二十二の三 その手に居残るもの

文字数 3,726文字

 とてつもないことを思いだしてしまった。
 シャツの中を覗く。人であるへそだけだ。俺が腹に隠し持っていたもの――横笛は横根に預けた。犬笛と鷹笛はシノに返した。独鈷杵はある。札束もある。天珠もある。スマホは復活した。死者の書は破いて捨てて白虎が拾ったらしい。
 四玉の箱だけがない。琥珀に連絡する。

『箱? 知るはずないだろ』
『峻計に奪われやがったな、残念だなチチチ』

 思玲の式神達はドライに答えるだけだった。……箱は俺だけのものでないから、俺と共にしてくれない? 壊れた巣であろうと何より守るべきものなのに。抵抗もできずにやられた俺がすべて悪い。
 俺は異形で殺されて冥界にしがみつき、異形として復活して、人としてここに呼ばれた。ならば川田も同じ道順をたどれば人間へ戻れるだろうか。
 無理だろうな。だって俺は異形である以上に人だった。ドロシーはもちろんだ。川田は誰もが口をそろえるように、本物の異形だ。

『そうそう。九郎と話し合ったけど、念のため遠回りしてそこへ向かう。哲人達を殺したのは、生き返ったことに気づきそうな連中ばかりだから撒く。じゃあな』

 俺の回答を聞かずに天珠を切られる。おそらく琥珀達が正しい。いまのドロシーは戦いを望もうが戦えない。衰弱しきったドロシー……。
「おげっ」と弱りきったドロシーが俺に向けて吐こうとする。何もでない。

「やっぱり私は歩けない。ごめんなさい」
「休んでいなよ」

 どんなに焦ろうが、(キササゲ)の花よりも白い顔のドロシーを置いていかない。というより彼女こそが大事だ。俺を連れ戻してくれたのだから。
 もう一人の『花咲き乱れる夏』は俺と生死を共にしてくれた――夏梓群――夏に咲き茂る樹上の花達――過去の名はサマー・ボラー・ブルート。
 騙られただけだ。

 さえずりと藪から虫の声がするだけの静寂。俺は何も考えたくない。ただただドーンと川田と横根と夏奈と合流したい……。囚われの思玲は無事か? 現金は百万円近くある。

「アプリでタクシーを呼べる。民家まで降りよう」

 血まみれのシャツの若者とチャイナドレスの蒼白な女。乗車拒否どころか通報されそうだけど。

「ごめんなさい。タクシーも電車も無理。生理でなくても今の体調で人となんて無理。でも下着は買いたい。何も穿いてないのにスカート丈が短いから余計に寒い。……いま吐きかけたのは哲人さんのせいじゃないから勘違いしないでね。哲人さんが生きていて嬉しいのに、抱きつく体力もない」

 そんな言葉を返されてしまう。なおさらスリットに目を向けさせてしまうドロシーは、俺にだけ何とか接せられる。

「人でも魔道士は平気だよね?」
「みんなはオーラが違う。資質ある人同士だとすぐに気づく」
「いまの俺からオーラを感じない?」
「まったくゼロ」

 俺はただの人間のままだった。それはそれで惜しい気がしてきた。ドロシーや思玲と別世界と断言されたようでちょっとだけ寂しい。……だったら天珠がなぜに使えるのか? 前回より俺は異形に近い人なのだろう。だったら魔道士よりも化け物だ。夏奈や横根と同じだ。ドーンよりはましだけど。
 ドロシーはまだうずくまっている。

「俺がやられたあと、ドロシーは香港に戻ったの?」
「うん。老大大に哲人さんを連れ戻すのをお願いするために――冥界へ行ってもらうために頭を下げてきた。王姐が老大大の養子になるよう説得することを条件にされた。その時は哲人さんも一緒にお願いね」

 国境を越えての養子縁組は法律的に複雑だと思うけど、やはりあそこが冥界だったのか。そして周婆さんに頼んだのはやはりドロシーだったのか。
 ……俺を永遠に異形の状態で呼び戻そうとしたのか。そして、あの人はドロシーに頼れと言った。実際にその通りになった。

「交換条件のもう一つが、みんなにも頭を下げることだった。
もう二度と独断専行するなと臨時茶会で怒られた。愛する人が死んだのに私も怪我しているのに、後ろ手に縛られて床に座らされて、いままでで一番怒られた。お爺ちゃんにまで怒られた。レジーさんには槍を突きつけられた。私は泣きながら謝った。哲人さんが死んだのを思いだしては更に泣いた。
だけど風軍を脅して一人で日本に戻ってきた。一旦帰国のときと同じく寒くて寒くて死ぬかと思った。
風邪ひいたまま一人で影添大社に宣戦布告して負けた。風軍がやられちゃった……」
 滅茶苦茶すぎるドロシーが嗚咽しだす。
「あの子は法董の輪っかにやられた。かすっただけなのに……麻卦め。内臓が気持ち悪いよ。前よりもずっと具合悪い」

 生き返ったことを言っているのだろうけど、溺死した俺がカムバックしたのとわけが違う。俺のはいわゆる臨死体験だ。経験した人だって多少はいるだろうけど、ドロシーのは別格だ。異形の俺が人に戻るように……。マジで現実世界にいない人かも。

「以前も死んだのだよね?」
「うん。十五歳のときに風軍の母親に食べられた」

 別格の話が始まろうとしている。

「辛かったら喋らなくていいよ」
「ううん。私はお爺ちゃんと組んで狩りをした。私の式神を作るためにゴビ砂漠まで出かけた」

 風軍はモンゴル出身だったのか。「おえっ」とまたドロシーがえずく。

「また今度聞かせてよ」
「いいえ。モンゴルは人が少ないので私でも平気だった。たまにいても馬に乗るか相撲しているかだけだった(ほんとかよ)。
……私は最後の最後に抑えつけるのを躊躇した。さすが猛禽。弱っていたのに一瞬の隙を突いた。私を丸飲みした。さすが異形。獲物を確実に殺すためにお腹の中には紫毒が充満していた。真っ暗闇で即死したみたい。
激怒したお爺ちゃんが母鳥を殺した。お爺ちゃんが必死に祈ったおかげで私の呼吸は戻った。
それから紫毒がちょっと平気になった。閉ざされるほどに力がちょっとだけ増すようになった」

 うつむいてぶつぶつ言っていたドロシーが、ようやく俺へ顔を向ける。

「でも風軍はお爺ちゃんの式神になっちゃった。……死んでないよね?」
「俺達みたいに生き返ってるかもね」

 適当な気休めを口にしておく。……過去のは普通の臨死体験ぽいな。化け物のワシに飲み込まれて消化される前に救出されて生き返るなんて、他にも一人ぐらいいるかもしれない。日暮里で殺されて香港に人でなく現れて、山奥の社で無傷の人になって蘇るよりは。

「哲人さんと出会ったから生き返れた」
 青い顔のドロシーが目をつむったまま告げる。
不是(ぷーしー)。王姐がこの護符を持たせてくれたからだ。……この護符は戦いで使えなかった。輝かなかった。でも松葉杖のリミッターが吹っ飛んだ。なので大蔵司の神楽鈴や麻卦の扇に太刀打ちできた……大鹿が封印されていたなんて知らなかった。一頭殺してしまった、ううう……。でも哲人さんが生きている、ううう……」

 ドロシーは思いだしては嗚咽するだけだ。彼女は基本静かだけど、反動みたいに喋るときは喋る。殺されて生き返ったばかりならば感情の起伏は無理ないだろうけど……、夏奈はこれ以上だったかも。台湾の山中での二人きりを思いだす。
 もう一人の『花咲き乱れる夏』を――桜井夏奈――夏に咲き誇る桜――過去の名はフロレ・エスタス。本人がほぼ認めているが騙されているだけだ。
 どちらも恐らくたぶん。

「私は人間だよね」ふいに彼女は言う。「もう魄じゃないよね」

 俺は煙のように漂う六体を思いだす。

「ドロシーはそんなじゃなかった。はっきりと見えた」
「それは魂もあったから。哲人さんが呼んでくれたから。さもなければ私の魂は地の底に引きずられていた」

――人でも魂でもない。魄だ。死して朽ちぬ肉体だ

 彼女の祖父の言葉を思いだす。

――こいつらは妖術に浸かった魔道士のなれの果て

「哲人さんのおかげだ。だから私はもう死にたくない。癒しを授けた哲人さんを守るために死ねない。だから見せてあげる」

 魂を持つ魄であった人が俺の肩に頭をもたれる。目を逸らしたままでつぶやき続ける。

「哲人さんが人のうちに見せておく。魄のときはなかった。生き返って戻ってきた」

 俺の前に差しだした右手のひらが輝きだす。凶悪な刃でできた輪っか……異形がひれ伏す冥神の輪。

「奪ってやった。死んだのに取り返されなかった。つまり哲人さんの青龍の光のように、この輪は私を選んだ。そしてもうひとつ隠し持っている。その所在を哲人さんだけが聞いてこなかった」

 その手から白銀の輪は消える。

「あの後に溶けて消えたとみんなに嘘ついた。あれだけ光をまき散らせばなって王姐さえ信じたけど、実際は余計に光は強まっている。……弾はうずいていたのに」

 彼女は左手を自分の前にひろげる。

「一対一なら撃てたのに……でも逆によかった。奴は異形のくせに人間を装う。川田さんと正反対。峻計よりも人よりも忌々しい。だから倒す。折坂を消滅させる」

 その華奢な手に紅色の小ぶりな拳銃が現れる。銃口の奥が白銀に光っている。
 固唾をのむだけの俺にもたれたままで。

「弾はひとつだけ。だから哲人さんを守るために使う。これに頼らず折坂を殺してみせる。私は死ぬと強くなれるみたいだから、へへ」

 俺のなかの(かす)かな龍がやけに怯える。あのお寺のときよりも、はるかにずっと。




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