三十九の二 幼き翼

文字数 2,409文字

「魔物のおじさん。アンディさんの笛を鳴らしたのはおじさんですか?」
 巨大な影が言う。これは? 
「……つまり、おじさんがアンディさんを殺したの?」

 風圧を感じた。巨大なサキトガが巨大な羽根にはたかれる。衝撃で俺を手放す。眼下に暗い林が広がっている。この高さから落ちたら痛みもないまま即死だ。
 サキトガの足らしき闇にかろうじてしがみつく。

『大鷲の風軍? 来るのは夜半のはず?』

 俺が心に浮かべたばかりのことを、使い魔が念押しする。
 サキトガの足の爪に乗る。はやく地面に降ろしてくれ。……南の空が荒れている。龍だろうか? 夕立だろうか?

「我こそが梁大人の式神である風軍」
 大ワシがサキトガの前に飛んできた。灰風達の倍以上ある。これで雛かよ。
「ドロシーちゃんはどこですか? 小鬼の印が隠れちゃいましたので、教えてくれたらおじさんを見逃してあげます」

 サキトガがギギギと笑う。

『はやく香港に帰って、主様になでなでしてもらいたいんだね。おじちゃんこそ、坊やがかわいくて殺したくないよ。梓群ちゃんはあっち、かな?』

 巨大な手が夜景となった盆地を指さす……。俺は、なんて高さに命綱もなしでいるのだ。それより、

「嘘だ! ドロシーは山にいる!」風軍へと叫ぶ。「俺が道案内する! ……だから俺を拾え!」

 サキトガの前で長考などできない。魔物の爪から手を離す。……拾ってください。

「夏奈ぁ!」
 保険で龍も呼ぶ。360度見渡せる空に嵐の兆候などない。静岡方面だけが――。自由落下の速度が上がっていく。激突の瞬間に体をさする準備をする。
「夏奈……」
 あの笑顔を思いだそうとする。

「ただの人間が乗れるかな」
 風軍の声が真下で聞こえ、俺はおおきな羽毛の上にふわりと着地する。
「乗ったの! ……もしかして哲人? それとも人に戻ったドーン?」

 なぜに俺達の名前を? 風軍が巨大な羽根を傾けて、俺は逆側に転がる。ススキほどの羽毛をまとめてつかむ。
 羽根を広げた体躯は、俺の実家の敷地よりでかい。首もとへと這っていく。……サキトガがいない。妖魔は姿を消せる。西の山脈の輪郭がかすかにだけ見える。じきに完全なる新月だ。とにかく、みんなのもとへ。

「風軍、低く飛んで。ここからだと地形が分からない」
 真夏の盆地の夜景しか分からない。大鷲が高度をさげていく。白笛川が見えた。「川沿いに道があるよね。そこを北へとずっと進もう」

ギギギ

 サキトガの笑い声。闇が俺をつかむ。羽毛から手が離れかけるが、風軍が体を旋回させる。夜景が反転して爪から逃れられた……。背中、えぐれているよな?
 ストレッチみたいに背をさする。体が柔らかくて助かった。

「そ、速度をあげよう」
「あのおじさんをやっつけてよ」

「痛い!」風軍の悲鳴が空を揺らす。「姿を見せないなんてずるいよ」

 いまのサキトガは、巨大な羽根をはやした手足をもつ魔物。闇のようにおぼろげな姿。

「ジグザグに飛べる?」
 俺のアドバイスに、アクロバティックな飛行に替わる。目がまわるし、飛行機酔いだ。羽毛にもぐりこみ、
「そろそろだから、もっと低く飛んで。速度も落として」
 吐き気をこらえる。

「低空飛行は危ないよ」

 風軍が左右に揺れながら滑空する――。右へと傾いたとき、真っ暗な林の中に道しるべのような術の光が点在するのが見えた。

「ドロシーちゃんの朧だ」

 風軍も気づく。急降下する。俺は大ワシの頭へと匍匐前進する。

『悪いけど、お前は五百一人目に変更』

 サキトガの声はどこから聞こえた? ならば彼女がさきに殺される。

「ドロシー!」風軍の首もとから叫ぶ。

 なにも起きない。サキトガはどこにいるのか、それすら分からない。

「もっと下がって」

 風軍にお願いする。
 断崖に沿った山道だ。彼女は先頭の灯し火手前にいた。
 一人だけだ。

「激突しちゃうよ」
 風軍はひるんでいる。それでも降りていく。ドロシーは闇のなかを走っている。

「ドロシー!」俺は絶叫する。「闇を消せ!」

 彼女が見上げた。七葉扇をひろげるのも見えた。でも大ワシは上空へと羽ばたきを強める。その風切り音の向こうに聞こえた。

「灯せ」
 巨大な燈火が暗黒の妖魔をはじき飛ばす。彼女がまた扇を振るう。
「灯せ」

 照明弾が破裂して、ドーム状に山中が照らされる。木霊の悲鳴が聞こえた。俺を乗せた大ワシが上空で旋回する。光の中へと急降下する。
 彼女は自分の作った太陽に手をかざして空を見ている。……光に姿をさらされた巨大な魔物を見ている。

『か弱い梓群。もう会えたね』
 まぶしいほどの明かりの中で、サキトガはおぼろな闇になる。
『……ほんとかよ。お前は底抜けに無茶苦茶だな。リンチじゃ済まないぞ』

 まず狙われるのは俺とドロシーどっちだ? ……横根も奪還される、なんて心に思ってしまった。奴は横根を狙うぞ。

「風軍、ドロシーを拾え」

 その羽根で横根を目ざす。風軍が顔を背に向ける。瞳にもくちばしにも面構えにも、あどけなさなどない。

「もっと広くないと無理だよ」

 幼いのは声だけで、俺の命令をたやすく拒絶する。……風の匂いが変わる。日没だ。いま新月を迎えた。

「灯せ」
 ドロシーが扇を乱雑に振る。
「もっと灯れ!」

 新月の森は目を開けられないほどの光に包まれる。巨大な影がひるんでいる。

「着地しなくていい」風軍に命じる。「俺が持ちあげる」

 大ワシの太い首に足と右手でしがみつく。左手を突きだす。人の目に見えぬ巨大な猛禽が羽根をたたみ地面へと降下する。
 速度はゆるまない。風が叩きつけてくる。

「ドロシー!」俺の声など風に飛ばされていく。

 なのに彼女は見上げる。俺の声は彼女には届く。
 伸ばした手を彼女が握る。風軍が右に傾き、ドロシーの体が宙に浮く。そのまま引き寄せる。上昇する巨大な体の上を二人して転がる。お互いに手は離さない。背中の羽毛にしがみつき、彼女を抱き寄せる。……とりあえず落ちずに済んだ。




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