二十六の一 ドラゴンチェイス

文字数 3,206文字

 人の目に見える忌むべき異形。貪は空に浮かぶ朧だった。巨大で長い黒煙が低い空で漂う。巻き込まれた車からの煙と混じりあう。
 貪は人殺しだ。

 橋の上が渋滞と化し、幸か不幸か川田の運転するタクシーは身動きとれない。人が車からでてくる。逃げる人もいれば、スマホを手に破壊された橋中央を目指す人もいる。

「崩れるぞ、逃げろ!」
 俺は窓を開けて叫んだあとに「俺達も降りよう。巻き添えにしてしまう」

「ひどい、ひどすぎるよ。あり得ないよ」
 惨状に見入っていた横根がドアを開けようとする。

「降りるな。車で戦う」

 川田がルームミラーを見ながら言う。ギアを操作して乱暴にバックする。切り返す。クラクションを鳴らしまくり、路上の人が左右に逃れる。横根が悲鳴をあげる。

「ど、どこへ行く」
 俺も声がうわずってしまった。

「それより瑞希ちゃん、笛!」
 車内でドーンが吠えた。迦楼羅になっている。

「え、うん、はい」
「地上では龍と戦えない。だから飛ぶ」
 横根と川田が同時に言う。

 タクシーは停まった車にこすることなく、車間をすり抜ける。破壊された橋の爆心地が近づいてくる。

「……川田、普通の車は空を飛べない」窓を閉めながら告げる。

「そうなのか? はやく言え」

 前方に何もなくなった。タクシーは速度を緩めることなく宙に跳ねて、そのままの姿勢で垂直に自由落下を始める。

「横根、結界!」俺はまた叫ぶ。

「で、でないよ!」
「川田は哲人を頼む!」
 後部座席の二人も叫ぶ。

「わかった」

 川田の動揺しない声とともに、衝撃。水しぶき。後ろから水が流れこむ。俺はシートベルトをしていた。

「くそおお」

 車内が川の水で満たされていく。窓の外は水面をちょっとオーバー。このままでは閉じこめられて、溺れることなく溺死してしまう。ベルトを外しドアを……水圧で開かない。

「のろいぞ」

 川田が運転席のドアを片手で開ける。車内が川と一体になり沈みだす。着替えたばかりのシャツとジーンズが枷と化す。
 川田が車内へでる。水中で犬かきだと?

「俺も連れてい」ゴボゴボゴボ

 強い力が右腕をつかむ。引っ張られる。すぐに水面に顔をだせた。雨が出迎えてくれた。

「げほっげほっ」

 痛覚なくてもむせてしまう。
 クロールより早い片手犬かきに、顔の半分を沈めたままで川岸へと引きずられる。泥とごみと一緒にコンクリートへ押し上げられる。河川敷の野球場があった。
 草むらで川田に背なかを叩かれる。痛くはないし、気道と肺の水が口から飛びでてくれた。
 顔を覗きこまれる。

「瑞希達を助けるぞ。貪に追われている」

 川田が天宮の護符を握ったまま駆けだす。俺は口をぬぐいながら見上げる。
 ドーンである迦楼羅が、自分より倍以上でかい横根を抱えて飛んでいた。真上で黒い乱雲が空低く渦巻いている。その先端が口のように裂ける。

 人の目に浮かんで見える横根。人の目に見えぬ黒い炎。すり抜けるドーン。サイレンの音。河川敷に人は集まってくる。それを払いのけて走る川田。ようやくむせりがおさまった俺。もっと状況を把握しろ。

 川は右へと流れている。つまり東京側にいる。空にはヘリコプター。蛇行しだした低空の黒雲。俺へと向けて。人の目に見えぬ黒い炎が俺へと――

「うわあ!」

 慌てて川に飛びこむ。呼吸を耐えて潜る。
 こいつを倒して肝を喰らうなんて(のたま)った。実際に対面して分かった。貪は白虎と違う。町中だろうと人がいようが破壊に躊躇しない。武器もない俺が勝てるはずない。追われて逃げるだけだ。
 窒息するまえに浮かぶ。貪は待ち構えていなかった。代わりにドーンがいた。くちばしを突きだしてくる。

「瑞希ちゃんは川田に渡した。川田はおんぶして逃げた。追いかけるぞ」

 ジーンズが重いけど、痛覚ないから筋肉を酷使できる。俺はヘドロだらけになって再び岸に這い登る。今度はむせない。……流されただろうな。小菅の拘置所はどこだろう――。

「影添大社へ逃げよう」
「当然じゃね。川田にもそう言ってある。ていうか危ないから人を追い払いながら。俺の笛を追いかけろよ」

 ドーンが横笛をくわえる。奏でながら空高く舞う。その音は不協和音――人除けの笛の音だ。

「なんか調子悪い」
「いやな感じ。戻ろう」

 聞こえぬ音を浴びた野次馬が去っていく。俺だって人間だけど、不快な音を追う。頭がふらふらしてきた……前方で火柱が上がった。人の目に見える本当の炎。
 これぞ邪悪な存在の所業。貪はドロシーや夏奈と別次元で滅茶苦茶すぎる。

「藤川匠! いるのか!」
 びしょ濡れの俺は立ちどまり、雨降り続ける空へと叫ぶ。
「お前は正義でない! 悪しき配下を操る悪だ! それとも御することもできないのか!」

 町中へ向かっていた龍みたいな黒煙がぴたりと止まった。こちらへと蛇行しだす。貪は耳もいい。

「松本哲人よ聞け。この星で人の命は重くない。この島とて例外でない」
 黒煙が声を発する。
「俺様は鏡から歴史を見てきたぜ。匠様も見てきたさ。古来より人は鰯のように安かった。ゲヒゲヒヒ」

 貪である黒煙が俺へ一直線に伸びてくる。
 俺は逃げない。もう荒川に飛び込みたくない。この手に独鈷杵が戻ってくるはずもない。俺を飲み込むなら飲み込めばいい。胃を食い破り、体内をたどり、貴様の肝に食いついてやる。俺が食べても意味がない。混乱しまくりの俺。
 でも黒煙はずいぶん手前で口を広げた。貪は慎重だ。その距離で炎を吐かれたら避けられない。やっぱり潜ろう。
 人が走ってきた。そいつは堤防上の遊歩道から、十メートル以上も跳躍する。黒煙へ飛び蹴りする。

「ゲヒッ」

 黒煙がうめいた。その先端が乱れる。

「松本も逃げろ。いまのお前はドーンより弱いから、龍が怖がらない」

 きれいに着地した人間は隻眼だった。手負いの獣人と呼ばれだした川田は即座に駆ける。襲ってきた黒い炎をかわす。俺を置いていく。
 空から幼児ほどの大きさの鳥が飛んでくる。手が生えていて服を着ていて笛を持っている。

「カー、もう川田が戻りやがった。走りでパトカーを追い越した」
 ドーンが助けにきてくれた。「瑞希ちゃんは雅と合流した。川田はロリに目覚めたから頼りにするな。ていうか俺が時間を稼ぐから、哲人はマジで逃げろ。そんで瑞希ちゃんとスマホで連絡とって合流しろ」

 迦楼羅がまくし立てたあとに、また横笛を吹く。疾風を呼び黒煙がなびく。 

「うるさい鴉天狗だ、ゲヒゲヒ。すばやくても、これを避けられるか?」

 貪が口を開く。突風が吹いた。

「マジかよ」

 俺は木の葉のように弾かれて、またも荒川岸へと飛ばされる。様々にぶつかりながら川に落ちかけるのを灌木をつかんで耐える。痛みないから傷の程度が分からない。

「くそう。でも弱攻撃だろ。俺でも耐えられるし」
 真横のヘドロにドーンも(うず)まる。「哲人を抱えてやるから逃げ……」

 陸地すれすれまで黒煙が降りてきた。野球グラウンドを包むほどの大きさ。

「この姿をさらすのは認められていない」
 貪の声は達観だ。「だが終わらせる。貴様らだけが相手じゃないからな」

 黒煙がグラウンドでとぐろを巻く。具象化していく。龍である姿が東京の真ん中で現れようとする。

「たしかに認められるはずない」
 背後から声がした。「ゆえに傍観しない」

 心への声……。振り向いてしまう。
 若い男性が川の上に立っていた。すらりとした長躯。白系ストライプのカジュアルシャツとタイトな紺色ジーンズ。

「民は逃げてここにいない。ゆえにたっぷりと成敗できる。――殲よ、これより先は身を捧げろ」

 同時に黒煙が押しつぶされる。実体化することなく霧散する。

「逃がさぬぞ。今度はお前が追われる立場だ。――唐よ、ここがお前の死に場だ。龍を道連れにな」

 俺は水に浮かぶ人を再び見る。刈り込んだ茶色い髪。緑色の瞳……。
 見覚えがないのに見覚えあるその人が浮かびあがる。彼が乗った荒川自体が盛り上がりだす。




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