人の形
文字数 1,491文字
2-tune
「振り向くな!」
こいつは戦場で躊躇しやがった。「逃げるのではない。助けにいくのだ!」
せめて梁大人 の娘孫だけでも逃がしてくれ。
鋼鉄の蹄音が遠ざかっていく。とりあえずは、若者を生き延ばせた。あとは……。
俺は周囲を見渡す。河原に漂う紫色の煙はなおも消えない。毒を浴びた二人はもはや動かない。おぞましい槍が、また一人の心臓をつらぬく。背高泡立草の群落にひそんでいた者が、人の形をした魔獣へと扇を向ける。だが暗黒の光を受けて、体を引きちぎられる。
これで残るは俺だけ。地獄の責め苦の具現。
「白笛川(しらふえがわ)……、『笛も知らず』が語源の暴れ川だったらしい」
静かで落ち着いた人の声がした。
「あと十日ほどで花火大会。ふざけたほどに無用な知識だな」
俺は場違いな声の主を見あげる。旧知の男がいた。
「レイモンド、生きていたのか? お前は南京 に幽閉されたのでは」
毒も傷も負った俺は、なおも立ちあがろうとする。腕から落ちる。
「マーク、ひさしぶりだな」
張麗豪 が静かな目を向ける。「なのに、もうお別れだ」
麗豪は眼鏡の銀色の縁をあげ、手もとの古びた書を閉じる。あれは……。
「魔道具は、奥深くに閉じこむべきものではない」
べつの声がする。「それを使いこなす者のためにある」
蜜柑色の仏僧服の男が麗豪の脇に立つ。この剃りあげた頭の魔道士は、仲間を二人殺した。……式神は、すべてこいつが倒した。
復讐の誓を。俺の力でかなうはずない。
「ふふ、この方が日本にいることは、まだ老祖師に内緒なの」
姿を見せぬ異形が俺を笑う。
「だから、あなたの口を閉ざさないとね」
逃げられるはずない。この声が放った黒い螺旋は、隊長のチャドを四散させた。実弾を用いた者もいたが、魔道士さえもはじき返した。
「峻計さん、これのことか?」
骸をあさっていた隻腕の大男が電話を取りだす。
「そう。ありがとう」
おぞましくも麗しい異形が姿をあらわす。
「ふふ、セキュリティーを消すなんて些細なことよ」
異形の女は、魔道団の厳重にロックされたスマートフォンを操作しだす。
「たいした情報はなさそう……。『台湾の式神を追撃。上空より少女を確認。おそらくは王思玲』……ふふ」
異形の顔に身も凍る笑みが浮かぶ。
「このしぶとさはさすがよ」
もはや誰も川砂利に這いつくばる俺に興味を見せない。
「峻計! 松本哲人がいたよ!」
あどけない声に、娘の顔を思いだす。……力もなき魔道士が子どもなど持つべきではなかった。巨大なカラスが橋の欄干にとまり、河原の化け物達を見おろしている。
「麗豪、頼む」
俺は鵺退治の際に一度会っただけの男にすがる。俺は死ぬわけにはいかない。この惨状を上の者に伝えなければ――。もはや建前は不要だ。もう一度娘を見たい。なのに男は背中を向ける。
「ふふ。案じなくていいわ」
飛び蛇を首に巻かせた異形の女が俺を見おろす。
「あなた達の抜け殻は、ちゃんと消してあげるから」
金鉱を掘りあてた笑みを隠そうとせぬまま、女も俺に背を向ける。
「片づけたら、俺は麗豪さんと動くぜ。連中が奴を足どめしているからな」
遠慮なき大声が響く。
「火焔嶽!」
隻腕の男の手に、また魔道具が現れる。人の手をした槍先の、猛毒をまき散らした五叉槍が。異形が槍をふるう。
赤い炎が川原を舐める。仲間の屍を燃やしていく。この火は強すぎて、延焼した草野原が本来の炎で燃えだす。異形の炎と本物の火で赤く照らされる。地に伏す俺にすら熱が伝わる。
隻腕の男が俺に気づく。凶相に笑みを浮かべ槍をかざす。最後に残った俺は、生きながら燃やされる。
次回「あてなきリスタート」
「振り向くな!」
こいつは戦場で躊躇しやがった。「逃げるのではない。助けにいくのだ!」
せめて
鋼鉄の蹄音が遠ざかっていく。とりあえずは、若者を生き延ばせた。あとは……。
俺は周囲を見渡す。河原に漂う紫色の煙はなおも消えない。毒を浴びた二人はもはや動かない。おぞましい槍が、また一人の心臓をつらぬく。背高泡立草の群落にひそんでいた者が、人の形をした魔獣へと扇を向ける。だが暗黒の光を受けて、体を引きちぎられる。
これで残るは俺だけ。地獄の責め苦の具現。
「白笛川(しらふえがわ)……、『笛も知らず』が語源の暴れ川だったらしい」
静かで落ち着いた人の声がした。
「あと十日ほどで花火大会。ふざけたほどに無用な知識だな」
俺は場違いな声の主を見あげる。旧知の男がいた。
「レイモンド、生きていたのか? お前は
毒も傷も負った俺は、なおも立ちあがろうとする。腕から落ちる。
「マーク、ひさしぶりだな」
麗豪は眼鏡の銀色の縁をあげ、手もとの古びた書を閉じる。あれは……。
「魔道具は、奥深くに閉じこむべきものではない」
べつの声がする。「それを使いこなす者のためにある」
蜜柑色の仏僧服の男が麗豪の脇に立つ。この剃りあげた頭の魔道士は、仲間を二人殺した。……式神は、すべてこいつが倒した。
復讐の誓を。俺の力でかなうはずない。
「ふふ、この方が日本にいることは、まだ老祖師に内緒なの」
姿を見せぬ異形が俺を笑う。
「だから、あなたの口を閉ざさないとね」
逃げられるはずない。この声が放った黒い螺旋は、隊長のチャドを四散させた。実弾を用いた者もいたが、魔道士さえもはじき返した。
「峻計さん、これのことか?」
骸をあさっていた隻腕の大男が電話を取りだす。
「そう。ありがとう」
おぞましくも麗しい異形が姿をあらわす。
「ふふ、セキュリティーを消すなんて些細なことよ」
異形の女は、魔道団の厳重にロックされたスマートフォンを操作しだす。
「たいした情報はなさそう……。『台湾の式神を追撃。上空より少女を確認。おそらくは王思玲』……ふふ」
異形の顔に身も凍る笑みが浮かぶ。
「このしぶとさはさすがよ」
もはや誰も川砂利に這いつくばる俺に興味を見せない。
「峻計! 松本哲人がいたよ!」
あどけない声に、娘の顔を思いだす。……力もなき魔道士が子どもなど持つべきではなかった。巨大なカラスが橋の欄干にとまり、河原の化け物達を見おろしている。
「麗豪、頼む」
俺は鵺退治の際に一度会っただけの男にすがる。俺は死ぬわけにはいかない。この惨状を上の者に伝えなければ――。もはや建前は不要だ。もう一度娘を見たい。なのに男は背中を向ける。
「ふふ。案じなくていいわ」
飛び蛇を首に巻かせた異形の女が俺を見おろす。
「あなた達の抜け殻は、ちゃんと消してあげるから」
金鉱を掘りあてた笑みを隠そうとせぬまま、女も俺に背を向ける。
「片づけたら、俺は麗豪さんと動くぜ。連中が奴を足どめしているからな」
遠慮なき大声が響く。
「火焔嶽!」
隻腕の男の手に、また魔道具が現れる。人の手をした槍先の、猛毒をまき散らした五叉槍が。異形が槍をふるう。
赤い炎が川原を舐める。仲間の屍を燃やしていく。この火は強すぎて、延焼した草野原が本来の炎で燃えだす。異形の炎と本物の火で赤く照らされる。地に伏す俺にすら熱が伝わる。
隻腕の男が俺に気づく。凶相に笑みを浮かべ槍をかざす。最後に残った俺は、生きながら燃やされる。
次回「あてなきリスタート」