまま……やわらいでいく。
「弱っている異形ってかわいい。そりゃ人の哲人さんこそ素敵だけど、人でない哲人さんこそワンダフル。そしてキュート」
 俺へと目を輝かせて松葉杖で歩く。
「置いてかれて頭にきた。だから、あなたがゴルフ場で私にした仕打ちも、これでもかと思いだして泣いていた。でも透けた姿だと怒れない。いまだと全部赦しちゃう! あいやー!」

 ドロシーが俺に抱きつこうとして、夏奈に股間を蹴りあげられた!

 ドロシーがうずくまる。
 俺は立ちすくむ。
 殺意ある風軍が浮かび上がった。夏奈を獲物と見る。

「たくみ君がてっぺんで、私と松本君が三角形の底だ!」
 仁王立ちの夏奈が叫ぶ。
「よく分かった。お前は人よりお化けが好きだろ。化け物だらけの世界を作ろうとするだろ。つまり、お前は敵だ!
すげー分かった。お前を倒すために私とたくみ君はいまの世に現れた!
松本君、いまここで一緒に倒そう。こいつはどんどん強くなる。魔女だ! じきにたくみ君でも勝てなくなる。その前に成敗しよう!」

 雨上がりの異国の山奥。ここがどこだか知らないけど、俺は人生で一番好きになった異性と二番目の異性と三人だけでいる……のに。

「だから?」
 うずくまるドロシーが涙目で見あげる。
「赦せない。人間のくせに赦さない」




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